ロシア本土とクリミア半島を結ぶ橋の爆破によて、ウクライナ戦争が一段とエスカレートし、死傷者が一層増えています。にもかかわらず、ゼレンスキー大統領は、”ウクライナを脅すことはできない。代わりにさらに団結した”と述べ、徹底抗戦の決意を示したといいます。全く報道されませんが、ウクライナの人たちは、そうした主張をどのように受け止めているのか、気になります。
また、バイデン大統領は、CNNのインタビューで、”ロシアのプーチン大統領が核兵器を使用するとは思わない”と述べたといいます。
プーチン大統領は、”予備兵や軍事的な専門性を持つ一部のロシア国民を動員する”と発表したとき、”欧米諸国が核の脅威をちらつかせている”と訴え、”ロシア本土とウクライナの親ロシア派地域の安全が脅かされた場合は、ロシアが持つすべての武器の使用も辞さない”と核兵器の使用を示唆しつつ、”これは、はったりではない”と明言しているのに、”ロシアのプーチン大統領が核兵器を使用するとは思わない”というのは、あまりに無責任ではないかと思います。
立場が逆であれば、アメリカは躊躇することなく、核兵器を使うのではないかとさえ思います。
また、ゼレンスキー大統領にとっては、クリミアの奪還は、ウクライナの人びとの命よりも大事なのか、と疑問に思います。
クリミアの人たちは、今回のルハンシク州、ドネツク州、ヘルソン州、ザポリージャ州の4州と同じように「住民投票」でロシア編入を決めたのであって、ロシアが力づくで無理矢理併合したというのは、ちょっと違うのではないかと思います。また、どの程度の人が、クリミアのウクライナ復帰を望んでいるのかということも考える必要がある思います。ウクライナが、4州の「住民投票」やクリミアの「住民投票」の結果を認めないということであれば、戦争で奪還するのではなく、きちんと法的に争う必要があるのではないでしょうか。逆に諸事情あって、ロシアから離脱することを住民投票できめた地域が出た場合、それも認めないということでいいのでしょうか。私は、一定の条件が満たされれば、プーチン大統領がいうように「住民の自決権」は尊重されるべきだろうと思います。
クリミア奪還を主張するゼレンスキー大統領は、”クリミアで侵略者がいない晴れやかな未来を目指している”と述べ、、ウクライナ大統領府は、”これが始まりだ、違法なものは全て破壊されなければならない”と主張したとのことですが、ロシアが核兵器を使うことも覚悟の上の主張でしょうか。親露派の人が多いクリミアで、”晴れやかな未来” が可能でしょうか。
もしかしたら、バイデン大統領も、ロシアが核兵器を使用したら、ロシアをさらに孤立化させ、弱体化させることができるので、ロシアの核兵器使用を恐れず、ウクライナに徹底抗戦を働きかけているのではないか、と疑います。
そう考えるのは、アメリカが、第二次世界大戦後、さまざまな平和のための国際法や国際組織を無視して、他国と戦争したり、他国の紛争に武力介入したりしてきた多くの事実があるからです。アメリカは、戦争中や武力介入をしている時は、巧みな情報操作やプロパガンダによって、真実を隠しますが、時が経つと歴史家や研究者が、さまざまな証言や資料を集め、真実を明らかにします。それらを手に取ると、アメリカの野蛮性が、よくわかります。
ウクライナ戦争に関しては、日本政府のみならず、日本の主要メディアが、アメリカの情報操作やプロパガンダを少しも疑うことなく報道し続けていると思います。
なぜなら、プーチン大統領が、”ウクライナでの軍事作戦を開始する”と述べ、軍を進めた2月24日以後のことしか語られていないからです。ウクライナ戦争の話を、「ロシアのウクライナ侵攻」から始めることが、戦争の原因を隠蔽し、ロシアだけを悪者にする報道にしてしまっていると思います。
2014年、のオレンジ革命といわれる政変がどのようなものであったのか、ということや、その政変にアメリカがどのように関わっていたのかということ、さらに、オレンジ革命以降、アメリカやNATO諸国が、ウクライナに対してどのようなことをしてきたのかということなどを、主要メディアは、ほとんど報道しません。
