下記は、「金大中 拉致事件の真相」<金大中先生拉致事件の真相糾明を求める市民の会(韓国)>(三一書房)からの抜粋ですが、金大中拉致事件当時のKCIA部長・李厚洛(リフラク)氏の証言には、重大な「嘘」が含まれていると思います。
まず、「天に誓って朴大統領の指令はありませんでした」という証言です。でも、当時、最大野党指導者の拉致というような重大な「指令」をしなければならない状況に置かれていた人、また、それができる人は、朴大統領以外には考えられないと思います。だから、李厚洛氏が、誰が指令したのかを明らかにしない限り、当時の状況からして、この証言は「嘘」であると考えざるを得ないと思うのです。
金大中氏も、自らにもたらされた情報から、”拉致事件の三、四ヶ月前の73年春、朴大統領が李厚洛氏を呼んで、『金大中を殺せ』と指令したということだ。李厚洛氏が困惑のあまり実行をためらっていると、『金鐘泌総理とも話がついている』として、再び命令を出したということだ”と証言しているのです。
また、李厚洛氏の次のような証言も、「嘘」であると思います。
”私は正直なところ、当時南北対話に全身全霊を傾けていました。私は命がけで平壌に行き、戦争を防ぎ、統一を進めようという一念で、どうすれば統一できるか、という思いしかありませんでした。”
本来、KCIAの部長という立場は、朴正煕政権の政策を進めるために必要な情報を集め、また、その政策を有利に進めるための情報を拡散するために活動する役職だと思います。そういう意味で、彼の南北統一に関する主張や、彼が中央情報部長として平壌を極秘訪問し、その後、北朝鮮と合意するに到ったという「南北共同声明」は、あくまで表向きの目的であり、本当の目的は他にあったと思います。
それは、当時韓国が、四月革命によって李承晩独裁政権から解放され、第二共和国下にあったこと、そして、自由化された社会の中で学生運動が活発化して南北統一を求める声も高まっていたことなどに、アメリカ軍政当時から反共主義を掲げていた軍部が危機感を抱き、朴正煕氏の指揮のもと軍事クーデターを決行して、政権を奪取した事実が示していることだと思います。朝鮮労働党による一党独裁の社会主義共和制国家である北朝鮮を征伐して服従させる考えはあっても、対話によって南北統一を目指す考えはなかったと思います。
また、当時の朴政権が南北統一を進めようとしていたのなら、金大中氏を拉致する必要などなかったと思います。
さらに言えば、南北統一は、当時国際情勢の緊張が緩和されつつあったとはいえ、アメリカのアジア政策に反することであり、アメリカの合意なしにできることではないと考えられるからです。
アメリカの三省調整委員会で決定され、終戦指令文書である「一般命令第一号」の第一節に、38度線に基づく、各方面の日本軍の降伏を受領する連合国の分担を指定する文章が、急遽挿入された目的が、ソ連極東軍の満洲・朝鮮半島への急速南下と、それによる占領地域管理の既成事実化を危惧して、それ以上のソ連軍の進撃、すなわち、ソ連軍占領地域の拡大を抑止し、その共産主義的勢力圏が極東に浸透することを押し止めることにあったこと、また、さらにそれが、NSC48やNSC68にみられるような38度線利用した対ソ封じ込め政策へ発展していったことは、アメリカにとって、極めて重要な政策であることを物語っているのであり、一時的な情勢の変化で、簡単に変更されるような政策ではないと思います。それは、ワルシャワ条約機構が解散されても、NATOを解散させなかったアメリカの政策に示されていると思います。
当時、警察庁警備局外事課長として、金大中拉致事件の捜査に当たった佐々淳行氏は、犯人を特定していたのに、日韓の政権が、政治決着で幕引きした事実を明かにしています。日韓のそうした関係を、アメリカも後々のために黙認したのだと思います。
(<第10章 アメリカCIA韓国責任者の証言 ─「金大中を助けなければならない」>は、当時の駐韓アメリカ大使、グレッグ氏の証言の一部のみ、抜粋しました)
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第1章 李厚洛(リフラク)証言──事件当時のKCIA部長14年目にして口を開く
天に誓って朴大統領は……
当時朴大統領が強大な権力を掌握していたのは周知の事実だ。それにも関わらず、あのような重大な事件を果たして単独で行い得たのか、疑問は払拭できない。果たして朴大統領の指令は本当になかったのか。
