真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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東京裁判NO7 「南京大虐殺」検事団の立証①

2020年07月26日 | 国際・政治

 国際的によくい知られている日本軍の残虐事件には、「バターン死の行進」や「泰緬鉄道建設捕虜虐待事件」などがありますが、東京裁判で最も注目されたのは、「南京大虐殺」だったのではないかと思います。
 それは、「南京大虐殺」が「人道に対する罪」の典型的な事例として注目されたからではないかと思います。
 「南京大虐殺」は”連合国の創作”で、”東京裁判がでっち上げた”というようなことをくり返し語っている人がいるようですが、南京陥落当時、欧米のジャーナリストや実業家、医師や牧師、大学教授などが「国際安全地帯委員会」を組織して、中国の「紅卍会」と協力しつつ保護任務に当たる一方、関係機関に報告や依頼をくり返し、また、情報を伝えていたために、それを察知していたシカゴ・デイリーニューズの南京特派員A・Tスティールやニューヨーク・タイムズの上海特派員H・アベンド、同じく南京特派員F・T・ダーディンなどが南京の状況を本国に打電し、日本の残虐行為は、世界中に知られるようになっていたといいます。東京裁判ではじめて知ることになったのは、情報を遮断されていた日本の一般国民だったのではないかと思います。
 また、マンチェスター・ガーディアンの中国特派員であったH・J・ティンパーリー編著の『戦争とは何か──中国における日本軍の暴虐』が、ロンドンとニューヨークで発行されたのは1938年、それは同年中に中国で日本語訳と中国語訳でも刊行されているといいます。だから、どのような検察側立証や弁護側反証がなされるのかに関心を寄せるジャーナリストも多かったのではないかと思います。

 下記に抜粋した、中国代表の向検事の陳述やウィルソン証人(南京大学病院にいた米人医師)、許伝音証人(南京国際委員会理事・紅卍会副会長)、「東京裁判 大日本帝国の犯罪 上」朝日新聞東京裁判記者団(講談社)で、”惨・惨・惨”と題された通りの内容であり、明らかな戦争犯罪だと思います。

 ところが、東京裁判では、日本側の被告や証人は、”虐殺などはなかった”とか、”見なかった”とか、”残虐行為は、中国人のしわざであると住民から聞いた”などと言い逃れをくり返したようです。
 そして、判決が確定した後も、そうした主張が続けられ、”南京大虐殺は連合国の創作だ”とか”南京大虐殺は東京裁判がでっち上げたものだ”、というような主張が、今なおくり返されています。
 でも、圧倒的多数の被害者の証言や証拠資料、また、当時南京に残留した欧米人や日本人関係者の証言を無視し、戦争犯罪を犯したとされている日本軍関係者の証言や主張こそが真実だ、ということには、明らかに無理があるでしょうし、国際社会で受け入れられることもないと思います。

 南京大虐殺は、東京裁判のみならず、中国国民党政府による戦犯裁判「南京軍事法廷」でも裁かれており、第六師団長・谷寿夫中将、同師団の歩兵第四十五連隊中隊長・田中軍吉大尉、および、百人斬り競争を実施したとされる向井敏明少尉と野田毅少尉が起訴され、処刑されているのです。
 また、南京軍事法廷における谷寿夫への判決文、南京安全区国際委員会の一員マイナー・シール・ベイツの証言、南京法廷による南京事件の調査報告書は、他の事件記録史料とともにユネスコ記憶遺産へ登録された事実も見逃すことが出来ないと思います。

