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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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政府効率化省とDS解体とトランプ関税

2025年04月14日 | 国際・政治

 朝日新聞の論説主幹・佐藤武嗣氏は、4月10日、「座標軸」という欄で、”秩序破壊「法の支配」説く時”と題し、トランプ大統領を批判する記事を書いています。
 その文章は、「(戦後の)80年間の時代は終わった。これは悲劇だが、新たな現実である」。というカーニー首相(カナダ)のトランプ関税を批判した言葉で始まっています。
 そして、”世界は、関税競争や経済のブロック化が第二次世界大戦の引き金を引いたとの反省から、貿易自由化にかじを切り、ブレトンウッズ体制や世界貿易機関(WTO)を育んできた。その流れを主導した米国がいま、秩序の破壊に猛進する姿に、失望と危機感を抱く”と続けています。
 さらに、”世界相手に貿易戦争を仕掛ける狙いは何か”、と自問し、”思い当たることがある”というのです。
 その”思い当たるフシ”というのは、
ワシントン特派員だった8年前、トランプ大統領の最初の演説で飛び出した「殺戮(carnage)」という耳慣れない言葉にぞっとした。自由貿易や寛容な移民政策により米国市民が犠牲になったという文脈だった。自らの主張を正当化するには、戦後秩序で他国に利用された「報復」として関税発動が欠かせない。そんな執念を今回は「解放記念日」と呼んで炸裂させた。…”
 といいます。
 でも佐藤氏は、トランプ氏が「ディープ・ステート(deep state 略称:DS)解体」を公約して選挙に勝利し、その公約に基づいて、政府効率化省(DOGE)を設け、組織改革(縮小)に取り組んでいることは、まったく考慮していないように思います。佐藤氏は、トランプ氏の公約について、なぜ直接トランプ大統領に問い質した後で、文章を書かないのかと思います。主要メディアには、それくらいのことができないわけはないと思います。でも、そうしたことをせず、想像で批判する文章を書くのは、「DS解体」の意味が明らかになると困るからではないか、と私は疑います。だから、トランプ大統領の政策が、戦後のアメリカの戦略の大転換であることについては、書くことができないのではないか、と思います。
 私は、「DS」というものの実態がはっきりせず、また、いかにも「陰謀論」めいているので使いたくはないのですが、トランプ大統領が「DS」と呼ぶような組織集団の存在は否定できないと思います。そして、トランプ大統領の関税政策は「秩序の破壊」ではなく、「DS解体」のためであり、「秩序の転換」として理解するべきだと思います。トランプ大統領の「執念」というような個人的な思いの問題として語ってはならないと思うのです。
 さらに言えば、戦後世界の「秩序」は、圧倒的な軍事力と経済力を背景に維持されてきた、アメリカのための「反共的秩序」であり、「法の支配」と呼べるようなものではなかった、と私は思います。それは、アメリカの戦争や、反米的な国の政権転覆、また、米軍基地問題などをふり返れば、分かるのではないかと思います。アメリカに逆らう国には制裁を科し、なお逆らえば、軍事力を行使するというようなかたちで維持されてきた秩序は「法の支配」に反するものだと思うのです。 

 そういう意味で、下記のようなスノーデン氏に関わる情報は、アメリカの影響力行使に手を貸してきた日本の関係者には、深刻な問題だろうと思います。(この情報について、その後、あちこち調べましたが、どこにも関連情報が見当たらず、フェイクの可能性が大きいと思いました。でも、説得力のある情報であり、いくばくかの可能性を考慮して、そのままにすることにしました。)

”New Trump Administration Japan DS Dismantling Group Formed Started in the direction of elimination

Officials from the new Trump administration have visited Japan one after another, and the Japanese government is said to be in a state of frenzy. As for why he came to Japan, he came to crush Japan's deep state in order to fulfill Trump's presidential campaign promise of "abolishing the deep state". That's what it means. (Itagaki Information Bureau) To completely eliminate DS, it is necessary to cut off its funding source, and that funding source is Japan, a dark place The leaders of the effort to eliminate DS all have "red records.