「天に誓って朴大統領の指令はありませんでした。皆さんが取材すると、いろいろな人に会うでしょうし、いろいろな記事を読めばそんなことも考えるかもしれません。ですが、天に誓って朴大統領が指示したことはありませんでした。無責任な与党の幹部にですね、”何をやってるんだ。金大中があんなに勝手なことをふいて回っているのに……”と言うような輩はいたかもしれません。しかし、朴大統領が金大中を引っ張って来いとか、どうこうしろというようなことは全くありませんでした」
──朴大統領との関連はそうだとして、金鐘泌氏と拉致事件について何か意見交換をなさいませんでしたか。
「別にありませんでした」
──でも、当時の総理〔首相〕はJP[金鐘泌]でしたから、形式的にも何らかの話はあったかと思うのですが。
「総理だからといっても話したことはありません。……ただその問題で、JPが日本に陳謝使節として出向いた後、”ともかくご苦労をかけてすまない”とは言いました」
──金鐘泌氏は80年3月12日、日本の朝日新聞論説主幹のソウル訪問インタビューで「李厚洛氏は拉致計画を事前にアメリカCAIに提供し、アメリカに金大中氏を助けさせた」と述べてますが、これについてもお聞かせ願えませんか。
「それもだね。私の言うことをよく聞いてくださいよ。JPもフィクションで考えたんだ、え、まったく! これまでフィクションを読んで、私が計画して私がアメリカ人に金大中氏を助けさせたなどと、フィクションで言ってることなんだ。本当は違うんだ! 私はJPが言ったことを一度ちゃんと読んでみなければと思ってるんだが……。だからといって、JPを恨んでいるわけじゃない……」
──一般国民として金鐘泌総理はあそこまで言ってるんだから間違いないと思うのが当然だと思いますが、
「私はJPに話したこともなければ、具体的に説明したこともない」
──朴鐘圭(パク・チョンギュ)氏が関連していたという話もありますが。
「朴鐘圭氏は関係ありませんよ」
──事件後、朴鐘圭氏は李部長に何か言いませんでしたか。
「何もありませんな」
──血の気の多い朴室長ですから、何かしら不平を言ったとも考えられますが。
「彼の性格からしてそんなこと言うって? そんなことありませんよ……」
──”天に誓って朴大統領の指令はなかった。朴鐘圭氏警護室長も、金鐘泌国務総理もこの事件と関係ない”とすれば、一体誰がやったというのでしょうか。
よどみなく答えていた彼の言葉はここにきてぷっつり途切れ、沈黙してしまった。
「告白した」という話は?
朴大統領自身が金大中事件に言及した唯一の記録は、アメリカコラムニスト、ジャック・アンダーソンが青瓦台を訪問して書いた記事だ。アンダーソンは朴大統領と会って、『私が確認した金大中拉致事件』というコラムを書き、74年11月7日、世界200ヶ国余りの新聞に掲載された。朴大統領はアンダーソンに、「私は神に誓って、私がこの醜悪の事件とは何ら関わりがないと主張する」と述べた。アンダーソンのこの記事は、事件が朴大統領とは無関係であり、李厚洛氏の「単独犯行」を暗示する内容となっている。
しかし、李厚洛氏がこれまで記者に語った内容を検討してみると、実際は朴大統領が指令を行ったものの、李氏は「朴正煕教の信者」として自分が罪をかぶろうとしているのではないかと思われた。死者はすでに何も語らないのだから。だが、李厚洛氏は再度、朴大統領は全く無関係だと釘を刺した。
「この点は後日歴史を記述してもまったく同じ内容でしょう。間違いありません」 しかし、興味をひくのは金大中氏拉致事件発生十周年を迎えた83年の夏、日本の朝日新聞による金大中氏とのインタビュー記事(8月4日付)だ。その内容は次の通り。
「──10・26〔1979年10月29日、大統領朴正煕が当時のKCIA部長金載圭に射殺された事件」以後、拉致事件関係者が金大中氏に真相を告白し、懺悔したという話もある。ある週刊誌にはあなたの話だとして、李厚洛氏が直接告白したと書かれているが・・・。
金 それは少し違う。李厚洛氏本人がそう言ったのではなく、ある人を介して伝えてきた。間に立った人は双方の信頼できる人物だ。時期は80年の3、4月頃だった。──李厚洛氏は何と言ってきたのか。
金 拉致事件の三、四ヶ月前の73年春、朴大統領が李厚洛氏を呼んで、”金大中を殺せ”と指令したということだ。李厚洛氏が困惑のあまり実行をためらっていると、『金鐘泌総理とも話がついている』として、再び命令を出したということだ。このような経緯を告白しながら『あなたを拉致したのは私だが、助けたのも私だ』と弁明してきた。私を助けたというのは拉致の途中で、彼が殺害中止に何らかの措置をとったという意味だろう。」
