真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アジアの教科書に書かれた日本の戦争 ベトナム・ラオス・カンボジア

2014年06月09日 | 国際・政治
 ベトナム・ラオス・カンボジアのインドシナ三国は、かつての「フランス領インドシナ連邦」である。アジア・太平洋戦争当時、日本は、「仏印」という略称を使った。その「仏印」に日本軍が「進駐」したのは、「北部仏印進駐」が1940年9月、「南部仏印進駐」が1941年7月で、真珠湾を奇襲した1941年12月以前である。しかしながら、この「進駐」は、宗主国フランスとの戦闘を伴うものではなく、共同支配のかたちにもちこむものであった。したがって、その戦争被害は見逃されがちのようであるが、ベトナムの教科書の「1945年初頭の数ヶ月間に、北部で、200万人以上のわが同胞が餓死した直接の原因となった」の記述に見られるように、その後の日本の戦争は、ベトナムでも深刻な被害を発生させていたことがわかる。

 ラオスの教科書には、日本の戦争による被害の記述は少なく、大雑把である。下記に抜粋したとおり、高等学校2年生用『歴史 2』には、「日本はこれら植民地の住民をだますために、大東亜共栄圏のスローガンをかかげて、それぞれの国に偽りの独立を与え、日本の目的や利益のために傀儡政権をつくりあげた」とあり、高等学校3年生用『歴史 3』に「日本支配下にあって、ラオス国民はきびしい労苦を強いられた。例えば戦略的道路建設を強制されたり、また武器運搬に従事させられたりした」とはあるが、それらの具体的な記述はない。しかしながら、それは、ベトナムやカンボジアのような、日本の戦争による被害が、ラオスにはなかった、ということではないであろう。

 また、カンボジアの歴史教科書は、”フランス=日本の二重支配のくびきのもとでのカンプチア”と題して(くびき=牛馬の頸の後ろにかける横木、 自由を束縛するもの)、食糧の強制供出や強制作付けの問題その他を、かなり詳しく取り上げている。そして、大戦末期には食糧不足に陥り餓死者が出た事実を「カンプチア人民の一部が死ぬこととなった」と記述している。
(注:1989年4月に「カンプチア人民共和国」は「カンボジア国」に、民主カンプチア連合政府は「カンボジア国民政府」に国名を変更した)    

 下記は、「アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編」越田 稜編著(梨の木舎)の、「ベトナム」「ラオス」「カンボジア」から、私が忘れてはならないと思った項目を選んで抜粋したものである。

ベトナムーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
12年生用『歴史 第1巻』(ベトナム語)教育省編1984年版

10課 ベトミン戦線と8月蜂起にいたる革命の高揚(1941~45年)

1 日仏二重搾取下のインドシナ人民

(1) フランスの、実質的な対日降伏とインドシナ人民搾取のための対日結託
 フランスは、ランソンで日本に降伏して(1940年9月)から、明らかに勢力が衰えた。日本はインドシナを植民地化し戦争の基地とするために、ひき続き地歩を固めた。
 1941年7月23日、ドゥクー総督は日本と「日本・仏印共同防衛協定」と呼ばれる屈服協定を結び、インドシナ全土にわたる日本軍の駐留権を認めた。続いて、1941年7月29日、ペタン政府は直接日本と協定を結び、インドシナのあらゆる空港と港の軍事目的利用を日本に認めた。

 日本は太平洋戦争を起こす(1941年12月7日)と、ドゥクー総督にもう一つの協定を強要し、以下の点について日本への全面協力を約束させた。つまり、日本軍の行軍を容易ならしめるよう協力すること、日本に食糧を供出し兵舎を建設すること、日本軍の後方支援としての安全を保証するために、インドシナ社会の秩序を維持すること、などである。

 それ以来、敵国日本とフランスは緊密に結託して、インドシナ人民を搾取した。日本資本主義の企業は日増しにインドシナへの投資を増大させ、商業や工業の多くの分野で活動した。インドシナ産業会社や大南公司などである。1940年から43年の間に、日本の企業が行った投資額は約1億1100万フランにのぼり、フランス企業のインドシナ総投資額の六分の一に達した。


