真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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東京裁判NO9 「南京大虐殺」松井被告側の反証

2020年07月31日 | 国際・政治

 東京裁判における南京大虐殺の検事団側証人は、前ページで取り上げたように、被害者の治療に当たったウィルソン医師や避難民の救済に当たった紅卍会の許伝音博士、また、日本軍に捕らえられ死の恐怖に直面しつつ、九死に一生をえた三人の被害者、南京大学歴史学教授マイナー・シール・ベーツ博士、ピーター・ジェー・ローレンス英国公使館区域警察署長など様々で、その証言内容は極めて具体的なものでした。
 さらに、検事団が派遣した出張尋問団は、関係者から多数の証言を得て、事件の公判中に帰国しており、南京軍事法廷における証言なども踏まえて、確信を持って立証を進めたのではないかと思います。

 それに比して、被告弁護側の証人に第三者的立場の人はなく、証言台にたった脇坂次郎大佐も西島剛少佐も、自分たちは放火も殺人も略奪も強姦もやっていない、見てもいない。それらは、日本兵ではなく中国兵がやったのだ、というようなことを言うだけで、その根拠も”住民から聞いた”というような説得力に欠けるものでした。

 だから、松井被告弁護団は、南京大虐殺という「人道に対する罪」の事実については、ほとんど争わず、松井被告の責任回避を中心においた弁護を展開することにしたのだと思います。それは、下記のマタイス弁護人の冒頭陳述や岡田尚氏の証言が裏づけているように思います。
 マタイス弁護人も岡田尚氏も、南京大虐殺の事実については何も語らず、争わず、ひたすら松井被告の思想遍歴や中国に対する思い、また、人間性を語ることによって、松井大将に責任を負わせることには無理があり、適切ではないという判断を誘導しているように思います。それは、検事団にとっては、肩透かしのような証言だったのではないかと思います。

 松井被告自身が、かつて、”急劇迅速ナル追撃戦”は、”南京一番乗り”を目指して進撃した全ての部隊で”我軍ノ給養其他ニ於ケル補給ノ不完全”につながった。それが多くの場合、掠奪同然のかたちで食糧を確保することになったかと思う。だから、”我軍ノ南京入城ニ当リ幾多我軍ノ暴行掠奪事件ヲ惹起シ”たのであろう、と認めていたことを考えると、脇坂次郎大佐や西島剛少佐のような証言では、検事団側証人の証言を虚言とし、被告弁護側の証人の証言こそ真実であると関係者に納得させる説得力がないことは、被告弁護団に深く認識されていたのだと思います。だから、松井被告の責任を回避するために弁護団が重視したのは、南京大虐殺の事実に関する論争ではなく、マタイス弁護人や岡田尚氏が取り上げたような松井石根個人の思想遍歴、思い、人間性に関する証言だったのだろうと思います。

 また、南京軍事法廷では、第六師団長谷寿夫、同師団の歩兵第四十五連隊中隊長田中軍吉、および、戦時中の新聞で百人斬り競争を実施したと報じられた向井敏明少尉と野田毅少尉が起訴され、いずれも死刑判決を受けて処刑されていることを考えても、”南京大虐殺は連合国の創作”とか、”南京大虐殺は東京裁判がでっち上げた”というようなことがあり得ないことははっきりしているように思います。もし本当に南京大虐殺がなかったのなら、被告弁護団が、そのことを主張し、事実について争わないはずはないと思うのです。

 南京大虐殺でも、日本軍「慰安婦」の問題でも、戦時中の徴用工の問題でも、被害者の訴えに耳を貸さず、真摯な事実の議論をすることなく「なかった」、「なかった」とくり返す人たちがいます。そればかりでなく、被害の事実を訴えたり、真実を明らかにしたり、語り継ごうとする人がいれば、脅してでも黙らせようとする人たちがこの日本にいることは、ほんとうに悲しいことだと思います。


 そしてそれは、嘘と脅しとテロによって明治維新を成し遂げた薩長を中心とする尊王攘夷急進派が、明治維新で頑迷な徳川幕府を打ち破って文明開化をもたらし、すばらしい近代国家を作り上げたとする作り話を、日本の歴史として残すことができた成功体験に由来しているような気がします。
 勝ったが故に、「官軍」として歴史を創作することができたという成功体験が、秘かに現在の日本の政権にまで受け継がれ、今も不都合な事実を「なかった」ことにしようする考え方として存在しているように思います。明治維新同様、不都合な事実を認めることなく政権を維持すれば、年が経てば人は忘れ、歴史は都合よく修正し、美化できるという思いがあるのだろうと思うのです。
 
 韓国が登録取り消しを求めるに至った、通称“軍艦島”と呼ばれる長崎市の端島炭鉱に関する世界文化遺産の展示内容の問題も、不都合な事実はなかったことにしようとする、日本の政権の政治姿勢をあらわしているのではないかと思います。それは、日韓両国にとって、大きな問題であると私は思います。

 

 下記は、「東京裁判 大日本帝国の犯罪 下」朝日新聞東京裁判記者団(講談社)から抜粋しました。
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           第十九章 木村・小磯・松井・南・武藤・岡・大島・佐藤  