金大中氏は『新東亜』9月号でもこの話を繰り返している。
イエスではなく、仏のおかげ
──この朝日新聞の記事についてはどうお考えですか。お読みになられたでしょう。
崔泳謹(チェヨングン)氏に会ったのは事実だが、私が金大中氏に伝えてくれと行ってもらったわけではない。彼が遊びに来たので会ったんです。あちらの方から寄越したのかどうか、私は知らない。会って話したことありますよ」
李部長が会おうとわざわざ呼んだわけではないということですか。
「違う、呼んでいない。日本の新聞にそう書かれたのはニュアンスの差だろう。私が、その、そうじゃないですか。そんな風にいろいろ話があったというニュアンスの差だ! 朴大統領が殺せと言ったこともないし、”私が助けた”ということも、こう言うと誤解を招く恐れがあるので言わなかったんだが、私が崔泳謹氏に腹を立てながらこう言ったんですよ。”何、金大中がイエスのおかげで助かっただと? 仏のおかげだよ。俺が助けてやったんだ! 私がそう言ったのは、さも〔金大中氏が〕自分が死ぬ目に遭って命拾いしたと、しきりにそういう言うんで逆上してしまったのですが、ニュアンスの差で、そういう風にとられてしまったんだと思います」
──すると、崔泳謹氏を金大中氏にわざわざ会いに行かせたとか、まだ二度にわたって朴大統領が除去指令をしたとか、金鐘泌総理も了解した”と言ったとか、そういうことは決してなかったこということなのですか?
「決してありません」
──朴大統領が李部長にそのような指示を何らかの形で、それとなく暗示したということはありませんか。
「絶対ありません」
──そうだとすると、金大中氏はなぜそう考えているのでしょう。
「それはたぶん……私がさっき話したように、私はそのようなニュアンスで話したのですが、それが間違って伝わったのかもしれません」
──最近、崔泳謹氏にあったことがありますか・
「最近一度会いましたよ。……あちらから来たんです」
崔泳謹氏は李厚洛氏と同郷〔慶尚南道出身〕で、五、六代国会議員をつとめ、民主党時代から金大中氏とも親しい間柄で知られている。最近では東橋洞〔トンギョドン:金大中氏の自宅がある町名〕系グループ、民権会議の理事長をしている。
金大中氏の海外での言動が南北対話に……
金大中氏が海外で繰り広げた維新反対闘争のどのような言動が国益を害するとされ、実際に事件が起きるきっかけになったのか聞いてみることにしよう。
──具体的に金大中氏のどのような活動が有害だとされたのですか。
「……はあ……、それは〔拉致を〕私がやったと……それを前提として言うのではなく、ともかくまず私の立場を聞いてください。
私が72年5月24日、金日成(キムイルソン)に会ったとき、”南では政府の統一方式と立場が異なる民主人士も多いようですね”と言われてしまったのです。その時私は、かなりショックを受けました。統一問題について意見があれこれ出るのはわれわれの弱点だと切実に思ったのです。その後私は国会の証言で、金日成が言ったことを率直に述べ、われわれの統一に関する発言はずいぶん注意するべきだと言いました。金大中氏がアメリカでいわゆる「韓国民主回復統一促進国民会議」なるものを結成するとき、アメリカ各地を回って演説したのですが、そこには実に様々な人が集まっていました。だが、その人たちのみなが民主人士というわけではなくて、中には危険人物もいたのです。……金大中氏はカナダでもそのようなものを結成し、今度は日本にも作り、将来ヨーロッパにもということでした。その中には国民会議にとどまらず、亡命政府を樹立しようという人もいたのです。
私は正直なところ、当時南北対話に全身全霊を傾けていました。私は命がけで平壌に行き、戦争を防ぎ、統一を進めようという一念で、どうすれば統一できるか、という思いしかありませんでした。
確かにその頃だったと思います。ベトナムでは最終的にベトナム(南)とホーチミン軍隊(北)の会談にベトコン(南ベトナム民族解放戦線)が参加するという三者会談になったのですが、当時ロスアンゼルスや日本への北朝鮮の指令は、その(反政府)組織に積極的に参加しろとか、関心を表明しろというものでした。また反政府系新聞にもそのような方向へ向かう兆候がキャッチされました……。私が南北対話を進める当事者として考えてみると、このままでいては亡命政府の樹立如何に関わらず、へたをすると金日成が、南の朴正煕だけでなく海外にいる民主人士まで含めた三者会談に進もうとする可能性があり得ると思ったのです。なぜなら、私が北のやつらと話すたびに、統一について南には意見の食い違いあるのではないか、という話をしょっちゅう持ち出すのからです。