また、ウクライナ戦争によって、悲惨な状態に置かれているウクライナの人たちを取り上げた記事やテレビ報道はしばしば目にしたり耳にしたりします。でも、それが停戦・和解の方向ではなく、ロシアを悪とし、アメリカのオースティン米国防長官が主張したロシアの「弱体化」を目的とする方向で取り上げられているように思います。
さらに見逃せないのは、2014年、のオレンジ革命以降、ウクライナ南東部のドンバス地方で親露派の人たちが、どういう攻撃を受け、どのような対立・紛争が続いていたのかという報道がほとんどないことです。1万人以上の人たちが亡くなったと言われているのにです。
原発の廃止を決め、ロシアとノルドストリームの計画を進めていたドイツのメルケル首相の携帯電話が、アメリカ国家安全保障局( National Security Agency:NSA)によって盗聴されていたというような事実とウクライナ戦争の関わりなども、きちんと調べて報道しないと、アメリカが主導するウクライナ戦争の醜い実態は、ほとんどわからないと思います。
下記に抜萃したアメリカの朝鮮分断支配の実態を踏まえれば、同じようなことがウクライナでくり返されていることがよくわかると思います。
アメリカに亡命していて李承晩は、「国内的足場」ほとんど持っていなかったのに、大統領となりました。そして、権力個人集中的体制を構築するために、強引に「大統領責任制」を決定しました。議会と立法府の権限を極めて小さなものに限定し、独裁的な政治ができるようにしたのです。現に、国の存立を左右する重大な問題で、国会の多数意見を無視しました。
そして、それを支えたのがアメリカです。下記に抜萃した文章に
”もともと新生韓国政府は、左派と民族主義右派のボイコットにも拘らず、アメリカの対ソ政策の為に、米軍政庁が警察、軍予備隊的組織による左派狩りを大々的に行いながら、5・10単独選挙を強行した結果生まれた。そして李承晩を中心とする一部右翼勢力による政権樹立が為された。”
とあります。力づくであったことが分かります。
さらに、済州島では、反政府勢力に対する徹底的な地域封鎖、壊滅作戦が実施され、”死者は15,000ないし20,000だが、一般に33,000とされている”というような悲劇が起こっています(済州島四・三事件)。
韓国軍第十四連隊や第四連隊も、反政府勢力の側について反乱を起こしたということですから、新政府の弾圧がいかに朝鮮の人たちの思いを無視した野蛮ものであったかが分かると思います。それがアメリカの占領政策によるものであったことを見逃すことはできません。民主主義や自由主義を掲げる国のやることではないのです。
下記は、「朝鮮戦争 三十八度線の誕生と冷戦」孫栄健(総和社)から「第四章 南北政権の樹立と一般情勢」の一部を抜萃しました。(縦書きを横書きに変えているため、数字の一部は変更しています。)
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第四章 南北政権の樹立と一般情勢
第二節 韓国の四十八年の内政状況
(一) 大統領権力と議会権力
1948年5月10日に行われた選挙の結果として構成された韓国の国会では、どちらも同様に右翼の政党であったが、李承晩大統領の与党ともいえる韓国独立促成国民会派の議員に対して、野党の立場にある韓国民主党が第一党となっていた。
一般的には南朝鮮右翼政党は、それぞれの利害から離合集散と分裂反発を相互に繰り返し、必ずしも統一的な連帯が形成されていた訳ではなかったのだが、それまでの李承晩大統領と韓国民主党との関係には、ある程度の共同戦線的な関係が維持されていたとされた。
すなわち、国内的足場をまったく持っていなかったアメリカ亡命帰りの李承晩と、旧時代の既得権益層有産階級を支持母体とするが、解放後社会における民族主義運動に対する正統性と指導者を欠いていた韓国民主党系人士たちとは、相互の協力を必要とする状況と条件があった。これは、アメリカ軍政庁時代を通して、ともに親米反共と保守の立場の一致からおおむね維持された関係であった。しかし、この関係は、とくに1948年8月15日の大韓民国政府樹立前後の時期に、その矛盾と内部対立が露呈されることになる。
すなわち、李承晩大統領は1948年8月15日、公式に韓国の権力を握ることになったが、その際に彼は大統領中心によるいわば権力個人集中的体制を構築しようとした。これは、新政府における権力基盤を確保しようとしていた韓国民主党の利害に反することであった。