 米やとうもろこしなどの主食については、日本はフランス植民地政府に供出させた。さらに残虐非道にも、日本は戦争に必要な原料を獲得するために、田畑への麻やヒマの植えつけをわが人民に強制した。
 インドシナに足を踏み入れて以来、ファシスト日本のあらゆる経済活動は、直接的にあるいはフランスを通じて間接的に、略奪戦争を遂行するため、資源や食糧をできる限り多く獲得することであった。

 一方、フランス植民地主義者は、日本に脅迫を受けながらも、最大の利益を得るため依然としてさまざまな狡猾な手段を弄した。まず第一にフランス植民地主義政権は、いわゆる「指導経済政策」をとった(輸出入・流通機構・価格・生産などの厳しい統制)。実際には、この「指導経済」と呼ばれているものは、戦争状態を利用してインドシナ経済の独占を図り、投機をさかんにしてわが人民から一層の搾取をするための、フランス植民地主義の一手段にすぎなかった。2番目の手段は増税である。このため、1939年から1945年の間に、フランスのインドシナ予算の総収入は倍増した。酒・塩・麻薬による税収入は、その間に3倍にも達した。


 もう一つの非道な政策は、日本への供出用と戦争の備蓄用とのために、食糧、とくに米の強制かつ廉価な買いつけをしたことである。この非道な政策こそ、市場における深刻な食糧不足をもたらし、1945年初頭の数ヶ月間に、北部で、200万人以上のわが同胞が餓死した直接の原因となった。


(3) 日仏の狡猾な手段
 残虐な略奪行為と侵略の陰謀を隠すとともに、インドシナにおける唯一の支配者の地位に躍り出る準備のため、ファシスト日本は進駐当初から、数多くの邪悪な政策を弄した。まず、チャン・チョン・キム、グエン・スアン・チューなど、フランス植民地主義になにがしかの不満をもつ知識人や名士、あるいはグエン・テー・ギエップのようなフランスの古いスパイといった連中を秘密裏に集め、次のような親日組織作りの手助けをした。「大越民正」「大越国社」「越南愛国」「復国」「大越国家連盟」などである。彼らは南部の「カオダイ」や「ホアハオ」といって反仏傾向のある宗教組織も利用した。そして、これらのグループは「越南復興同盟会」という名の親日統一組織に糾合され、日本の傀儡政権の受け皿作りをした。と同時に、日本は「大東亜共栄圏」なるペテンを謳い文句にして、彼らの文化や力の「無敵」性を宣伝するため、日本語教材を大量に出版したり、日本語学校を開設したり、展覧会や日本映画の上映会を開いたり、またインドシナと日本の留学生交換をおこなったりした。


 ・・・(以下略)

2 ベトミン戦線創設と闘争指導(1941・5~1945・3)(略)

3 日本のフランス打倒クーデターと抗日救国運動の高揚

(1) 日本のフランス打倒クーデター(1945年3月9日)
 ・・・
 クーデターは1945年3月9日夜から10日にかけて決行され、インドシナのフランス勢力は多少の弱々しい抵抗をしただけで、屈辱的な全面降伏をした。
 フランスを蹴散らしたのち、日本政府は「インドシナの各民族の独立を助ける」と声明し(!)、親日裏切り一派は「ベトナム独立!」を叫んだ。しかし、その直後のあからさまな事実が、声明のこけおどしでペテンの所以を明らかにしている。つまり、クーデターの4日後、十指にのぼる日本の軍人や政客が、フランスにかわってインドシナの総督、理事長官、知事などの地位を占めたのである。

 1945年3月16日、日本の同盟通信社はつぎのように報道している。「新政策によれば、安南王朝、カンボジア、ルアンプラバンの各政府は現在の政体を保持するが、フランスの植民地であったナムキーと半植民半保護下にあったバッキーとラオスは、政府が樹立されるまで理事長官や知事の一時的執政下におかれる」(『解放』紙1945年3月11日)。


