真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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東京裁判NO8 「南京大虐殺」検事団の立証②

2020年07月28日 | 国際・政治

 下記は、南京で日本軍に捕らえられ、死の恐怖に直面し、九死に一生をえた被害者三人の証言、および、南京大学歴史学教授マイナー・シール・ベーツ博士と北京英国公使館区域警察署長を勤めていたピーター・ジェー・ローレンス氏の証言、それに、太平洋戦争のビルマ、雲南ルート閉鎖作戦で、日本軍の避難民虐殺事件を語る徐節俊氏の証言です。
東京裁判 大日本帝国の犯罪 上」朝日新聞東京裁判記者団(講談社)の「第五章 戦慄・南京大虐殺」で「惨・惨・惨」と題された文章の中の「生き残った市民の恐怖」と「大学構内で連日の暴行」から抜粋しました。

 似たような日本兵による残虐行為の証言は、中国では数え切れないほど集められているということですが、見逃せないのは、それを裏づけるような日本兵の証言や日本側証拠資料も少なくないということです。
 例えば、『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言』松岡環編著者(社会評論社)には、
徴発と称する略奪、放火、強制労働、現場では豚でも鶏でも盗るのは当たり前”というような内容の証言その他が取り上げられていますし、”捕虜を貨車ごと河に落としたり、倉庫ごと燃やした”とか、”銃殺は城外のあちこちで見た”というような南京陥落後の集団虐殺についての元日本兵の証言も、たくさん取り上げられています。

 また、「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち 第十三師団山田支隊兵士人陣中日記」小野賢二・藤原彰・本多勝一編(大月書店)には、
 歩兵第65連隊第4中隊・第3次補充、宮本省吾少尉の陣中日記が取り上げられており、その12月16日には、
警戒の厳重は益々加はりそれでも午前10時に第2中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも束の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后3時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜兵約3千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。
 とあります。似たような捕虜殺害の陣中日記の記述も、たくさん取り上げられているのです。

 さらに、『南京戦史資料集』(偕行社)や『南京戦史』(偕行社)には、様々な資料が集められているのですが、第十六師団長・中島今朝吾陸軍中将の日記には”捕虜七名アリ直ニ試斬ヲ為サシム”とか”捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシ…”という記述とともに、”佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約一万五千…”という、下記のような記述があるのです。
12月13日  天気晴朗 
一、天文台附近ノ戦闘ニ於テ工兵学校教官工兵少佐ヲ捕ヘ彼ガ地雷ノ位置ヲ知リ居タルコトヲ承知シタレバ彼ヲ尋問シテ全般ノ地雷布設位置ヲ知ラントセシガ、歩兵ハ既ニ之ヲ斬殺セリ、兵隊君ニハカナワヌカナワヌ
一、本日正午高山剣士来着ス
   捕虜七名アリ直ニ試斬ヲ為サシム
   時恰モ小生ノ刀モ亦此時彼ヲシテ試斬セシメ頸二ツヲ見事斬リタリ
一、大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタレ共千五千一万ノ群集トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ唯彼等ガ全ク戦意ヲ失ヒゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノヽ之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ
 部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ
 十三日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ乍併戦勝直後ノコトナレバ中ゝ実行ハ敏速ニハ出来ズ、斯ル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ参謀本部ハ大多忙ヲ極メタリ
一、後ニ到リテ知ル処ニ依リ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約一万五千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊ガ処理セシモノ約千三百其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約七~八千人アリ尚続々投降シ来タル
一、此七~八千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ百 2百ニ分割シタル後適当ノケ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ
一、此敗残兵ノ後始末ガ概シテ第十六師団方面ニ多ク、従ツテ師団ハ入城ダ投宿ダナド云フ暇ナクシテ東奔西走シツヽアリ
一、兵ヲ掃蕩スルト共ニ一方ニ危険ナル地雷ヲ発見シ処理シ又残棄兵器ノ収集モ之ヲ為サザルベカラズ兵器弾薬ノ如キ相当額ノモノアルラシ
 之ガ整理ノ為ニハ爾後数日ヲ要スルナラン
 とあります。

 そして、中島今朝吾師団長のもとにあった 歩兵第三十旅団隷下の歩兵三十八聯隊副官・児玉義雄氏の回想記事には、
 ”南京1~2キロ近くまで近接して、彼我入り乱れて混戦していた頃、師団長副官から師団命令として『支那兵の降伏を受け入れるな、処置せよ』と電話で伝えられ、とんでもないことだと大きなショックをうけた。師団長中島今朝吾中将は豪快な将軍で好ましいお人柄と思っておりますが、この命令だけはなんとしても納得できないと思っております。部隊としては実に驚き困却しましたが、命令止むを得ず各大隊に下達しましたが、各大隊からはその後何ひとつ報告はありませんでした。”
 と書かれており、