その両者の立場は、すでに韓国民主党で占められていた憲法起草委員会が、その基本構想として大統領を象徴として祭り上げる責任内閣制の憲法を起草したのに対して、李承晩議長が猛烈に反対して、一夜のうちに大統領責任制に改められた時期から先鋭化し出していた。そのわずかな期間で検討され可決された憲法の条文には、民主主義の原則と自由が明記されてはいたが、要するに新憲法は強力な大統領制を規定していた。それは、議会と立法府の権限が極めて小さく、また首相である国務総理の立場も大統領の補佐官程度の権力しか持ち得ないものであった。
この大統領責任制の憲法草案は、7月12日の国会承認を経て17日、公布されたが、この大統領個人への権力集中に反対して、以後も韓国民主党はひきつづき内閣責任制への改憲をつねに主張し続ける政権となっていた。また、新政府樹立にさいしての閣僚などの配分において、以後韓国政界の主導権をとろうとしていた韓国民主党勢力の意図に反して、李承晩大統領は国務総理に北朝鮮から越南してきた朝鮮民主党(北朝鮮からの越南者政党)の李允栄を指名した。すなわち、南朝鮮右翼政党各派は、新しく成立した大韓民国政界の与党的立場となり、その権力を目前とする段階に至って、各派の思惑と利害が大きく相違する経緯となった。
そのため、韓国民主党が第一党である国会はまず、李大統領が48年7月24日に就任宣誓式を行い、初代国務総理に指名した李允栄を指名したが、この李允栄の承認を再度にわたって拒否し、政府に対する強硬な態度をしめした。このような、新政府における憲法起草における内閣責任制かあるいは大統領責任制か、また新政府におけるポスト配分の不満が契機となり、韓国民主党は李承晩大統領人事への反対、頭首金性綬洙の入閣拒否の方針をとり、大統領への権力集中を排除し、韓国民主党が第一党である国会が力を持ち得る責任内閣制への改憲案を執拗に推進することになったのである。
(二) 大統領中心制と多数派野党
すなわち、李大統領は大韓民国樹立当初から、国会に安定多数の勢力をもっていないうらみがあったのである。しかも、韓国の憲法は大統領中心主義をとり、政府は大統領にたいして責任を負う。つまり、政府が議会に対して責任を負う責任内閣制ではなかった。また、行政府、司法府、立法府の三権の構成においても、司法府の独立性は判事の任命権が行政府の権限とされるように、当初から希薄であった。また、首相である国務総理の任命と、最高裁判所である大法院判事の任命だけが立法府の承認を必要とし、国務総理その他の閣僚の罷免は大統領の意志一つで決定されるような制度であった。
これに対して、韓国国会としては、国務会議(内閣)の計画を可決しない権限を持つだけであったのである。また、国会は大統領の拒否権を越えて法案を可決する権限が規定上はあったのだが、韓国の大統領は「法律と同様の効力を持つ命令を出す」非常大権を与えられていた。すなわち、韓国国会は表面的には立法府としての権限を持つ形式とはなっていたが、行政府を抑制することではほとんど効果がなかったとされた。
このように憲法の規定する大統領中心制による韓国行政府、司法、立法府三者の関係には制度的にも不備があり、またそれを補う関係者の政治的熟練と協調がみられなかったために、以後、李承晩大統領と韓国国会の間には、つねに対立的な情況が展開されることがまま見られるようになった。すなわち、少数与党である政府と、野党が多数派を占める国会との対立が生じると、それがそのまま未解決で持ち越される傾向があった。これは、新政府樹立後の韓国政情の混乱の構造的な原因の一つともなったとされた。
たとえば、ついで同年8月23日、親日派粛清のため国会内に設けられた反民族行為特別調査委員会は、新政府内の交通部長官閔熙植、法制処長兪鎮午、商工部次官任文桓の3名が対日協力者に該当すると発表して、その退陣を要求した。そのため、政情の安定を希望する李大統領と対立した。