The new Trump administration will establish a (secret) organization called "Japan Countermeasures Department" and its director will be Edward Snowden, a former CIA and NSA employee who is familiar with the behind-the-scenes aspects of DS (returned to the US in January 2025). It is rumored that a new member will be appointed.”

日本DS解体グループ結成 廃絶方向で始動

トランプ新政権の高官が次々と来日し、日本政府は狂乱状態にあるといわれています。なぜ日本に来たのかというと、トランプ大統領選の公約である「ディープステートの廃絶」を果たすために、日本のディープステートを粉砕するために来たのだ。それが意味するところです。(板垣情報局)

DSを完全になくすためには、その資金源を断つ必要があり、その資金源は暗い場所である日本です。DSを撲滅する取り組みのリーダーたちは、全員が「レッドレコード」を持っています。

 トランプ新政権は「対日対策部」という(秘密の)組織を設立し、その長官は元CIAやNSAの職員でDSの裏側に詳しいエドワード・スノーデン氏(2025年1月に帰国)が務めます。新メンバーが就任すると噂されています。(機械翻訳) ”

 

 下記は、<『朝鮮戦争の起源2⃣ 1947年─1950年 「革命的」内戦とアメリカの覇権』【下】』ブルース・カミングス:鄭敬謨/林 哲/山岡由美「訳」(明石書店)>から「第四部終幕  第19章 封じ込めのための戦争」の抜粋ですが、「法の支配」に反する反共的なアメリカの戦略が、明らかであると思います。
 特に、下記のような記述は見逃せません。
朝鮮戦争にアメリカ空・海軍を参戦させるという重要な決定について一人で取り組み、決定はその夜ブレアハウスで承認された。”
”それらの決定は連邦議会や国連での協議を待たずに下されたものだった”
”スティムソンは真珠湾攻撃の直後に、「ハワイを直接攻撃することで、今や日本人がすべての問題を解決してくれた」と日記に記し、「優柔不断の時期が過ぎ、全国民を団結させるような形で危機が到来したという安堵感」を吐露している”
”だが、アチソンは間違っていた。これは北側にとっても、南の住民の多くにとっても、朝鮮の戦争だったのだ。が、アメリカにとっては東西問題であり、1944年以来、李承晩が絶えず引き起こそうとしてた成り行きだった。そのため、この戦争は北朝鮮対アメリカ人の戦争となり、同じ物差しで側れない。それゆえ、相手には理解しがたい目的の為に、互いを殺戮しあう羽目になったのである。 
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                         第四部終幕
                    第19章 封じ込めのための戦争


 敵は自らが企てたことをせず、その正反対の行動に出た。彼らに成し得たことの中でも、これほど自らの目的を挫くのにうってつけの行動はないだろう。それもすべて自身の愚かさのなせる業である。…これはいずれの陣営にとっても、朝鮮の戦争ではないのだ。 ディーン・アチソン


 1950年6月、ひっそりと静まり返った週末の土曜日の夜、ディーン・アチソンは「例によって遅くまで国務省で過ごした」後、メリーランド州のサンディ・スプリングの農場に帰っていた。その夜、すなわち6月24日の午後9時26分に、ジョン・ムチオ(アメリカ合衆国・駐韓大使)から最初の電報が届く。一時間と経たないうちにディーン・ラスクは国務省に駆けつけた。ジョン・ヒッカーソン(国務次官補・国際連合担当)が直ちにアチソンに電話をかけると、アチソンは、安全保障理事会をあす開催させるのに「必要な措置をとるよう」命じた。ヒッカーソンは午後11時30分、国連事務総長トリダヴェ・リーに安保理開催を要請した。ラスクが後に認めたように、この決定はソウルからのこの最初の電報に基づいたものだった。
 このとき実質的にワシントンにいた政府高官はアチソンとラスクの2人だけだった。トルーマンはその朝、ミズリー州インディペンデンスの自宅に向かっており、日曜日にひそかに弟の農場に立ち寄ってからワシントンに戻ってきた。その後の数日間、アメリカの陸・空軍部隊をまもなく戦闘に送り込むことになる意思決定を支配したのはアチソンだった。アチソンは(ラスクとともに)朝鮮問題を国連に持ち込むことを決定し、その後戦闘についてトルーマンに知らせた─その際トゥルーマンには、翌日までワシントンに戻る必要はないと伝えている。6月25日夜のブレアハウスでの会議では、韓国に対する軍事援助の増強、アメリカ空軍が韓国からの退避を援護すること、および台湾と中国本土の間に第七艦隊を介在させることを主張。6月26日午後には、朝鮮戦争にアメリカ空・海軍を参戦させるという重要な決定について一人で取り組み、決定はその夜ブレアハウスで承認された。したがって、介入の決定はアチソンが下し、大統領がこれを是認したわけだが、決断が下されたのは国連や国防総省、連邦議会の承認を得る前のことだった。
 この6月の諸決定を支持したジョージ・ケナンは6月26日午後にアチソンが合議制の話し合いを打ち切ったメモをもとに、次のように回想している。