 また、歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』の12月13日には、
八、午後二時零分聯隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク
    左記
  イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スヘシ
    其ノ方法ハ十数名ヲ捕縛シ逐次銃殺シテハ如何
  ロ、兵器ハ集積ノ上別ニ指示スル迄監視ヲ附シ置クヘシ

 ・・・”
 などとあるのです。

 どうして、こういうことになったのかについては、前頁でとりあげた松井石根大将の「支那事変日誌抜粋」の「我軍ノ暴行、奪掠事件」と題した文章に書かれている通りだと思います。
 その一つが、”上海上陸以来の悪戦苦闘”が著しく、多くの戦友を中国兵に殺されて、”敵愾心”が強烈であったこと
 もう一つが、”急劇迅速ナル追撃戦”で、休みも補給もほとんどなく、食糧は現地調達するしかなかっため、略奪にならざるをえなかったこと。したがって、現地住民でも抵抗する中国人は、中国兵同様、容赦なく射殺したり、刺殺したりしながら南京に至ったこと
 当然、日本軍は捕虜を養う余裕などなく、捕虜は殺すしかなかったことがあったと思います。

 ところが日本には、東京裁判における被告(戦争指導層)の弁明を受け継いでか、多く被害者や関係者の証言、および、文書資料を無視して、”南京大虐殺は連合国の創作”とか、”南京大虐殺は東京裁判がでっち上げた”というようなことをくり返している人たちが少なくありません。

 また、毎年九月一日には、東京・横網町公園の追悼碑前で、関東大震災の混乱の中で虐殺された朝鮮人や中国人を追悼する式典が開かれているということですが、最近は、その朝鮮人犠牲者追悼式とほぼ同時刻、公園内のすぐ近くで、「真実の関東大震災石原町犠牲者慰霊祭」が行われるようになり、朝鮮人犠牲者追悼式へのあてつけのように、「六千人虐殺の濡れ衣を晴らそう」とか、「六千人虐殺は捏造・日本人の名誉を守ろう」とか大書した看板を掲げ、「虐殺はでっち上げだ」などと大音量で演説するのだといいます。
 在特会(在日特権を許さない市民の会)と協力関係にある「そよ風」という女性グループが、主催団体の一つだそうですが、そういう人たちは、歴史の事実はどうでもよいのではないかと思います。日本人にとって不都合な事実をなかったことにするため、そういう行事を潰しにかかっているのではないかと思います。慰霊祭実施団体の関係者が「目標は両方の慰霊祭が許可されないこと」などと言っていることに、そうした姿勢があらわれているように思うのです。

 そしてそれは、東京裁判における日本側被告弁護団の弁護方針や、日本軍「慰安婦」問題および徴用工問題における安倍政権の姿勢ともつながっているように思います。大事な問題は受け答えせず、事実を明らかにするような議論は回避して、不都合な事実は「なかった」、「なかった」とくり返す、それでも真実を語ろうとしたり、語り継ごうとする人がいれば、脅してでも黙らせる。年月を経れば、人は忘れ、歴史は修正される、そういう戦略があるのはないかと思います。
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                  第五章 戦慄・南京大虐殺

                     惨・惨・惨


 生き残った市民の恐怖

 ウィルソン、許伝音両証人とともに、中国からはるばる証人として来日した人に、尚徳義(ショウトクギ)、伍長徳(ゴチョウトク)、陳福宝(チンフクホウ)の三人がある。この三人はいずれも日本軍の南京入城に際し、多数の中国人とともに、日本軍に捕らえられ死の恐怖に直面し、九死に一生をえた運命の人達である。その陳述は次の通り。

尚徳義氏の陳述 
「私は1937年、上海路革新巻一号(難民地区内)に住んでいた。その年の十二月十六日午前十一時ごろ、日本兵隊(中島部隊の兵かと思われる)に拘引された。同時に拘引されたのは、私の兄の徳仁(元嘉興航空駅書記を勤めていた)と従兄の徳全元(絹物商)および氏名不詳の隣人五人だった。
 ニ人ずつ 手を縛り合わせ、揚子江岸の下関に連行された。そこには千人以上の男が拘引されていた。私達の前、四、五十ヤードの所には十余基の機関銃が私達に面していた。四時ごろになると、一人の日本将校がやって来て、私達に対して、機銃掃射を加えるように、日本兵士に命令を下した。
 私は機銃掃射が始まる直前に、地上にたおれた。そのあとから私の身体の上に、死体がバタバタと覆いかぶさって倒れて来た。私は気絶していたが、やがて私は積み重ねられた死体の山からはい出し、やっとのことで逃げ帰ることができたのだ」