                    責任は回避せず

 南京事件の責任者
 あるか無いかのアゴヒゲを、退屈そうにヒジをついた右手で揉んでいる松井石根。彼は昔から病身だったといわれるが、年のせいもあったかよく風をひいて法廷を欠席した。法廷が休廷となって退廷するときの彼は、病鶏が小屋にかえるように、そうろうとしてドアーの中に消える。しかしこうした枯木の風姿にも似ず、獄中、数々の漢詩を作ってうさを晴らしており、相当茶目振りを発揮しているということだ。
 松井部門は松井被告病欠のまま十一月六、七両日マタイス、伊藤両弁護人により証拠提出が行われた。
 まず、マタイス弁護人はその冒頭陳述で
「松井は陸軍幼年学校当時、陸軍の大先輩・川上操六提唱の『日本軍の存在理由は東洋平和の確保にあり』という思想に深く感銘し、その後中国の孫文の提唱した『大アジア主義』に共鳴し、日華親善とアジアの興隆に心魂を傾けてきた。彼は政治上重要な地位についたこともない。したがって検事側の主張するように侵略戦争を計画・実行したのではないことはもちろん共同謀議の事実もない。また中支那方面軍司令官は作戦に関して統一指揮の権限はあるが、直属の部隊をもたず、将兵の行動は下級指揮官(軍司令官)によって規制されていたことは、すでに中山証人が立証した通りである」
 とのべ、反証の方向を明らかにしたのち証拠提出に入り、「南京事件」を中心として、当時の部下、知人多数を召喚した。これらの証人はいずれもつぎのように「南京虐殺事件を」を否認した。

 脇坂次郎大佐(第九師団第三十六連隊長、いわゆる南京一番乗りの部隊長)
「一、松井大将は、『軍規風紀を厳守し良民を愛護し、外国権益をほごせよ』と機会あるごとに訓示した。私は大将の精神を部下に徹底させ、放火、殺人、略奪、強姦などなきように部下を戒めた。
ニ、私の部隊は常に先頭に立っていたが、中国軍が日本軍の行動を妨害しようとして、いわゆる清野戦術による放火や破壊をやったことや、中国軍の常習たる戦時の略奪をやったことを住民から聞いた。私たちは家屋その他焼却破壊することは絶対にしなかったし、これは日本軍の常識であった」

 西島剛少佐(当時の歩兵第十九連隊第一大隊長)
「一、蘇州は停車場およびその付近が爆撃で破壊されていたほかは無傷だった。それは中国軍がこの町で戦闘、破壊、略奪をしないで退却してくれるよう住民が金を出して中国軍に頼んだけっかである、と住民から聞いた。
ニ、松井司令官からはもちろんその他の上官から『略奪暴行などをなすべし』との命令を受けたことは絶対にない。
三、十二月十九日私は南京で中山路から下関まで巡視したが、中国軍の死体はみなかった」

 岡田尚氏(同氏の父は松井大将と親友、松井軍司令官付としてとくに上海派遣軍嘱託となった。中国事情に詳しく元政治中学校の講師)
「一、1937年(昭和12年)八月出征するとき松井大将は『輝かしい武功をたてるより最少の犠牲で事変を処理し、日華融和の道を開きたい』と語った。
ニ、松井大将は各部隊が先陣を争って南京を攻撃すれば、首都を破壊し良民を悲惨にするので、日本軍全部隊に十二月九日総攻撃停止を命令した。そして飛行機で降伏勧告文を城内に投下した。しかし降伏しなかったので総攻撃の命を下した。
三、十二月十八日(南京入城後)松井軍司令官は非常に憂鬱な顔をしていた。敵首都を攻略した武勲輝かしい将軍の顔としては不似合いなのでその理由をたずねると、沈痛な面持ちで次のように答えた。
『自分は南京を度々訪問したが、それは三十数年來念願してきた中日両国の平和な姿を実現するためであった。しかるに今自分は夢にさえ考えなかったもっとも悲しむべき結果をもたらした。中国の友人たちはどんな気持ちでこの南京を立ち退いたことかと思えば感慨無量である。そして日中両国の前途を考えると胸が一ぱいになって、戦勝の喜びに酔う気持ちにはなれない。実に淋しい思いがする』
 四、十二月下旬松井大将は南京から上海へ帰る駆逐艦の中で私につぎのように語った。
『不幸な戦禍はこれ以上拡大すべきではない。武力では日華両国間の問題は解決しない。自分が軍司令官として中国に派遣された使命は、今日までの作戦にではなく、今後の平和工作にこそ使命の重点がある』
 いろいろ討議した結果和平工作の会相手は宋子文とけってした。私は上海に帰ると、李択一氏を仲介に、香港で宋氏に大将の意思を伝えた。そのとき宋氏は『松井軍司令官がその考えならできるだけ協力してもよい』といった。
 ところが翌十六日『蒋介石を相手とせず』の近衛声明が発表され、軍司令官も更迭され、万事休した。
 五、松井大将は帰還後、熱海伊豆山に観音菩薩を建立し、両国将兵の永代供養をした。そして、『両国将兵の尊い血のにじんだ土を観音菩薩を作る粘土に混ぜたい』
 と大場鎮からとりよせた中国兵と日本兵の各死体の下の土をそれに使った」
 ここでマタイス弁護人は、岡田氏の証言中にある観音堂の写真を提出した。
 こうして多くの知人証言に援護された松井被告は十日も病気欠席していたが、二十四日ようやく出廷、大島部門を中断して証言をおこなうことになり、痩身を証言台に運んだ。伊東弁護人によれば、彼はこの証言の日に備えて日ごろ健康をいたわっていると語っていたそうである。
 


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