 彼は一人になって口述を書きとらせる時間がほしいと言った。そして、われわれを[3時間後に]呼び入れると、作成した文章を読んで聞かせた。それは大統領が最終的に発表した声明の原案であり、翌日の最終発表まで大きな変更は加えられなかった…政府が実際にとった方針は、軍指導部が[アチソンに]押しつけたものではなく、アチソンが一人で熟慮を重ねた末に自らたどり着いたものだった。

 アチソンも「その話は自分の記憶と一致する」とケナンに同意する。その晩、ブレアハウスに集まったグループは朝鮮戦争への空・海軍投入を承認し、台湾と中国本土の間に第七艦隊を置くことにした。ケナンは6月26日の決定が極めて重要だったと言及しているが、アチソンによれば、
「午前に…伝えたわれわれの行動計画について、それを実行するよう国連が求めてきたのは、〔6月27日の]午後3時になってからのことだった」)。記者クラブでの演説と全く同様に、朝鮮に関する決定はアチソンの手になるものであり、「一人で熟慮を重ねた末に」たどり着いたものだった。

 これらの決定は朝鮮における封じ込めというアチソンの論理の帰結として生まれたものだが、封じ込めの論理は最初1947年に練られ、記者クラブでの演説を構成したものだった。日曜日の午後、何とか時間をとって朝鮮情勢を考え抜いた際、アチソンは「後退」すればアメリカの力と威信は台無しになると結論付けた。「威信というのは力の投げかける影のことであり、これは抑止力として非常に重要だ」。彼はこんな言葉を残していることを思い起こしていただきたい。「われわれがこれまでにしなければならなかったのは防衛を組み立てることだったのだが、その手段は不十分で、一つひとつのプレーがどこでディフェンスラインを破るのかをわれわれは手探りで判断していた」。「野党/敵(オポジション)の仕事とは反対/対戦することであり、彼らは自分たち自身が作り出した状況で可能な限りのことをしている」。自分の言葉通り、アチソンは創造の際に居合わせた。アチソンは自分が、不十分な資源でアメリカの覇権的利益の観点から世界を形作っていると考えた。アチソンはアジアにおける防衛計画を立て「一事態」を築き上げたが、そこでは攻撃行為が失敗することとなっていた。この論理においては、彼が必ずしも攻撃を予期している必要はなく、それが朝鮮で起きることを望んでいる必要もない。アチソンは距離を置いて、じっくりと環境を構築することを望んだ。これまで詳しく論じてきたのは朝鮮と台湾の二カ所だが、ソビエト帝国周辺で火種となり得た地域としてイラン、トルコ、ギリシャ、ベルリンを付け加えることもできよう。
 真珠湾攻撃前のヘンリ・スティムソン陸軍長官の思いを身近に感じていたアチソンは、攻撃が起きた時、彼と同じようなカタルシスを覚えた。スティムソンが「巧みに操って」日本人に攻撃させたかどうかはさておき、スティムソンは真珠湾攻撃の直後に、「ハワイを直接攻撃することで、今や日本人がすべての問題を解決してくれた」と日記に記し、「優柔不断の時期が過ぎ、全国民を団結させるような形で危機が到来したという安堵感」を吐露している。アチソンは朝鮮を同じように見ていた。すなわち朝鮮がNSC68の問題を解決し、アメリカ人を団結させた。そのおかげで、先例がないほど多額の防衛費を費やしてソ連がしかけたとされる侵略行為を阻止するという政策が支持されたのだ、と。ジョセフ・ハーシュは、朝鮮に関する決定が下された直後のこうした雰囲気を捉えて、「かつて……感じたことがないほどの安堵感と一帯感は、この街を通り抜けていった」と書いている。
 アチソンは自らの論理から後に「これはいずれの陣営にとっても、朝鮮の戦争ではない」という結論にたどり着いたが、これは以下のような考察から生まれた啓示的なコメントであるといえる。
 朝鮮は局地的な事態ではない。朝鮮自体に大きな価値があるからこの攻撃が生じた というわけではないのだ。この攻撃は彼らが朝鮮にいくばくかの土地を求めたものではなく、共産主義者の支配グループ全体が西側の勢力地域全体にしかけた猛攻撃の急先鋒だったが、主として東洋への攻撃でありながら、全世界にも影響を与えた。共産主義者の目的はむろん朝鮮を統一させることだったが、日本や東南アジア、フィリピンに揺さぶりをかけ、東南アジア全域を手に入れ、ヨーロッパ情勢にまで影響を与える狙いもあった。それこそが朝鮮で戦争が起こっている理由なのである。