 まもなく、日本は古い権力機構を廃止し、親日派のチャン・チョン・キムにベトナムの傀儡政府を作らせ、傀儡のバオダイに国王の名称を与えた。この一派も「愛国・愛民」を装おうとしたが、しだいに無力をさらけだした。実際は、インドシナの旧総督にかわって日本の「最高顧問」がすべての権限を握っていたからである。彼らは日本の従順な手先となり、日本がよりいっそう狡猾に、かつより多く、わが人民から搾取することを許した。モミの調達、田畑への麻の強制植えつけなどは依然として行われ、飢饉は一層深刻となった。そのうえに、日本の数限りない残虐行為があった。ベトバックにおけるベトミン根拠地への攻撃、逮捕者の拷問・殴打・拘禁・銃殺・陵辱・強奪などにより、民衆を恐怖におとしいれた。こうして、またたくうちに、ファシスト日本の偽りの恩情の姿が明らかとなり、親日傀儡一派の「独立」の仮面がすっかりはがれてしまった。わが人民は日増しに敵国日本を憎み、親日傀儡一派を嫌悪するようになった。

ラオスーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
高等学校2年生用『歴史 2』(ラーオ語)教育スポーツ文化省編 1980年版

第3部 第2次世界大戦(1939~45年)

第16課 第2次世界大戦の第2段階(1942~44年)
 
2 地中海地域におけるイタリア・ファシストの敗北と太平洋地域における日本ファ  シストの戦争拡大
 (前略)東洋では、日本は1941年4月にソ連と不戦条約を調印し、その後飛行機を使ってハワイの真珠湾を爆撃し、アメリカ海軍を殲滅させた。太平洋戦争はこうして始まった。そののち日本ファシスト軍は香港島、マレーシア、フィリピン、グアム、シンガポール、インドネシア、ビルマ、インドシナ半島などを奪取した。オーストラリアには攻撃すると脅迫した。つまり日本軍は、イギリス、フランス、アメリカの、東洋における植民地すべてを奪いとることになった。こうして日本軍は太平洋、東洋において単独の権力支配者となった。日本はこれら植民地の住民をだますために、大東亜共栄圏のスローガンをかかげて、それぞれの国に偽りの独立を与え、日本の目的や利益のために傀儡政権をつくりあげた。(後略)


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
高等学校3年生用『歴史 3』(ラ-オ語)教育スポーツ文化省編 1983年版

6課 ラオス人民の主権奪回(1945年)

2 主権回復前のラオスの状況
 (前略)第2次世界大戦期フランスは、ヒトラー・ファシストによって手ひどく攻撃されていた。したがってフランスの、植民地に対する権力支配は弱くなっていた。アジア東部では、日本が自国の勢力を拡大しようと、大東亜共栄圏をスローガンにかかげ、開戦した。日本ファシストはインドシナ侵攻後、フランス植民地支配者に対し、インドシナをともに保護するという協定を強要した。この結果、インドシナはフランスと日本の植民地支配下におかれた。さらに日本はフランス帝国を駆逐するため、タイをあと押しして大タイ主義をラオスやカンボジアに拡大させた。そこでフランスとタイのあいだで、領土の奪いあいの戦いがおこった。そしてついに日本は、フランスに対して、メコン川右岸にあるチャムパサク州の一部とラオスのサイニャブ州、カンボジアのパッタボンとシアレムリアとシーソフォンを、タイに譲渡するようにさせた。インドシナにおけるフランス勢力の弱体化に乗じて、1945年3月9日、日本はインドシナ全体を奪い取り、自国の利益のために動いてくれる傀儡政権を設置した。


 日本支配下にあって、ラオス国民はきびしい労苦を強いられた。例えば戦略的道路建設を強制されたり、また武器運搬に従事させられたりした。

カンボジアーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
8年生用『カンプチア歴史』(クメール語)教育省編ホー・チミン市出版 1987年版

2課 第2次世界大戦期(1939~45年)のカンプチア
(注:1989年4月に「カンプチア人民共和国」は「カンボジア国」に国名変更)    

一、フランス=日本の二重支配のくびきのもとでのカンプチア

 1939年9月、第2次世界大戦が勃発した。フランスは敗北をこうむった。フランスの反動資本家は、ドイツのファシストに対して、1940年の敗北を受け入れ、ペタン元帥を擁立して、権力の座につけた。
 このような状況のもとで、ドイツと同盟した日本のファシストたちは、フランスを放逐し、インドシナ半島を日本の支配下におこうとして、ただちにインドシナに侵攻した。
 フランスの植民地主義者たちと日本のファシストたちは、互いに敵対し、相手を追放する機会をうかがう段階に入った。
 しかし、はじめのうちは、インドシナ人民の民族解放運動をつぶすために、フランスと日本は友好的関係にあるかのように見せかけていた。