また、翌9月11日、調印されたアメリカ政府と韓国政府との間の財政および財産に関する最初の取り決めの承認を政府から要請された国会では、その審議の際、韓国の自主性を唱える一部議員の反対を生じた。同18日に行われた表決は賛成78反対28という極めて不調な結果となり、しかも反対派議員26名は退場して表決に加わらなかった。さらに10月13日の国会においては、現在開催中の第3回国連総会が、47年11月14日の第2回総会決議に従って、占領軍の撤退条項を急速、正常に実行するよう要望するとの緊急動議が提出された。そして、これを直ちに表決するべきか否かの論議で議場が混乱した。提案者に対してこれを共産党の謀略と叫ぶ議員もあり、結局審議を一時保留するということで落着した。
(三) 済州島の騒乱
1948年8月15日に樹立された新大韓民国政府の内部も議会との対立が表面化しだし、その当初から波瀾含みであったが、南朝鮮社会、新しく韓国社会となった朝鮮半島南部地域においても、社会情勢は激しく動揺し、左右両派の対立関係は一層拡大していた。
もともと新生韓国政府は、左派と民族主義右派のボイコットにも拘らず、アメリカの対ソ政策の為に、米軍政庁が警察、軍予備隊的組織による左派狩りを大々的に行いながら、5・10単独選挙を強行した結果生まれた。そして李承晩を中心とする一部右翼勢力による政権樹立が為された。
この単独政府の樹立は、いかなる形であれ左翼や革命分子とくにソ連の影響を恐れる保守派の指導者あるいは富裕層、旧日帝時代旧悪の追求を恐れる階層の利益にはかなったが、しかし、市民の大半は、即時統一を強く欲していた。だが、南北朝鮮一般市民の拘らないところで決定された、南北分断する敵対両政府の現実化、朝鮮の恒久的分断への不穏な状況を前にして 南北協商派のみならず、一般市民を巻き込む広範な、そして、激しい抵抗が繰り広げられた。
それまでも南朝鮮(新韓国)の農村地帯の民衆は、解放後の数ヶ月は、それぞれ人民委員会を中心とする行政機構を組織し、それが米軍政庁の警察、軍予備隊組織、右翼青年団のために、だが、潰されては組織するという事が続けられていた。この種の地方の自治組織に対して、アメリカ占領軍は、共産主義的・親ソ的だとして敵対的だった。右派勢力も、勿論、それを壊滅させようとした。
アメリカ軍の南朝鮮占領当初から1年間にわたる地方での弾圧の末に、ついに1946年秋には、南朝鮮地帯の相当広範な地域で、大規模な蜂起が起こっていた。その目的は、米軍政庁のホッジ中将が認めている通り、蜂起市民の主たる要求は人民委員会の復活であった。この米の収穫期の大決起が鎮圧されると、ソウルだけでなく、郡などの地方レベルでの国家権力の支配が強固になり、それまでの人民委員会の自治は、その後ほとんど不可能になった。だが、厳しい弾圧により、多数の死者、逮捕収監者が出たにも拘らず、以後も、この人民委員会支持勢力は強い勢力を秘かに保ち、また1947年には南朝鮮の左翼の大半は南朝鮮労働党の党員となっていた。この党は、南朝鮮独自の党だったが、慶尚道、全羅道出身者が多かった。その47年夏、そして秋と、激しい抵抗と、それへの逮捕、拷問、収監あるいは警察・軍予備隊による組織的弾圧・虐殺事件が続き、左派も山岳地帯でのゲリラ戦を行い、その鎮圧掃討に軍・警察・右翼青年団組織が動員され、双方が銃火を交え、互いにテロと破壊を行う、左派と右派の衝突が果てしなく繰り返された。
そして、1948年の初めになって、南での単独選挙の実施が決まると、左派が根強い南西部(全羅道)および済州島において、単独選挙に反対する抵抗が、一気に激化した。
とくに激しい抵抗と弾圧の結果、その政治対立による被害をこうむったのが、済州島であった。1948年初めまでこの島を自治支配していたのは、45年8月に結成された人民委員会だった。南朝鮮各道では既に政治的弾圧によって人民委員会組織は表だっては消滅し、そのメンバーも逮捕拘束されるか地下に潜行していたが、済州島は半島の南岸の沖に浮かぶ火山島であるため、まだソウルの米軍政庁、軍政警察、軍予備隊の圧力は緩かった。そのため、済州島の人民委員会への民衆の支持も固く、その影響力は強かった。ホッジ中将も済州島を「コミンテルンの影響を受けない人民委員会が秩序正しく真の意味の自治体」と呼んだこともあったが、単独選挙反対の気運による政治的緊張が強い48年4月、島に派遣されていた警察と西北青年団(北朝鮮追放あるいは脱出者の反共右翼青年団)の島民虐殺事件を契機として、民衆蜂起が勃発した。