 伍長徳氏の陳述
「私は三十八歳で、中国南京の食料品商である。1937年(昭和12年)十二月および、その以前、長年にわたって南京市の警官をしていた。私はいまだかつて一度も中国軍に入ったことはない。南京陥落の直後、私は三百人ほどの警官とともに司法院にいたのだ。十二月十五日、突然日本兵がやって来て、司法院にいるすべての人に同行を命じた。国際委員会から二人の人が来て、これ等の人々は軍とは関係のない人だと告げたが、これを聞き入れず、われわれを西大門へ連れて行った、
 われわれがそこにいくと、数台の機関銃が門の外側と両側にあった。門の外の運河には橋がかけてあった。われわれは銃剣を突きつけられて、百人くらいずつ一団となって門を押し出された。門を出るやいなや、機関銃の掃射を喰い、死体は坂をごろごろ転がって、ついには運河に落ちこむというわけなのだ。私達が門の通過を命じられたとき、私は機関銃の発射の直前に、うつ伏せになってしまった。これで機関銃弾はまぬがれることが出来たが、日本兵は私のところにやって来て、グサリと銃剣を私の背中に突き刺したのだ。私は苦しさに耐えられなかったが、死んだように倒れたまま動かなかった。
 日本兵は死体にガソリンをかけて帰ってしまった。もう夕暮れで、あたりは暗くなっていたが、死体は河岸に散乱して、凄惨な光景をしていた。しばらくして、私は死体のなかからはい出して、近所の空家に隠れていた。そこに十日ほども居たが、付近の人が毎日私に一椀の粥を届けてくれた。私は市内に潜入し、大学病院へ行って、ウィルソン医師に手当てをうけたのだ。私は五十日ほど入院してのち、蘇北部の郷里へ帰ったが、あの事件のとき門の前で射殺されたのは約二千名であった」
 
 陳福宝氏の陳述
「日本軍の南京入城第二日、すなわち十二月十四日のことだった。日本軍は避難地域から、中国人三十九名をつれて行った。取り調べの結果、額に帽子の跡のあるもの、手に銃を扱って出来たタコのあるものは射殺された。私は助かったが、そのとき三十七名が射殺された。しかも、その大部分は民間人だった。死骸は池の中になげこまれたままになっていたが、四ヶ月後にようやく紅卍会の手で埋葬された。これは米国大使館の付近でおこなわれたことであり、しかも白昼のできごとだったのだ。私はまた同じ日の午後、三人の日本人が十六歳のオシの娘を学校の校舎で、しかも私の目前で強姦するのを見た。
 十二月十六日、私はふたたび日本兵に捕えられた。そして多数の壮健な若者とともに、群集の中を引き立てられ、ここで相撲に負けると銃剣で殺されてしまうのだった。
 私はまた日本兵が強姦するのを見た。これはある写真師の夫人だった。日軍入城の第三日目のこと、日本兵の一人がわれわれのいる家にやって来た。そして人々をみんな追い出して、写真師の夫人だけを部屋に連れこんだ。私は隣室でそれを見ていた。その夫人はそのとき妊娠していた。日本兵は十分ほどして出て来たが、夫人は部屋を出るとき泣いていた」

 次いで徐節俊証人が証言台に現われた。徐証人は太平洋戦争のビルマ、雲南ルート閉鎖作戦で、日本軍がサルフィン河畔(怒江)でおこなった避難民虐殺事件を初めてとり上げた。
「私は三十三歳、東洋開拓公社の総支配人である。この会社の本社は以前雲南省の昆明にあった。
 1938年以来、私は織物を取り扱うために、この会社に関係していた。
 1942年五月、ビルマ──雲南公路を旅しているとき、橋を爆撃されて、交通を遮断されたことがあった。ビルマからの中国人避難民を満載したトラックや自動車など、約三百台はサルフィン河を渡ることが出来ず困っていた。そして、ともかくこのトラック、自動車の一団は一応分散して、別々の地点から渡河することになったのだ。
 私は約七十人からなる一団に加わっていたが、不幸にして日本軍に捕らえられてしまった。われわれは一人残らず略奪された。私自身も万年筆と二万ルピーの金を奪われた。
 日本人将校は私達の一団を二分し、一団を山岳地帯に連れて行き、他の一団を川岸に座らせた。私達は川岸で円形に座らせられ、将校は私達に機関銃の掃射を命じた。私はいち早く、地面に付せて動かずにいた。私の両側の男はバタバタとなぎ倒されて、死体が私の上に重なって覆いかかって来た。ちょうどそれは正午ごろのことだったが私はジッと動かず、午後の六時まで死体の中にうずくまっていた。翌朝私は付近の道端に千人以上の死体が転がっているのを見た。
 その日の午後だった。私は四人の日本兵が二人の女を山に連れて行くのを見た。女が帰って来たとき、二人とも泣いていた。そして強姦されたのだと言っていた。三日目に私は付近の地理に詳しい土地の者数人と一緒に逃げ出してきたのだった」

