かつて、「報道」を三権(行政・立法・司法)に次ぐ権力として「第四権力」とする考え方が存在しました。メディアが「権力の監視役」としての役割を担うという考え方です。現在、そういうメディアの役割は、ほとんど消えてなくなっているのではないでしょうか。
しばらく前(4月6日)、朝日新聞は、「フォーラム面10年」と題し、ジャーナリストの津田大介氏とフォーラム編集長の真鍋弘樹氏の対談を掲載しました。そのなかで、津田氏は”時代に対応した情報の届き方については、まだ工夫の余地があると思います。でも、結論としてやるべき事はこれまでと大きく変わらないのではないでしょうか。取材して裏付けを取り、隠されていた事実を表に出す。アジェンダを設立し、対立する論点をフォーラムで議論して行く。これを報道がやらなくなったら社会は加速度的にひどくなっていく。諦めるのはまだ早いでしょう。”と語っています。今後の朝日新聞「フォーラム面」に関する大事な指摘だと思います。
でも、私は、日常の新聞記事や、テレビのニュースなどは、もはや回復が難しいほど”ひどく”なっていると感じます。
4月16日、朝日新聞は、「俳優逮捕報道 人権への配慮は」と題し、広末涼子容疑者の逮捕を受け、テレビ各局がニュースやワイドショなどで傷害事件を大きく取り上げたことを問題視し、識者からは「興味や好奇心に重きが置かれ過ぎている」と危ぶむ声が上がっている、と伝えました。朝日新聞には、まだ、ジャーナリストとしての良心を失ってはいけないと考えている人たちが存在するということだと思います。でも、日本のメディアは、全体的に、かなり俗悪週刊誌に近づいており、読者や視聴者の関心を引くことしか考えていないような記事やニュースが多くなっているように思います。広末容疑者の報道は、容疑の段階であるにもかかわらず、あたかも薬物中毒で事故を起こし人を傷つけたかのような推理に基づいて、現場を取材したり、広末容疑者の自宅に入る捜査員の様子を伝えたりしていたと思います。そして、容疑の段階でのこうした推理に基づく取材や報道は、事件が起こるたびに見られることで、珍しいことではないのです。
また、最近のニュースは、事件や事故のニュースが中心であることも、大きな問題だと思っています。読者や視聴者を増やさなければならないという目的が中心になると、どうしても、日本が直面する数々の重大問題には目をつぶって、波風を立てないために権力や多数意見に配慮した方向に進んでしまうのだろうと想像します。そして、いわゆるメディアの過度な商業化や政府広報、警察広報への依存が、事実上「監視機能」を失わせてしまうのだと思います。
事件や事故の報道も、その原因や背景を自らは考察することなく、”捜査関係者によると…”というかたちで、そのまま伝えた方が、問題にされることなく、楽なのだと思います。その結果、メディアの独自性や個性はほとんどなくなり、同じようなニュースが、同じように流されることになるのだと思います。
また、国際的な報道では、トランプ政権以前は、アメリカの政治を批判したり、非難したりするニュースがほとんどなかったと思います。でも、「DS解体」を宣言したトランプ氏が大統領に就任したとたん、メディアがアメリカの政治の猛烈な非難や批判をくり返すようになったのも、権力や多数意見に配慮する姿勢になっているからだろうと思います。
戦争を止めようとせず、平和憲法を無視して、ウクライナ支援の立場をとり、アメリカやウクライナからもたらされる情報を何の検証もせずに報道してきたことも、そういう姿勢だからだろうと思います。
そういう意味では、上記の津田氏と真鍋氏の対談のなかでも取り上げられているデジタルメディアとフェイクニュースの問題で、見直されている伝統的メディアの地道なファクトチェク、言い換えれば「事実検証機能」が、特に、国際的な問題では全く機能していなかったといえるように思います。だから、日本の報道は「大本営発表」をそのまま伝えた戦前とかわらない状況だったと思います。
ウクライナ戦争における国際社会のウクライナ支援を決定づけた「ブチャの虐殺」には、当初から、あちこちでさまざまな疑問が指摘されていたにもかかわらず、日本のメディアは、そうした指摘には目をつぶり、アメリカやウクライナからもたらされる「検証されていない情報」を伝え続けました。かつての「大本営発表」が、アメリカやウクライナからもたらされる情報に変わっただけだということです。
下記は、「金大中 拉致事件の真相」<金大中先生拉致事件の真相糾明を求める市民の会(韓国)>(三一書房)の「刊行の辞」の一部です。本来メディアは、「第四権力」として、こうした国家が絡む事件の真相を糾明し、報道することに全力を尽くす必要があったと思います。それが、「第四権力」としての報道の役割だったと思います。でも、残念ながら、日韓のメディアは「第四権力」としての役割を果たすことができなかったのだと思い
ます。
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刊行の辞
かつて老子は「古(イニシエ)の道を執りて以(モッ)て今の有(ユウ)を御(オサム)」(執古之道 以御今之有:過去の理を把握することにより今の現実を治める)と述べ、ドイツのワイゼッカー元大統領は「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」と語った。
金大中(キムデジュン)先生拉致事件の真相究明運動もまた、歴史における過去の疑惑を明らかにせずには、正しい現在と未来は建設し得ないという自明の命題から出発したものだった。過去の不正をふせたまま、今日と明日の正義を論じることはできない。
なかんずく、この事件は古今東西類例をみない政敵殺害のシナリオ立案のもと、綿密に計画された公権力の蛮行であったという点で、韓国の政治史上拭えない恥部を残してしまった。さらに、韓日両国政府の野合で隠蔽されたことによって、殺害目的の拉致だけにとどまらないもうひとつの犯罪性が加算されてしまった。
これに抗して、韓日両国の良心的政治家と市民運動勢力はその視点を拉致被害者個人の人権侵害に限ることなく、不正な権力犯罪の究明と問責、正しい韓日関係の成立までに終局目標をおいて運動を繰り広げてきた。しかし、両国の権力者たちは依然として事件真相究明の要求を黙殺し続けている。1992年には、この問題で自国の政府を叱咤してきた両国の野党、または野党人士が相前後して執権することになったが。だが、彼らはいざ權座に腰をおろすと、それまで自らが非難の対象としていた前任執権者たちとあまり変わらない「無関心」を装っている。驚くべきこの大事件で、処罰された者は誰一人としていないという事実そのものが、当時の最高権力者関連説を否定しがたいものにしている。
・・・以下略
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