それは武装闘争になり、やがてゲリラ戦争に発展した。ゲリラは「人民軍」と呼ばれ、兵力は3000~4000だったが、統一的な中央司令部は無く、それぞれの地域のゲリラ部隊同士のつながりも無い発生的なものだった。彼等は山にこもり、沿岸道路や村々を襲撃し、48年6月初めには、島の内陸部の村のほとんどはゲリラに支配されるようになった。
これに対して、ソウルの政治組織は、その大半が日帝下の朝鮮人警察官や補助警察官だった警察部隊と、北から亡命してきた人間で組織されたテロリスト的な反共青年団を大量に送り込んだ。このアメリカ軍事顧問と共に派遣された警察、警察隊(軍予備隊)、武装右翼青年団は、島に恐怖政治を展開した。そのゲリラ掃討、徹底的な地域封鎖、壊滅作戦も厳しく、1949年4月までに島の家屋の2万戸が破壊され、焼き払われ、全島民の三分の一にあたる10万人が、政府軍の守る海岸沿いの村々に収容された。この4月末のアメリカ大使館の報告では「全面的なゲリラ掃討作戦は、……4月に事実上完了した。島の秩序は回復した。ゲリラと同調者の殆どは殺されるか、捕虜になるか、転向した」と述べる。このアメリカ筋の資料では、死者は15,000ないし20,000だが、一般に33,000とされている。その正確な数字は今日でも不明であり、あるいは島民の30万人の三分の一が失われたともされている。
(四) 麗水・順天の軍隊反乱事件
そして、新韓国政府が誕生して10週間もたたない1948年10月19日夜、大きな社会的騒乱が発生した。すなわち、済州島の民衆暴動の討伐のために全羅南道の半島南端の麗水港に集結していた韓国軍第十四連隊が反乱を起こした。その勢力は2500名とされ、同地方所在の反政府分子と合流して警察を襲い麗水から北上して10月20日、順天を占領し、さらに光州方面に向かうという韓国正規軍の組織的反乱となった。麗水市民の多数が赤旗をふり、スローガンを叫んで市中を行進。10月20日の大衆集会で人民委員会の復活が宣言された。また、この反乱は警察に対する民衆の反感にあおられて拡大し、反乱部隊は麗水、順天において刑務所を開いて政治犯を釈放し、北朝鮮の旗をかかげ、人民裁判を行って警察官、旧親日民族分子、右翼政党団体の指導者などを数百人を処刑した。また、この鎮圧に向かった韓国軍第四連隊が、この反乱部隊に同調し合流して、一層、事態は悪化する経過ともなった。
この反乱部隊が討伐に赴く予定であった済州島の騒擾は、すでに同年48年4月初旬、南朝鮮の単独選挙に対する反対運動として大衆が蜂起して以来のものだった。同島ではかねて警察の権力乱用、西北青年団などの右翼青年団の越軌行為が極めて甚だしかったため、一般島民のこれに対する反感が強く、反政府感情を広く醸成させていた。その為蜂起組織は、相当に島民の同情と支持を得ていたといわれた。韓国軍、警察はその鎮圧に努力した結果、済州島の治安は一時回復していた。だが、同48年秋の10月に至って再び騒擾が激化したため、政府軍の増援部隊が送られることになった。だが、その増援部隊内の左派分子は、麗水港で乗船を前にして、討伐の無意義を宣伝し、反乱を起こすよう扇動したのだった。
政府は直ちに戒厳令をしいた。さらに、軍、警察隊を派遣して反乱軍の北進を防ぎ、鎮圧に努めた。その結果、38度線に向かった反乱部隊の主力は慶尚南道の智異山方面に逃げ込み、順天、北城、筏橋、光陽、麗水などの反乱部隊占領地区はやがて回復され、鎮静した。しかし、麗水などにおいては、一般市民、婦人、子供までが武器をとり、政府の討伐軍に抵抗したといわれる。また、それを鎮圧する警察、韓国軍の一般民衆に対する行動には、相当に常軌を逸した行為が多発し、相当数の市民が死亡。警察・政府軍兵士は反乱に協力した疑いが少しでもある者は、捕虜、民間人を問わずすべて射殺した。そのため、軍隊と一般民衆の間に、かなりの不安と恐怖のタネがまかれたとされた。
この反乱事件は1週間後の10月27日までには鎮圧されたが、この武装蜂起事件が契機となって、済州島の暴動が再燃したのをはじめ、共産ゲリラの主根拠地である智異山を中心として、各地において民衆の暴動が発生するようになった。また、江原道の五台山地区においては、またゲリラ部隊が活動をはじめた。済州島の蜂起民衆は、依然討伐隊と対峙状態をつづけたが、その他の地区の暴動はもっぱら警察を襲撃し、部落の徴発を行う程度のものだった。
