真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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東京裁判NO6 世界制覇への野望、日独伊三国同盟

2020年07月20日 | 国際・政治

 日本が受諾したポツダム宣言には、 

吾等ハ無責任ナル軍國主義ガ世界ヨリ驅逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本國國民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ擧ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ

 とありましたが、日独伊三国同盟(日本國、獨逸國及伊太利國間三國條約)締結に至る大島大使、白鳥大使、リッペンドロップ独外相の裏面工作やヒトラー総統と松岡外相とのシンガポール攻撃に関する会談内容は、まさに、”世界征服ノ擧ニ出ヅル”ためのものであったと言わざるを得ないように思います。
 その後、日独伊三国条約の精神にのっとり、具体的に世界を二つの地域に分割して戦うという軍事協定を締結していますが、大島口供書は、

私が第一回の大使のときは、日独間に防共協定が存在し、また第二回の大使の時には三国条約が存在したので、大使として日独国交の維持、増進に努力することを当然の職務と考え、政府の政策にしたがってこの所信のもとに行動した。しかし、私はなにも彼らの思想ないし政策を全般的に肯定していた訳ではない。ことにナチスの人種理論、反ユダヤおよび反キリスト教政策または戦争中の占領地行政政策等に対して、強い反対意見を持っていた。もっとも外交上の慣習によりこの意見は発表しなかった。
 検察側の出した文書についてのべると、これらの会談記録はあとから記憶にもとづいて作成されたものに相違なく、その内容は必ずしも正確を期しえないと思う。なおリッペンドロップとの会談に関する文書については、大体が彼に都合よく書かれ、また話題にのぼっただけのことを、私が同意したように記されている場合すらある。…” 

 などとあります。当然かも知れませんが、自己弁護に終始し、本質的な論証を避けているように思います。”日本を底知れぬ「世界戦争」の泥沼へ追い込む原因となった”三国同盟の締結が問題なのに、大使としてどのように締結に向けて努力したのかということは、ほとんど語っていないように思います。

 それは、 白鳥駐伊大使も同様です。”…宇垣外相が官舎に私を招き、大使としてローマに行かぬかとたずねた。たしかに昇進には違いなかったが少しも興味はなかった”とか、”近衛首相は、将来外相となる資格をつけるためにも行ったらどうかと勧め、ストックホルムと違って今度はローマで、少しは面白いことがあるかも知れぬと言った。私はそのとき初めて、日本と枢軸諸国との接近ということが話題に上っていることを聞いた”とか”当時公が実際に欲していたのは、独伊との接近そのものよりは、日本側のこのようなゼスチュアが英米の極東政策に及ぼす影響にあると私は察知、ついに駐伊大使を引きうけた。しかし枢軸接近の件についてなんらの訓令も与えられなかった”とかいうのですが、こんな受け身の人間が大使に選ばれるのか、とちょっと信じがたいのです。
 特に、”翌年一月六日、チアノ伯(伊外相)はムッソリーニ首相に私を紹介、自ら通訳をつとめた。近衛内閣からも平沼内閣からもそのときまでなんら訓令を受けていず、信任状も提出されないため大使として行動する資格がなかった。だから、私はムッソリーニの話にときおり相づちを打つ以上口を出さなかった。ところがチアノ日記では、なんの間違いか故意か知らぬが、当時岳父ムッソリーニの言ったことを、私が言ったように記している節がある。…”と言うのも、三国同盟締結に至る自らの責任を回避するためではないかと思います。もっとも頑固な軍国主義者であるといわれた白鳥大使が、こんな受け身な姿勢の大使であったとは思えないのです。

 また、松岡外相が、ヒトラー総統に、
”…日本人は道徳的には共産主義者であるが、西洋から輸入した自由主義、個人主義、利己主義によってくつがえされたと説明して置いた。なお、これはとくにアングロサクソン人種に根本的な責任があり、伝統的な日本人の思想を取り戻すためにも、日本はアングロサクソンと戦わねばならない。・・・アングロサクソンこそ日独ソの共同の敵である”と、スターリンとの会談の際指摘しておいたなどと伝えていることも見逃せません。
 ただ、三国同盟を主導した松岡が、結核悪化によって法廷では、罪状認否で無罪を主張して終わってしまったため、検察側の追及にどのように対応しようとしたかはわかりません。 
伝統的な日本人の思想を取り戻すためにも…”というような考え方も、皇国日本の軍部独裁との関係で、気になるところですが…。