 そして、「敵は自らが企てたことをせず、その正反対の行動に出た。彼らになし得たことの中でも、これほど自らの目的を挫くのにうってつけの行動はないだろう。それもすべて自身の愚かさのなせる業である」。朝鮮は両陣営にとっての「実験場」であり、「それは両陣営の世界的な目的のための世界戦略だ。これはいずれの陣営にとっても、朝鮮の戦争ではないのだ」。
 こうした考え方は本書で論じてきたことのほとんどをどこかへ追いやった。つまり、朝鮮人とその歴史は現実の問題とは無関係と見なされ、排除されたのだ。アチソンにしてみれば、朝鮮で戦争が起こったのは偶然にすぎなかった。朝鮮はスペインと同じで、超大国にとっての実験場だった。この時期における朝鮮の実際の歴史は、いわゆる「南北」問題に相当するものであり、主たる政治課題は脱植民地化と植民地主義の遺産を根本的に再編することだった。これを東西の枠組みに置き換えれば、実際の歴史は関係がなくなり。朝鮮の内部環境に関する知識がほとんどなくても、朝鮮戦争に関する文献をすっかり書けてしまうことになる。
 だが、アチソンは間違っていた。これは北側にとっても、南の住民の多くにとっても、朝鮮の戦争だったのだ。が、アメリカにとっては東西問題であり、1944年以来、李承晩が絶えず引き起こそうとしてた成り行きだった。そのため、この戦争は北朝鮮対アメリカ人の戦争となり、同じ物差しで側れない。それゆえ、相手には理解しがたい目的の為に、互いを殺戮しあう羽目になったのである。
 しかし、それでもやはり、これは封じ込めのための戦争であり、防衛戦争のだった。世界に関するアチソンの高慢で冷酷な論理においては、よほどたやすく実現するのでない限り、李承晩の庇護の下で朝鮮が統一されるなど論外だった。アチソンは7月半ばにこう語っている。「38度線を奪還するのに必要な戦力を投入しなければならない。これはつまり、力ずくで追い出されたら、一刻も早く再びそこに戻っていくべきだということだろう。中国が参戦するとしても、同じことが言えるだろう。「ソ連が参戦しても、全面戦争になるまで徹底的に朝鮮で戦うべきだと私は考えるだろう」。
 これは凄まじいまでの封じ込めだったが、封じ込めであることに変わりはなかった。トルーマンはアチソンの考えを受け入れ、その後二人の方針がぶれることはなかった。そして、ワシントンでは官僚にも政治家にも巻き返し政策が重視されるようになり、何ら犠牲を伴わないと考えられた。6月26日、トルーマンはある側近に、朝鮮は「極東のギリシャだ」と語った。このたとえ方が、後にミュンヘンやチンギス・ハーン、ティムールになぞらえた時より、アチソン流の論理と朝鮮内戦の真実にはるかに近い。韓国には巨大な経済協力局(ECA)と駐韓アメリカ軍事顧問団(KMAG)がついており、トルーマン・ドクトリンの間接的な封じ込め網の一部であったが、そう認識されていたのは国務省内でのことにすぎなかった。6月26日までに韓国軍の崩壊が明らかになると、こうした論理はアメリカの軍事力を用いた直接的な封じ込めへとシフトしていった。