それは私にとって頭痛の種でした。このままでは南北対話も難しい。どんな組織であろうと海外で全世界的な組織を結成し、反韓活動、反政府活動するというのは、対話の進展に妨げになる。もちろんそんなことはあってはならないが、万が一にも一部の主張するような亡命政府が結成されでもしたら、わが国の権威は失墜します。実際私にはそのような危機感もありました。これらを考慮すると倫理的には胸の痛いことですが、少なくとも金大中氏を本国に連れ戻すべきだという思いにかられました。このようなことから拉致事件が起きたのではないかと考えるわけです。
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第10章 アメリカCIA韓国責任者の証言 ─「金大中を助けなければならない」
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グレッグ 私が朝鮮ホテルに泊まっていたとき、一度日本のNHKに証言したことがある。その内容はすでにマスコミで報道されており、新しい事実はない。20年前の事件についての証言は、もうこれが最後になることを願っているが、今回は私が知っている限りのことをお答えしよう。
私が初めて韓国に到着したのは、73年6月末か7月の初めだったと記憶している。そのとき金大中氏は外国にいた。それからしばらくしてアメリカで、金大中氏の一連の演説があったのだが、その内容は非常に反政府的な内容で韓国政府にとっては脅威的なものだった。そのとき演説会場で野次と騒ぎがあり、金大中氏の演説が妨害された。ハビブ大使は、このような演説妨害は韓国政府の操縦によるものだと言った。日本でもやはり野次と騒ぎがあって演説が妨害されたのだが、私の記憶ではハビブ大使が「他国で韓国政府を批判することは深刻な事態を引き起こす。さらに日本で韓国政府を批判するのは韓国の現状から考えると非常に危険だ。このため、これから金大中氏は大変な目にあうかもしれない」と語った。
事件の当日である8月8日午後3時頃、私はJASMAK-K(韓国軍事諮問団)クラブにいたが、大使館から電話連絡があり拉致の事実を知った。どの経路を通じたものかはわからないが相当早く情報を入手し、ハビブ大使と話したのを思い出す。その時ハビブ氏は韓国駐在のわれわれのチームを集めたが、それは大使館の政治参事官、CIA ソウル責任者である私、大使館の武官、それに文化広報院長だった。
大使は「韓国の中央情報部が関与しているようだが、金大中氏を助けなくてはならない。すぐに情報収集し、証拠を集めるように」と指示した。
この事件は韓国でセンセーショナルな事件であったため、それぞれが情報を入手してハビブ大使に個別に報告した。ハビブ大使はそれらを総合的に判断したのち青瓦台訪れ、真相の確認と憂慮を表明した。
大使が青瓦台に行ったのは何日なのかはっきりしないが、以前マスコミに話したように、ハビブ大使は金大中氏のアメリカと日本での演説中会場であった野次などの演説委妨害を目撃したので[原文のまま]、拉致事件が起きたという報告を受けても、さほど驚きもしなかった。十分に証拠が集中されて、即刻青瓦台を尋ねたところを見ると、事件を事前に予測していたようだった。また実際のところ、金大中氏の救出に大きな役割を果たしたのはハビブ大使だった。
ハビブ大使が青瓦台(青瓦台なのか外務部なのか──いずれにしてもトップクラス)を訪ねた後、アメリカはそれ以上、直接的な介入は行わなかったと思う。私が知っている限り、ハビブ大使が青瓦台に行ったのは飛行機問題ではなく、トップクラスに真相の確認と憂慮を表明しに行ったものだ。これによって、アメリカの直接的な役割がいったん終わったと思う。
しかし、アメリカ大使が本国に報告する方法はいろんなやり方があり、デリケートな事柄については他の制限された方法(他にわからないように行うやり方、私も大使時代にこのような制限された方を使ったことがある)を使うので、その詳しい内容については知らない。
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