 かつて取り上げたことがありますが、松井被告の「支那事変日誌抜粋」に「我軍ノ暴行、奪掠事件」と題した文章があります。それには、
上海附近作戦ノ経過ニ鑑ミ南京攻略開始ニ当リ、我軍ノ軍紀風紀ヲ厳粛ナラシメン為メ、各部隊ニ対シ再三留意ヲ促セシコト前記ノ如シ。図ラサリキ、我軍ノ南京入城ニ当リ幾多我軍ノ暴行掠奪事件ヲ惹起シ、皇軍ノ威徳ヲ傷クルコト尠少ナラサルニ至レルヤ。
 是レ思フニ
一、上海上陸以来ノ悪戦苦闘カ著ク我将兵ノ敵愾心ヲ強烈ナラシメタルコト。
二、急劇迅速ナル追撃戦ニ当リ、我軍ノ給養其他ニ於ケル補給ノ不完全ナリシコト。
等ニ起因スルモ又予始メ各部隊長ノ監督到ラサリシ責ヲ免ル能ハス。因テ予ハ南京入城翌日(12月17日)特ニ部下将校ヲ集メテ厳ニ之ヲ叱責シテ善後ノ措置ヲ 要求シ、犯罪者ニ対シテハ厳格ナル処断ノ法ヲ執ルヘキ旨ヲ厳命セリ。然レドモ戦闘ノ混雑中惹起セル是等ノ不詳事件ヲ尽ク充分ニ処断シ能ハサリシ実情ハ巳ムナキコトナリ。
 などと書かれています。どの程度、戦争犯罪の事実を認識していたのかは知りませんが、戦争犯罪あったことや、戦争犯罪が起きるに至った理由をきちんとあげていることは見逃せません。だから”南京大虐殺はなかった”と言うのは論外だと思いますし、”知らなかった”で言い逃れることができる問題ではないと思います。

 また当時、外務省東亜局長であった石射猪太郎は『外交官の一生』という回想録のなかで「南京アトロシティーズ」と題して
南京は暮れの13日に陥落した。わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取締りの用をなさない。制止を試みたがために、福井領事の身辺 が危ないとさえ報ぜられた
 と書いていることも以前取り上げました。関係者は知っていたのです。それをなかったことにしようとする歴史の修正は、恥ずかしいことだと思います。
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                 第五章 戦慄・南京大虐殺

                     惨・惨・惨

 虐殺と麻薬
 満州侵略の陳述がおわった検事団は、いよいよ日本軍の対中国侵略の立証に入る。
 中国代表の向検事は、虐殺と麻薬の手段を使って、日本軍がいかにして中国に侵入したかを、まざまざと描く。
「人道に対する日本軍の犯罪はあらゆる占領地域にわたり全期間おこなわれた。その顕著な一事例は、1940年南京陥落後発生した。中国軍があらゆる抵抗を中止し、南京市がまったく被告松井指揮下の軍隊に制御されたのち、暴行と犯罪の大狂乱が始まり、やむことなく四十余日にわたって続行された。
 この兵は、将校、東京の統帥部の完全なる了知と同意のもとに残虐行為により、中国民衆のあらゆる抗戦意識を永久に滅却しようと企図したものである。
 これは殺人、虐殺、拷問、凌辱、略奪、破壊を含むもので、孤立的事例でなく、典型である。これらは全地域にわたり九万五千余にのぼっている。これら残虐行為は戦争についての日本的形態である。なお日本軍は侵略の拡大のためアヘンその他の麻薬を使用し、これによって侵略の反抗に無感覚、無能力化させようと企図した。
 日本の目的は、麻薬の勧奨政策により(1)中国民衆の体力を低下させ、抗戦意識を弱体化させようとすること、(2)軍事的経済的侵略を賄う巨大なる収入をあげようとすること、を目的としていたことをあきらかにするであろう」

 重要証拠資料「七・七紀実」
 さらに検事団は泰徳純氏の「七・七事変紀実」を証拠として提出した。終戦後中国検事団の求めにより南京でしたためられ、検事の前で同氏が認証したもので、これが国際検事団へ提出され、同氏が東京法廷出廷と同時に法廷へ提出された。盧溝橋事件についていずれがその責任をとるべきかを当事者としてあきらかにしたものである。王冷斉氏の証言とならんで、七・七事変の謎を実証する歴史的文献といってよい。
 ・・・