これらの民衆、部隊反乱は、北側の策動によるものというより、過去3年間の抑圧への反抗、社会正義の実現、旧親日分子の追放、単独政府反対等を求める自然発生的な暴動だった。
『細菌』を読んで 大東亜戦争の大筋を知り 只今 沖縄・朝鮮・満州侵略の足跡を辿り始めました 只今 明治五年の釜山の『草梁倭館』の軍艦『春日』で乗り込んだ花房義朝による 『大日本公館』改め接収は 11万坪の広大な『倭館』を さすがに 只で分捕ったことをそのまま書けないので 『接収』と表現しただけなのではないか そんなことを考へながら 佐藤信淵の『宇内混同秘策』を調べてゐて 林氏のHPに出会しました
これは 自分の研究は足下に及ばぬ ものすごい方に出会ったことを まづ喜び 話せる人をようやくみつけことに 嬉しく思ひました
私は 室町時代の土佐光信が書いた『清水寺縁起』をみて 衝撃を受けました それまで 無邪気に日の丸を応援して来た自分に揺らぎが生まれたのです 二十年以上日の丸=真 日の丸=偽物 この迷ひの中に暮らし 数年前 ようやく 今の日の丸は偽物だと断定し 本年の春に 昔の日の丸を 平安時代の『天地之詞』から私案しました
そして 維新革命を 異心暴力革命となづけ その暴政の足跡を綴り始めました 私は 暴政の真因を 今の真っ赤な日の丸とみてゐます このあたりの持論は 自身のHPに譲り まづは 『草梁倭館』の接収 この実体を知りたいのですが 何か ご存知のことありましたら ご教示していただけると幸ひです
コメントありがとうございます。
>これは 自分の研究は足下に及ばぬ ものすごい方に出会ったことを まづ喜び 話せる人をようやくみつけことに 嬉しく思ひました
などと、とんでもないお褒めの言葉をいただきましたが、恥ずかしさでいっぱいです。
そして、「異心暴力革命」という表現に、なるほど思いました。
私は、日本がなぜ、無謀な戦争を続けたのか、また、日本の政権政党はなぜ、戦争の過ちを曖昧にし、主権を放棄するようなかたちで、アメリカに隷従するような国になったのかを知りたくて日本の戦争をふり返り、明治維新までさかのぼることになりました。
お尋ねの件
>『草梁倭館』の接収 この実体を知りたいのですが 何か ご存知のことありましたら ご教示していただけると幸ひです
については、残念ながら浅学非才の私にはわかりません。機会を見付けて調べてみたいと思います。
私は、今は、ウクライナ戦争にかかわって、アメリカの対外政策や外交政策の実態をいろいろ調べています。
『草梁倭館』接収の件 引き続き 自分で調べて行かうと思ひます
ウクライナ戦争 ここは全くわからず自分には手に負へない領域とし 自分は和が国の朝鮮侵略の足跡を 鉄道建設の足跡を追ひながら 満州占領も 鉄道建設から眺めて行くつもりです ウクライナ戦争まで 視野を広めることができましたら その時 ガッチリと読ませていただきます
さて 松本清張『昭和史発掘』半藤・保坂両氏の薩長暴走史観本 幕末の吉村昭等 史実を振り返る書籍は いろいろ出てをりますが 国民全体は むしろ史実に疎くなってゐる そんな感じがしてなりません
政府も 諸政党も もっと公的・私的の史実研究所を作って 史実を収拾すべきだと考へてゐます
HPも 昔は 自己の研究を搭載するものが多くみられましたが 今では 広告無しの研究報告は少なくなりました 随分と論者諸氏が小粒になりました そんななかで この林氏の大型研究のHPとの出会ひがありました まづは 私か知り得る範囲の史実を 林氏の研究で裏打ちを取りながら 氏の研究の足跡を 私も歩いて見たいと思ひます
和名抄の著者・源順が 心を『古々路』と表記し様に 『史実の古々路』を歩く人が 一人二人と増えたら それだけで 大きな国力になりはしないでせうか
これから 大いに 林氏の拾ひ集めた史実に じっくり目を通し 勉強させていただきたいと思ひます いつか自分の出番が来る 史実を忠実に拾ひ集めて行けば 何時か 社会に役立つことがある そんな初期の夢を 林氏のHPで再確認出来ました ありがたうござゐました
これからも宜しくお願ひします
丁寧な再びのコメント、ほんとうにありがとうございます。