 下記は、「東京裁判 大日本帝国の犯罪 上」朝日新聞東京裁判記者団(講談社)から 「第六章 世界制覇への野望」の一部を抜粋しました。

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                   第六章 世界制覇への野望

 大島大使の暗躍
 このころ、ドイツにあって、同盟締結の裏面工作のたて役者として暗躍したのは大島大使である。大使はリッペンドロップ外相と折衝を続けるかたわら、使者を東京に派し、日本軍部を通じて、政府首脳部に働きかけるなど、その活躍ぶりは強引かつはなやかであった。大島大使の尋問調書は、この間の事情をつぎのようにいっている。
「1937年、日華事変処理のため、日本はドイツを利用しようとした。私は東京の参謀本部から訓令を受け、ドイツ軍指導者、さらには蒋介石のドイツ軍事顧問等に接近することに努めた。
 1938年一月と思う。私はゾンネンベルグの別荘に、リッペンドロップを訪ねた。リ外相は私に対し、日独が条約その他の方法で、さらに緊密となる方法はないかとたずねた。私はこの会見の概略を東京の参謀本部へ通達した。
 同六月、私は参謀本部から通告を受けた。軍の一部では日独協調の進展をみとめているが、この提携は、ソ連に関しては一致行動をとるとの約束がなければならぬ、とあった。
 七月初旬、私はふたたび、リ外相と会談、このときは日本からの通告にはふれず、ソ連から攻撃された場合、なんらかの行動に出る前に、お互い話し合うことを約するとの協定を取結ぶことについての意見をのべた。リ外相は一応考えさせてくれと言って別れた。数日後、リ外相はゾンネンベルグから、わざわざ私と会談のためにやってきた。そして彼は大体次のように私に語った。
『私見として、単に対ソ条約ではなく、全世界を目標とする相互援助条約を提案する。もし日独協定が十分強力であるなら、世界平和を確保しうると考える』
 私はこれに対し、日本はソ連に対し行動を起こす準備があるのみだから、全世界を目標とする相互援助協定にまで目的を拡大することは困難であると思うとのべたが、リ外相はさらに、
『日本に実力以上のことをしてもらいたいのではない。しかし、平和確保のため、強力な協定はぜひ必要だ』
 と力説、この点につき日本陸軍の意見を知りたいというのだ。なお、防共協定締結のときには外部にもれたから、今度は絶対に秘密を保持してくれと要求するので、私は無線通信をやめて、笠原少将を帰国させることにした。少将は飛行機で飛び、同年八月、日本に到着。参謀本部を通じて、これを宇垣外相に通じた。外相は、さらに五閣僚と意見の交換をおこない、結局、参謀本部がこの提案に同意、また近衛首相、宇垣外相、池田(成彬)蔵相、板垣陸相、米内海相の五閣僚も了解したとの電話を私は受け取った。
 彼等の意見は、調印国の一つが理由なく、侵略の犠牲となった場合、相互援助を約する協定を希望するというにあった。しかし日本はこの協定の目標は、ソ連を第一とし、他の諸国は第二義的とすることを希望していた。
 私は同年十月、大使となり、ひきつづきリ外相およびガウス法務部長と協議し、条約の大綱を決めて、東京の外務省に送達した」