 幼児にも暴行
 1937年(昭和12年)十一月、日本軍は上海戦線の行き詰まりを打破するため、杭州湾へ奇襲上陸をおこない、さらに急進撃を続けた。十二月には南京を攻略したが、このとき日本軍は南京市民に対する血なまぐさい虐殺事件を起こし、各国から非難攻撃の的とされた。当時南京大学病院にいた米人医師ロバート・ウィルソン氏は証人台に登場。サットン検事の直接尋問に答えて、南京における日本軍の暴虐ぶりをつぎのように明らかにした。
「私は1906年、南京に生れた。プリンストン・ハーバート両大学に学んだ後、外科医として、南京大学病院で副外科医長をしていた。日本軍によって、上海が陥落、南京侵入の気配さえあったので、病院の職員達は揚子江の上流へ避難したいと要求してきた。というのは上海──南京間の蘇州、鎮江、無錫等で日本軍がおこなった残虐行為から見て、職員たちは生命の危険を感じていたからであった。
 結局私や看護婦、召使数名を残し、約五十名の職員たちは1937年十二月一日、南京を出発した。
 南京陥落の直前ころには、患者も減少して動けない重傷患者五十名が残留しているだけだった。日本軍は十二月の十三日に入城したが、その前夜までには、すべての中国軍による敵対行動は中止していた。
 数日のうちに病院は見る見る内に満員となってしまった。ある日、四十歳くらいになる一人の婦人が病院につれこまれた。彼女の首は筋肉を斬られており、頭が危険な状態だった。人々の話によれば、彼女は無残に日本兵にやられたのだった。
 また八歳のいたいけない少年が腹部貫通を負い、なお他の一人の男は銃弾で右肩に傷をうけていた。彼の話によれば多数の中国人が日本兵によって揚子江沿岸につれて行かれ、岸辺で射殺され、死体は河中に投げこまれた。そして、彼は死を装い、闇に乗じて、逃げ去ることの出来たただ一人だというのだ。その名前は梁と言った。
 もう一人は中国の警察官で、背中に深い刺創をうけて、病院にはこび込まれた。この警官は多数の人々とともに城外へ連行され、機関銃で掃射され、そのうえ、銃剣で突き刺された中で、たった一人生き残った人である。彼の名前は伍長徳と言った。
 また、ある日自宅で昼食していると付近のものが駆け込み、日本兵が強姦していると知らせに来た。駆けつけると、戸の締まった裏庭に、日本兵三人が銃を持って立っており、われわれが入ると二人の日本兵が中国婦人を強姦していた。私はその女を南京大学の避難民収容所へ連れて行った。
 また一人の男が病院へやって来た。その男の顎に鉄砲の弾の傷をうけていて、ほとんど話すことさえできなかった。彼は身体の三分の二に、非常な火傷をしていたが、その語るところによれば、日本兵に捕らえられ、射たれたうえにガソリンをぶっかけられ、火をつけられたということだ。そして彼は二日後に死んでしまった。
 もう一人の男が病院へつれこまれた。彼は全頭部に火傷をしていた。多数の人と一緒にくくられて、ガソリンをかけられ、火をつけられたが、やっとのことで一人だけ助かったというのだ。私が今まで申し述べた事件について写真をもっている。
 今度は六十歳くらいの老人が胸に傷を受けて入院した。彼は避難民収容所区域にいたが、市街地の親戚を訪ねるために、その区域を出て行った帰り道、日本兵に出会い、その兵隊に銃剣で胸を突き刺されドブに叩き込まれた。そして六時間も意識不明となっていたがやっとのことではい出してきたということだ。
 このような事件は1937年十二月十三日、南京が陥落した直後から、六、七週間の間、無数に病院に持ちこまれて、百八十の病院のベッドは絶えまなく満員続きだった。もう二つの事件を思い出した。その一つは、七、八歳の女の子だった。腕の肘の間接が外れて、非常に重態だったが、その子の話では、両親は日本兵のために眼の前で殺され、その子もそのとき負傷したとのことだった。
 ジョン・マギという牧師に連れられてきたのは十五歳になる女の子だった。彼女は強姦されたというのだ。診察の結果、それは確証された。そしてそれから二ヶ月ほどして、再び彼女は病院へやって来たのだが、その時は第二期梅毒の腫物が現れていた」