早々のお返事有難うござゐます
>さて 松本清張『昭和史発掘』半藤・保坂両氏の薩長暴走史観本 幕末の吉村昭等 史実を振り返る書籍は いろいろ出てをりますが 国民全体は むしろ史実に疎くなってゐる そんな感じがしてなりません 政府も 諸政党も もっと公的・私的の史実研究所を作って 史実を収拾すべきだと考へてゐます
は、全く同感です。自らに都合よく歴史を修正して、平然としているような政治家も少なくないように思います。だから、私も岩田さんのあげられた著書で、未だ読んでいないものをできるだけ早く読むようにして、勉強させていただきたいと思います。
ありがとうございました。
ホームページのURLかテーマを教えていただければ幸いです。
1…HP
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kuusou/noshinoshi/joyful.cgi
2…テーマ
あ…異心暴力革命政府の征服の足跡
・沖縄占領の足跡
・朝鮮征服の足跡…只今HPに書始
・台湾征服の足跡
・満州征服の足跡
・支那征服の足跡
い…悪党自滅解体
自民党の自滅解体
今の日の丸=古事記の禍津日神と仮定し
真っ赤な嘘月と断定
その真因を平田神道に求めました
平田神道の教義を
一二三四五六七八九十 とし
ひふみよいむなや九と 解読
日文を言むなや『九』 と深掘りし
日文=九=こiこのつ
『九』を五十音図にあてはめますと
阿…一
加…二
薩…三
多…四
奈…五
ハ…六
末…七
也…八
良…九=日文
和…十
良=へソヽ日
=蝦夷の日
ここで 室町時代の土佐光信著『清水寺縁起』に
飛びます
蝦夷の日の丸=真っ赤な日の丸を
なんと 大和朝廷が退治する絵に出会します
かうして
平田篤胤の『ひみふみ…』の日文によって
本来 古来より禍津日神と嫌はれてゐた
真っ赤な日の丸が 秘密の『秘史=日文』として復古
平田神道は 主に薩摩藩に流布し 江戸でも多くの門徒がゐました 神祇官の福羽美静は 平田の門下生でした しかし 平田神道は 教義が不十分として 幕府から布教禁止処分を受け 平田は 秋田に幽閉されてゐました かうして 昔の禍津日神が 国旗として復古する過程を 吉村昭は 『ポーツマスの旗』に 以下の様に綴ります
幕末に薩摩藩主島津斉彬が 西洋型帆船『昌平丸』を建造して 幕府に献上する折 異国船と間違へられぬ様 日の丸の幟り旗を 日本国の船印にしたいと幕府は それを受け入れて 日本の総船印に定めた 維新後 明治政府は 明治三年日章旗の制式を決め 国旗とすることを布達した
その後 国旗は公的機関に掲揚されるに留まってゐたが 明治二十七年日清戦争の勃発と同時に 国民の間に普及する様になった
革命政府の国旗を 当時の国民が受け入れてゐないことがわかります
ここからが 笑ひ者覚悟で書きますと…
この真っ赤な嘘月を 純粋無垢な『白日』に戻すことが 自分の最大テーマになってをります
あれは日の丸ではない ただの月
いやただの月ではない 真っ赤な嘘月
嘘は 白日の下にさらすと言ひますが
今まで 嘘月をさらす『白日』がなかった
そこで天地之詞をヒントに私案した日の丸が
昔の日の丸・魔除の絵三詩
先月の九月十七日に 昔日の丸を作りました
熟の玄関に掲げ
熟の看板に張り出し
塾の駐車場にも飾り
車や 自転車にも 無垢な日の丸シールを貼りました
とは 申しましても これが果たしてホントに
昔の日の丸ですか? と問はれたら…
確証はありませんが そのつもりで開発しました
そこまでしか言へません
しかし 今の日の丸が禍の権化であることは
禍といふ日本語が 以下の様に証明してくれます
禍=わざわひ
=ワ座輪火
=ロ座輪火
=四界に座する火輪
これを語り継ぎたく 土佐光信は
『清水寺縁起』を書いたのだと思ひます
この書籍に出会したのが 今から約二十五年前
その間 今の日の丸=真 今の日の丸=偽
この自問自答の数は 大袈裟ですが無限大
それまで 私は 無邪気に 今の日の丸を
全く疑ふことなく 日の丸だと思ひ込んでゐました
よって 高校教員時代は
日の丸掲揚反対の先生方と 無邪気に闘ってゐました
なんか まいったな
これは まいった まいった
ひょっとしたら 今の日の丸偽物かしら?