 大学構内で連日の暴行
 南京大学歴史学教授マイナー・シール・ベーツ博士と北京英国公使館区域警察署長を勤めていたピーター・ジェー・ローレンス氏が出廷、南京における、日本兵の暴行と華北におけるアヘン、麻薬の販売などにつき恐怖の事実をつぎの様に証言した。
「1937年秋、南京では日本軍の入城を予期して、国際委員会を設け、避難民のために、家や食糧を準備した。ところが日本軍の占領後、意外な残虐事件が起ったのだ。幾多の中国民間の人が銃殺され、城内だけでも一万二千におよぶ中国非戦闘員が虐殺され、ある中国兵の一群は城外で武装解除され、揚子江のほとりで射殺された。われわれはこの死体を埋葬したが、この数は三万人を越えていた。そのほか揚子江に投げこまれた死体はかぞえ切れない。
 南京大学の構内にいた三万人の避難民のうち、数百人の婦人は暴行された。占領後一ヶ月間に、二万人におよぶこうした事件が国際委員会に報告された。占領当時から約五万の日本兵は市民から寝具、台所道具、食糧等を略奪した。
 この後、定期的建物の焼き払いがあり、ソ連大使館も焼き払われた。私は毎日南京の日本大使館へこれらの事件の報告を提出した。すなわち、十六日には南京大学の婦女子が連行されたこと、十八日には前夜金陵大学の六つの建物で暴行がおこなわれたこと。二十二日には私の家も六回にわたって略奪され、アメリカの学校の星条旗が二回引き降ろされ、引き裂かれ、踏みにじられたこと、なおこれらを阻止するために、日本側ではなんらの努力も払わなかったことなどを報告したのだ。
 戦慄すべきこれらの事件はニ月五、六日ごろ日本の高官が来るまでなんらの強い措置がとられたようには見られなかった。二月の六、七日ごろから状態はずっとよくなり、以後、夏までは重大な事件は起こらなかった。
 占領後、中国商人は火災や略奪で商店、商品を失い、その上、日本人商人に店舗や商品を接収され、交通、金融、銀行、米、綿、貴金属、建築材料の卸売りは日本人に独占されてしまった。
 日本商人は資本を提供せずに、利益の分け前をとり、しかも営業権を持っていた。統制は生産者にも消費者にも双方に行われ、それは極めて有害なものだった。
 当時南京市内の公定米価は一ピクル十八ドルないし二十ドルだったが、揚子江沿岸の生産地帯では八ドルから九ドル程度に、日本軍の専売機関によって抑えられていた。救済委員会は安い米を買おうとして交渉したが拒絶された。
 アヘンやヘロインは占領前十年間は公然と販売も使用もされていなかったが、占領後、1938年の夏から秋まで、行商人により、公然と避難民へ販売され、その後、これらの麻薬の販売は傀儡政府の営業となり、新聞にも広告が出るようになった」
 
 ローレンス氏の陳述要旨。
「私は英国人であり、三十七年間、主として、華北に住んでいある。1912年、天津英租界の警察検視官を勤めていたが、38年七月から41年末まで、すなわち私が日本軍に拘禁されるまで、私は北平の公使館区域警察署長兼外交委員会書記官をしていた。
 私は英租界にある、アヘン窟を監検したことがあるが、その取り調べによって、アヘン、麻薬は日本租界から購入されていたことが判明した。1935年以後、英租界には朝鮮人、日本人が入って来て、アヘン、麻薬の取り引きは非常に繁昌した。主として中国人、朝鮮人がその販売に当たっていた。アヘンは天津の下層階級の住むアヘン窟で販売され、モルヒネ、ヘロインは天津で売られていた。朝鮮人達が注射器で埠頭付近の苦力たちに注射していたが、その注射針は消毒さえされなかった」


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