 残虐の三ヶ月
 ウィルソン証人の証言についで、中国人、許伝音博士が証人として出廷した。博士は日本軍が南京攻略をおこなった当時、紅卍会の副会長を勤め、日本軍侵入と同意に国際委員会の一員として、難民救済に努力した人。サットン検事の尋問に答えて、南京陥落後の日本軍の暴状をつぎのように語った。
「私は南京で生まれ、1928年以来ひき続き南京に住んでいる。東京大学文学博士、イリノイ大学文学博士の学位をもっている。
 中国に帰ってから、私は天津浦口鉄道に奉職し、その後中国鉄道省に入った。中国政府が南京に移駐したときから家族とともに南京へ移ったのである。
 日本が南京を占領したのは1937年十二月十三日であるが、当時市内では中国軍の抵抗がまったくなかった。
 当時私は南京における安全地帯に関する国際委員会に関係しており、家屋関係の委員長をやっていた。
 私の職務は、安全地帯内で家屋を持っている者や持っていない者のために、種々の便益をはかることだった。私は収容所を二十五カ所も設け、避難民を収容したのだが、その数は非常なものだった。安全地帯にいた中国人は二十万から三十万に及ぶほどだった。
 私は当時紅卍会の副会長をやっていたが、国際委員会がこの会に協力を望んで来たのだった。
 日本軍は当時、市の南側から侵入したが、市内を占領した日本軍は非常に野蛮で、人を見つけしだい、片っぱしから射殺した。日本軍の占領後三日目に私は日本軍同伴という条件付きで市内を見回った。中国人の死体はいたるところに転がっていたが、その中にはひどく斬りきざんであったものさえ見かけた。
 ある大通りで、私はそのあたりに横たわっている死体の数を数えて見たが約五百を数えたときに、もうこれ以上数えてもしかたがないと思ってやめてしまった。
 私は南京の東西南北の各地区で、全く同じ状態が起こっているのを見た。そして日本兵は中国人をなんらの見さかいもなくやっつけるのだった。もしわれわれの車のなかに日本語を話す者がおらず、許可証を示さなかったとすれば、私もまた非常な困難に遭遇したに違いなかった。私の見た死体は老若男女種々様々であったが、すべて民間人ばかりで、軍服を着けていたものは一人も見あたらなかった。
 家屋委員会には一つの規則があって、武器を持ったものは絶対にこの安全地帯に入れないことにしていた。軍人は入れないことになっていたが、十二月十四日の朝八時ごろだった。日本軍の将校が国際委員会の本部にやってきて、私に安全地帯の捜査を許可せよというのだ。その理由は安全地帯には中国の兵士達が隠されているということで、私は安全地帯には武器を持ったものは一人もいないと言って拒絶したが、次の日ふたたび日本兵がやってきて、収容所や私人の家から兵士だという名目で大勢の一般市民を連れて行ったのだ。
 ある日のことだった。私は紅卍会の人達と一緒に避難民に食糧を配っていると、二人の日本兵がやって来て、門を固く閉めてしまった。そして日本兵は縄で中国市民の手を縛り、十人、十五人を一団にして連れ去った。その数は千五百人におよぶだろう。私はすぐに国際委員会のラビー氏に急報した。ラビー氏とフィッチ氏の二人と私とは日本の特務機関司令部に行って抗議を申しこんだ。なぜ日本兵を安全地帯に入れたか、中国人をどこへ連れて行ったか、なお連行した中国人をただちに釈放せよ、等の点について交渉したのだがさっぱり要領を得ない。一時間も待っていたが返事がないので、翌朝返事をもらうことを約束して帰った。しかし翌朝七時か八時ごろ、国際委員会と紅卍会の建物の方向で機関銃の音をきいた。われわれは直ちに探索させて見ると、連行された中国人が機関銃によってことごとく射殺されたことがわかったのだ。そのあたりに散らばっている死骸を調べてみると、確かにこれはさっき連行された中国人であることが判明した。その後も日本兵は毎日のように収容所にやってきて、市民を連行した。
 さっき述べたラビー氏というのはドイツ人で、海員協会長を勤め、国際委員会の理事だった。
 婦人に対してとった日本兵の行動はさらに悪く、文明の世界ではとうてい夢想だにできないほどのものだった。そして日本兵は信ずべからざるほどに、女に対する嗜好ををしめしていた。
 あるキャンプでは、日本兵は三台のトラックを連ねてやってきて、すべての女を廊下に連れて行き、片っ端から強姦した。私はそれを阻止しようとしたが駄目だった。これ等の婦人は十二、十三歳から四、五十歳のあいだであり、私は日本兵の強姦をこの目で目撃したことがある。
 あるとき日本兵は浴場で中国婦人を強姦したことがあった。あとからわれわれがそこへ行って見ると、着物が外に掛けてあり、ドアを押して浴場に入ると裸の女が泣きながらしょんぼりとして立っていた。
 またああるとき、福田さん──当時南京の日本領事で今は東京で首相の秘書官をしている人だが、私は彼と一緒にキャンプへ行き、二人の日本兵を捕えた。そのうち一人は腰を下ろしており、部屋の隅には、一人の中国婦人が泣いていた。私は福田さんにこの日本兵が強姦したのだと告げると、福田さんはこの日本兵を叱りつけて、追い出した。
 あるとき私はマギー氏と一緒に、南門の東新開路第七番に行ったことがある。その家では十一人が殺され、三人が強姦されたのを発見した。その婦人のうち二人は十四歳で、一人は十七歳だったが、日本兵は強姦したのち、膣の中に異物を差込んであった。他の若い娘は卓の上で強姦され、卓にまで血潮が流れていた。またある一家族が船に乗って、河を横切ろうとしていた。河の真中で日本兵に発見された。日本兵は船の検索をしてから、若い女を見つけ出し、老父と夫の見ている前で強姦した。それで夫は非常に怒って日本兵に喰ってかかったが、老父と娘とは河に飛び込んで溺死してしまった。 紅卍会は二百人の労働者を雇い入れて、中国人の死体の埋葬をやったがその数は四万三千におよんだ。
 日本兵がロシアの公使館に火をつけるのを私は目撃した。彼等はこの建物に油をかけて、火をつけた。この事件は1938年一月一日十二時ごろだったが、そのほかYMCAのような各種団体の建物が次々と焼かれた。
 私は南京付近の二つの町を訪問したことがある。一つは1939年に蕪湖、それから1942年に安慶を訪問した。また1942年には私の故郷の貴州を訪問した。これ等の街でも日本兵のやり方は同様でさらに小さい町ではもっとひどかった」