この迷ひが 今日の自分の思想を形成させてくれました
だから 何の迷ひも無く 戦闘準備し
この道が絶対正しいと思ひ込んでゐる人を見ると
この人 どこを兵站にして どこに野戦病院つくって
どこで 戦争を終はらせるか
かういふことを何も考へずに
日本を守るために武力が必要
これだけを 唱へてゐると思へてなりません
他にも 平和を守る方法はないのか?
武力以外で 平和を守る方法がないのか?
そこを 真剣に考へます
私のテーマは ここにも辿り着きます
つまり 武力以外で 国を守る方法です
私は それを大好きな和歌に求めました
貫之が和歌を
力をも入れずして天地を動かし と言ふ様に
和が国には こんな天地をも動かす言技
そんな言技があったことに着目したのが
今からおほよそ三十年前
そして今 辿り着いたのが
昔の日の丸と その日の丸の天地を動かす言技でした
随分と 長くなってしまひましたが
自分のテーマについて語ると
こんな表現になります
そして 今 何をやらうとしてゐるか?
1 異心暴力革命の足跡を綴る
これが 手間こそかかれ 近道か?
さう 思って
異心暴力革命の足跡を書き始めました
長くなって申し訳ござゐません
後程ゆっくり読ませていただきたいと思います。
ありがとうございました。
直してゐる間に 一つ研究が進みました ご縁のお蔭かと思ひます ありがたうござゐました
○探るキッカケ
草梁倭館を大日本公館と改めたら 後日 朝鮮側が革命政府に対して『無法者』といふ張紙を掲げた これに体して 革命政府が 皇国を侮辱したとして 征韓論の思ひが強まった
一体 何があって 朝鮮は 革命政府を『無法者』と断じたのか
○探り出した推論
一…草梁倭館を 軍艦で威圧して
只で 革命政府の公館にしてしまった
二…対馬関連の役人を退去させ 代はりに 対馬藩の者と偽って 三井(三越?)の商人を配置し 自由に貿易させた事
当時 朝鮮側は 対馬藩との交易だけを認めてゐたので 革命政府の対馬偽装貿易を『密貿易』として糾弾した そもそも『草梁倭館』は 対馬藩に 二百年も 無料で貸与して来たもの この友好関係を革命政府は無視 そして 『草梁倭館』を 只で乗っ取り その上 名前も勝手に 『大日本公館』にしてしまった
つまり 朝鮮側は
・対馬藩と偽装した三井商人を『密貿易』
・11万坪に及ぶ広大な敷地の中にある『草梁倭館』を 無償で貸与して来たものを 軍艦で威圧して只で分捕ってしまったこと
この二点の革命政府の行為を『無法者』と断じたのではあるまいか?
いづれ 革命政府を継承する悪党・自民党が倒れ まともな政権が成立し 日韓友好関係を構築する時には 必ず この史実の確認から入ると予想してゐます 革命政府の軍艦春日は 体外政策 初めての軍艦外交で この春日をかはきりに 革命政府のアジア侵略が始まったからです
恐らく 韓国人も 日本人も この日韓不仲発端の事件を忘れてゐます 後々 この史実推論が 役に立つ日が 来ると思ってゐます
よくはわかりませんが、何んとなく、そういう流れであったように思います。ありがとうございます。