 ついに三国同盟を結ぶ
 三国同盟の交渉は大島大使、白鳥大使、リッペンドロップ独外相等の裏面工作により、着々と進展し、1940年九月二十七日、締結されたが、この締結をきっかけに、日、独の世界計画は勢いに乗じて発展し、ついには太平洋戦争突発の原因をつくるにいたったのである。
タナベー陳述はつぎのようにこれを解明する。
「三国同盟交渉のかたわら、日独両国の侵略企図は、一瞬のたゆみもなく、続けられていった。
 1939年ニ月、海南島の占領、同三月、新南群島の奪取、次の年の三月には、汪精衛政権の樹立となったが、被告陸軍大臣畑俊六は議会で、
『日本の発展は陳腐な九ヶ国条約によって、止められるものではない』
と、激越な言葉で、陸海軍の意向を表明している。
 ドイツのオランダ侵略、フランス降伏ののち、日本の蘭印、仏印に対する関心は急速にたかまり、日独伊三国軍事同盟締結の希望はきわめて強力となった。
 1940年七月、陸軍は、米内内閣の外交政策に不満を抱き、これ以上独仏との交渉をのばすと、日本にとって取り返しのつかないことになるという見解から、米内内閣の打倒を策し、陸軍大臣畑大将を辞職させ、陸軍三長官は後継陸相の推薦を拒否したのである。このため米内内閣は総辞職した。
 こうして近衛内閣の成立を見るにいたったが、新内閣では、松岡が外相に就任、東条は秘密のうちに陸相として推薦されていた。
 日独提携に関する日本の外交政策の強化はますます明白となり、東條陸相は、日本国民に反英感情をたきつける計画を始めたのである。
 1940年9月初旬、近衛総理、松岡外相、東條陸相、及川海相出席の四相会議が開かれ、その席上、日独伊三国の協調強化のため、『会談をすみやかに始める』時機が熟したとの意見の一致をみた。そして、いまや日本は武力行使の決意をしない限り、ドイツと有効な会議を続けることは不可能だということが認められたのである。
 三国同盟は、先例のない程の急速調で進み、1940年九月二十七日ついに締結された。
 三国同盟の締結とともに、対米英侵略戦争は、いよいよ具体化し、シンガポールへの無警告攻撃が日程にのぼってきた。
 1941年一月。駐日ドイツ大使は、大使館付武官とともに、日本のシンガポール攻撃の可能性について調査をおこなった結果、米国政府に対し、
『日本のシンガポール攻撃の勝算は有望である。まずサイゴンおよびマレー半島を経由して攻撃がおこなわれるであろう。この間もし、ハワイの米国太平洋艦隊が出動し、日本軍の進撃をぼうがいしようとしても、ハワイ・マレー間は甚だ長距離にあるから近接行動途上で、日本軍はこれを撃滅するであろう』
と、日本軍の勝算を打電している。
 1941年三月、リッペンドロップドイツ外相は大島特使と会談の結果、駐日ドイツ大使に打電し、日本がすみやかにシンガポールを急襲するよう大使として可能なあらゆる手段を尽くすよう訓令を発し、続いて、ドイツ軍最高司令部は、日独共同に関する命令で、
『日本をして、すみやかに極東において、積極行動をとらせること。シンガポール占領は、枢軸三大強国にとり決定的成功を意味する』 
 ことを指令している。これに対し、日本からは、
『海軍軍令部長近藤大将は、海軍としてはシンガポール攻撃のため、すでに活発な準備中であり、参謀総長杉山大将は、陸軍また攻撃準備中である旨を言明した』
 ことが報告された。
 1941年七月二日、日本では重要な御前会議が開かれた。この会議では、対ソ攻撃の問題が出されたが、結局日本としては、日華事変を一日も早く処理して、南方へ進出すべし、と決定し、ドイツに呼応して、東方からソ連を攻撃する点については、これをできる限りおくらせるような決議が採択されたのである」
 このタナベー陳述を裏書きする書証として、1940年六月、仏印(フランス領インドシナ)問題に関するオットー大使よりドイツ外相あての秘密電報が出された。
「日本外務省からの情報によれば、日本は仏印で自由行動を許されるようなドイツの声明を期待している。この点につき、すでにベルリン駐在大使に訓令を発したとのことだ。
 仏印併合により、東洋における日本の地位が向上することは、ドイツにとっても有利となることは疑いない。仏印占領は、日華事変の早期終結を促進しようと意図したものだが、一方これによって、日本と米英両国との対立は深刻化し、日本対米英の危機は長期にわたって除去されないだろう。もし、日本の要求を考慮するつもりならば、これを利用して、日本を決定的に、しかも無制限に我々の線に沿わす方法をとるべきと思う。そのためには、まず第一に日本が仏印即時占領を余儀なくされるように仕向けさえすればよい」
 日本はオットー大使の意図したように、ついに仏印進駐に深入りすることとなったが、オットー大使はこれにとどまらず、日本の蘭印(オランダ領インド)に対する野望を看破し、太平洋戦争の突発により、アメリカを太平洋に釘づけにしようとする構想を描いていた。
 三国同盟締結の当時、日本の政界上層部は非常な不安感をもっていた。ことに、対ソ、対米関係の悪化を懸念していたことは、1940年九月二十六日の枢密院審査委員会の質疑記録および、同夜九時四十分、天皇陛下臨席のもとに開き、同条約を最終的に可決した枢密院会議の記録によってあきらかである。
 三国同盟は日本を底知れぬ「世界戦争」の泥沼へ追い込む原因となったものであり、両会議は、日本の運命を決定した実に重要な転機となった。