 ついでサットン検事の尋問がアヘン、麻薬の密売問題に及び、許証人はよどみない英語で、すらすらと陳述を続ける。
「1937年十二月以前にはアヘンは公然と販売することを禁じられていた。しかし日本軍が南京占領後、公然と販売されるようになった。私が住んでいた町の近くにもアヘン窟はたくさんあった。私はふとその一つに入って状況を調べてみた。アヘンはなんら警察の干渉もなく、公然と吸われていた。さらにヘロインの入手は非常に容易となった。シガレットのなかにもヘロインを入れて売っていた。ことに苦力を雇うときには、ヘロイン入りのシガレットが提供された。そして、これをもらった労働者は十代という若い者もいた。
 前述したような、日本軍暴虐行為は日本軍が進駐後、最初の数ヶ月、少なくとも三ヶ月の間はつづいた。時日の経過とともに野蛮行為は次第になくなった。これは日本、中国の双方がなるべくこのような事件の起こらぬように努力し、まず日本の兵隊が遊びに行く所、すなわち慰安所を作って、そこで売淫させるということにしたためだと思う」

 
 


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2 コメント

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歴史を謙虚に学びましょう! (歴史認識修正・社会学者志望者)
2020-09-01 20:17:50
そもそも、"南京城攻略作戦"は、"通州虐殺"に代表されること中国側からの民間婦女子凌辱虐殺に対する懲罰・報復(=暴戻シナ膺懲)作戦でした。
当時の兵隊~士官・参謀まで理解したいないものおおし。
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Unknown (syasya61)
2020-09-02 10:36:20
社会学者志望者様

>歴史を謙虚に学びましょう!

 私は、近隣アジア諸国との関係改善を望み、日本の加害の事実も謙虚に学んでいるつもりなんですが…。

>そもそも、"南京城攻略作戦"は、"通州虐殺"に代表されること中国側からの民間婦女子凌辱虐殺に対する懲罰・報復(=暴戻シナ膺懲)作戦でした。

 相手国の主権や人権を尊重せず、他国の領土に軍隊を駐留させ、やりたい放題をするから様々なトラブルが起きたのだと思います。南京も通州も日本の領土ではないのです。南京事件や通州事件の前にどんなことがあったのかということも大事だと思います。
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