 アチソンがまず頼りにしたのは国連であって、アメリカ連邦議会ではなかった。彼は無礼にも、自分に同意しない者の見解は──それが軍であれ、立法であれ、社会全般であれ──安易に侮るところがあった(彼にとって世論は、自身の自律的な政策決定に対する意地の悪い制約だった)。本人の言によれば。彼が6月24日から26日かけて議会と協議しなかったのは、「その時点でごく明白だと思われた状況をすっかり混乱させ」、議員らが「大統領特権を制限する」おそれがあったからだという。(国連ではそのような問題は生じない)。1950年6月28日という早い時期にタフト上院議員がアチソンとトルーマンの決定を「大統領よる武力行使権限の完全なる侵害」と評したが、後にそのことを聞かれたアチソンはかなりの驚きをあらわにした。交戦権が連邦議会の権限であるとはアチソンには思いもよらなかったのだろう。
 事にあたってのアチソンの秘密主義は、前提をはっきりさせないとか小うるさい民主主義を寄せ付けないというレベルにとどまらず、自らの決定にかかわる情報を墓場まで持って行き、歴史的記録から隠すほどに徹底していた。アチソンは意思決定に関して、たいていは自身が唯一心から信用した自分の顧問と内々で決めてから、アチソンの意見に従うことの多い経験不足の大統領に指示するといった自律的なやり方を好んだ。
 アメリカ軍指導部はアメリカの軍事力の限界について、より冷静で控えめであり、ブレアハウスの会議から明らかなように、朝鮮戦争への地上部隊投入について消極的だった。だが、アチソンは軍部の判断もほとんど相手にしなかった。後の彼の言葉によれば、統合参謀本部は「自分の発言を耳にするまで、自分が何を考えている分からない」のだった。しかし、ひとたび話せば「御大が話したのだから絶対に正しい、となる」。アチソンによれば、国家安全保障会議の席で、統合参謀本部はたいてい誰も読まないような難解な文書で自らの見解を示し、「それから議論するのだが、その後私の経験ではいつも、私が健全な意見だと思うほうを大統領が支持した。それは私が大統領に提示する意見だった」。国防総省と国務省の間に論争が生じると、大統領はほとんどの場合アチソンの見解に従った。「私がそれを提案したからではなく、もう一方の意見があまりにばかげていたからである。何らの価値もなく、考え抜いた案とはいえなかった」。
 アメリカの世界戦略の計画能力という点では、統合参謀本部についてのアチソンの言葉は正しかった。国防総省は省の特権や予算をめぐるすったもんだ、あるいは神聖なる標準作業手順といったことに慣れ親しんでいたため統合参謀本部による方針説明は、グレアム・アリソンいうところの官僚政治的「つぎはぎ(モザイク)」の支離滅裂な性質を帯びていた。アチソンの覇権主義的な指揮と世界構想は、アメリカ政府内のこうした流動性を支配した。これはアチソンが自説の「第一モデル」に見切りをつけるのが早すぎたことを物語る格好の証拠である。これまで論じてきたように、戦後まもない時期の外交政策決定機関はアメリカ政府内で驚くほどの独立性を有しており、アチソンはその慧眼ゆえに、次々に下される重大な決定に関して有利な立場に立った。だが、それにもかかわらず、国際協調主義者の持続的な膨張主義より、まとまりのないモザイクほうが、朝鮮やその後のヴェトナムにおけるアメ リカの軍事力の限界に関してすぐれた感覚を示したのである。
 ・・・以下略


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