  松岡・ヒトラーの大バクチ
 1941年三月、松岡外相は意気揚々とドイツを訪問、オットー、大島両大使とともにヒトラー総統と会見、得意の重要会談をおこなった。
 このなかで、ヒ総統と松岡外相との間にシンガポール攻撃の闇取引までおこなわれ、日本はドイツの思うツボにはまりこんで、抜きさしならない泥沼におちいっていった。
 1941年三月二十七日、松岡・ヒトラー会談の要旨はつぎの通りである。
ヒ総統「まず、米国が自身で武装するか、英国を援助するかであるが、もし米国が英国を助けるとすれば、自国の武装は不可能となろう。もし米国が英国を無視するとすれば英国は打倒され、米国自身、三国同盟に対し孤立することになろう。しかし、米国が他の土地で開戦することは、いかなる場合にもありえない。だから、いまこそ三国が共同行動を起こす絶好の機会である。英国は欧州に拘束され、米国はまだ軍備の初期にある。またソ連は西部国境でドイツ軍百五十個師団の大軍にけん制されている。
 これこそ、日本にとっては歴史上未曽有絶好の機会ではないか。もしこの好機をのがして、欧州戦が万一妥協に終わるならば、英仏はここ両三年中には回復するであろう。また米国は日本の第三の敵として、英仏と結び、日本は早晩、これ等三国に対する戦争に直面することとなろう。自分の対日態度は今にはじまったものではない。日本とドイツとの間に、何等利害の衝突が存在しないことは、特に好都合である。日本はヨーロッパにほとんど利害関係がない。また同様にドイツも東亜に対してはほとんど利害関係がない。これこそ日独間の協力の最善の基礎をなすものである」
松岡「日本にも他国と同様に、強者によってのみ抑圧することの可能な知識階級がある。この種の知識階級なるものは、二人の皇族の出席する軍令会議や小胆な親英米派政治家にも現れている。自分は軍令会議でも、自分の意見を主張し、彼等を承服させた。自分は欧州大戦の突発前から同盟を主張して大いに努力したが、成功しなかったのだ。欧州戦が突発して以来、日本は英国打倒戦争に対し、なんら貢献していない。その代償として日本はシンガポール攻撃計画を強化すべきだと考える。しかし、自分は残念ながら、日本を支配する地位にはいないから、支配者たちを自分の意見に転換させるように努力しているのだが、これはたしかに成功するものと確信している」
 松岡は個人的な意見として、シンガポール攻撃の主張をし、この言明が日本に知れると、意見を異にする閣僚が、彼を免官するための工作をやるかも知れないという理由で極秘にすることを要求している。さらに、
松岡「三国同盟が締結される少し前、英国大使が日本は三国同盟に加入すれば、非常に危険だということを、日本国民に対し、猛烈に宣伝していた。しかし、私はドイツが勝つからという予想から同盟を締結したのではない。新秩序に関する私の構想にもとづいて結んだのだ。新秩序思想は『征服なく、圧迫なく、搾取なし』のモットーに基づくものであり、これは日本では一般にいまだ十分理解されていない」
 さらに松岡外相は、ドイツ訪問の途中ソ連を訪れ、モスクワにおけるスターリン首相との会談に言及し、
松岡「モロトフと約三十分、スターリンと約一時間会談した。私はスターリンに対しては、日本人は道徳的には共産主義者であるが、西洋から輸入した自由主義、個人主義、利己主義によってくつがえされたと説明して置いた。なお、これはとくにアングロサクソン人種に根本的な責任があり、伝統的な日本人の思想を取り戻すためにも、日本はアングロサクソンと戦わねばならない。日華事変も、中国にあるイギリスおよび、資本主義に対し、日本は戦っているのだ。英帝国崩壊ののちは、日ソ間に横たわる諸問題も解決できる。アングロサクソンこそ日独ソの共同の敵である旨を指摘した」
 さらに第二会談(四月四日)の要旨はつぎのようである。
松岡「日米戦争はできるだけ回避するが、日本のシンガポール攻撃が米国の参戦を誘引する危険がないとはいえない。この際は陸海軍の意向では五年以上ゲリラ戦の形をとってのち、決戦することとなろう。だからドイツのゲリラ戦術、とくに潜水艦の戦術について、日本の軍事使節の希望に応じてもらいたい」
ヒ総統「ドイツも米国と日本との衝突を望んでいないが、もし日本が対米戦にまきこまれるようなことになれば、ドイツはドイツの分野でその結果を引きうける」
松岡「日米戦は不可避である。また対米戦という危険をおかすことによって、日本は今後数代にわたる戦争をさけることができる。しかし日本には、このような思想系統を嫌うものがある。私はこのような人々から危険人物と見られている」
ヒ総統「自分もフィンランドの回復や再軍備宣言のとき、同様の立場にたったことがあるから、貴官の立場を了解できる」
松岡「アメリカの政治家たちは、日本がゴムやスズの米国向け輸送の自由を保証するならば、中国や南洋のために、わざわざ火中の栗を拾うようなことはしないだろう。しかし日本が英国打倒のため参戦するような印象を与えるならば、米国は日本に対し、直ちに開戦するだろうということを、米国側が宣言しているが、これは英国文化にはぐくまれた日本人には、相当効果を発揮している」

 世界戦場を二つに分担
 自らがまき起こした世界戦争のが激化にともない、その攻撃と防禦のため、日独伊三国は1942年一月十八日、日独伊三国間に軍事協定を締結、三国条約の精神にのっとり、作戦のために世界を二つの地域に分割するという協定をおこなった。その内容は、力と力の誤算の上に立ち、遠大な距離をへだてたこの連携が、わずかに潜水艦その他の連絡に止まったことは世界の知るところである。
軍事協定はつぎのようである。
「一、作戦区域の区分
ドイツ・イタリア両国軍と日本陸海軍は、左のように担当地区内で、必要な作戦を遂行する。
1、日本
(イ)東経70度以東から米大陸西岸までの水域および、その水域にある大陸と島(豪州、オランダ領インド、ニュージーランド等) (ロ)東経70度以東のアジア大陸
2、ドイツとイタリア
(イ)東経70度以西から、米大陸東岸までの水域と、その水域にある大陸と島(アメリカ、アイスランド等) (ロ)近東、中東、および東経70度以西のヨーロッパ。
3、インド洋では状況により、前項に協定した地域境界、地域制限を超えて作戦することができる。

 ニ、一般作戦
1、日本は英米に対するドイツ、イタリアの作戦に協力し、南洋方面と太平洋で作戦を遂行する。
(イ)日本は大東亜における英・米・蘭(オランダ)の重要基地を攻撃し、同地域内のその領土を攻撃する。 (ロ)日本は西太平洋における制海権を確保するため、太平洋およびインド洋における米・英陸海空軍の撃滅を期する。 (ハ)米・英艦隊が、大西洋にその主力を集結する場合、日本は太平洋およびインド洋全域で通商攻撃を増強し、なお大西洋にその海軍力の一部を派遣し、ドイツ・イタリア海軍と直接協力する。
2、ドイツ・イタリアは、南洋方面および太平洋における日本の作戦に協力し、対英・米作戦を遂行する。
(イ)ドイツとイタリアは近東、中東、地中海、大西洋の英・米の重要基地を撃滅し、同地域の英・米領土を攻撃占領する。(ロ)独・伊は大西洋および地中海における英・米の陸海空軍を撃滅し、かつ敵の通商を破壊する。 (ハ)英・米艦隊が太平洋にその主力を終結する場合、ドイツ・イタリアは太平洋にその海軍の一部を派遣し、日本海軍と直接協力する。

三、軍事作戦の重要点
1、作戦計画の重要事項に関する連絡の維持。
2、経済戦における協力、左のものを含む。
(イ)経済戦計画に関する連絡の維持。 (ロ)経済戦の進行、重要情報その他必要事項に関する連絡の維持。 (ハ)一つの加盟国が、その担当作戦地域を越え、経済戦をおこなう場合、その計画をあらため、他の同盟国に通知し、作戦基地の使用、補強供給、乗員の休養、修理業務に関する協力、相互援助を確保する。
3、作戦に必要な情報の収集と交換。
4、心理的戦争に関する協力。
5、相互の軍用電報伝送を確保するための協力。
6、日独伊三国間の航空通信の連絡とインド洋の航路と海上輸送を開始するための協力」  


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