1 フランスの植民地主義者の指導策略
 フランスの植民地主義者は2つの危機に直面していた、つまり、フランスの駆逐を目的とする日本と、インドシナ人民の民族解放革命の炎とである。しかし、巧妙な策略によって、フランス植民地主義者は、みずからの植民地支配制度を確固たるものとすることができた。

 フランスは自身の支配する人民のすべてを失わないようにしようとして、日本に権益の一部を分け与えることで、日本と妥協する道を選んだ。
 1940年8月には、日本からの強制があったわけでもないのに、インドシナにおける日本の軍事上、経済上の権益を認める一つの条約に署名した。(注:松岡・アンリ協定)

 1940年9月には、日本軍はランソン地域に侵入し、支配した。フランス植民地軍7は撤退し、日本にインドシナ北部を譲渡する条約を結ばなければならなかった。
 1941年9月、インドシナ総督ドゥクーは新たに日本との間に「インドシナ地域共同保護条約」という降伏条約を結び、カンプチアを含むインドシナ全土に日本軍が駐留することを承認77した。
 太平洋地域において、アメリカ、イギリスと日本との間に戦争が勃発して(1941年12月)から、日本のファシストたちは、ドゥクーに、一つの条約に署名するよう強制した(注:日・「仏印」軍事協定)。その条約は、アメリカ、イギリスの二国が日本軍を攻撃する場合に備えて、インドシナのフランス植民地政府を、日本と共同して、アメリカ、イギリスを相手に戦わせることを目的とするものであった。

 さらにフランスはその条約で、「日本軍の軍事行動を容易にする条件をつくり」、「日本軍に食糧を供給し、兵舎を建設し、日本軍の安全を保証するために、インドシナにおける社会秩序を維持」しなければならなかった。
 このように、この条約はビシー政府と日本の軍国主義者が、連合国とインドシナ人民とを相手に戦うために結託していたことを証明している。
 この時いらい、カンプチアを含むインドシナ人民は、二重支配のくびきを懸けられたのである。


 ・・・(以下略) 


2 日本のファシストの策略
 日本の帝国主義者たちは、昔からインドシナ進出の意図をもっていた。インドシナは日本経済に役立つ豊富な資源をもっているだけではない、そのうえに、東南アジア諸国に対して日本帝国の拡大主義政策をすすめるための、もっとも重要な戦略上の位置を占めていたのである。

 ヨーロッパ戦線において、日本の同盟国であるドイツにフランスが敗れた隙をついて、日本はフランスに強制して、先に述べたような条約を調印させたが、これはフランスをインドシナから少しずつ放逐するためであった。
 日本が自らの計画をすべて実行に移すための情勢が、まだ整っていないにもかかわらず、インドシナ方面の日本軍は、その侵略政策と拡大主義に利用するため、フランス植民地政府を掌握した。経済の面では、日本はインドシナのすべての市場を独占する手段を手にしようと努めた。日本製品のインドシナ市場への流入を図り、日本はフランス植民地主義者たちに、関税法の廃止を強制した(1941年6月より)。


 このほか、1945年初めの時点で60万人もいたインドシナ方面の日本軍への補給を、責任を持って行うよう、日本はフランスに強要した。日本の指令は、インドシナ銀行に、以下に示すような多額の資金を、日本軍を養うために提供させるようしむけるものであった。
1940年‥ 600万リエル
1941年‥ 5800万リエル 
1942年‥ 8660万リエル
1943年‥1億1720面リエル 
1944年前半の6ヶ月は、日本は3億1600万リエルを要求したが、当時のインドシナ全体の予算は2億1900万リエルであった。この金額を、日本製品への代価として清算しなければならなかった。しかし実際は、代価にみあう日本製品などありはしなかった。これはインドシナ人民に対する新たな重荷だった。さらに、日本はフランスに強制して、カンプチア農民に、田地の一部を供出させ、ジュート、ヒマなど、日本の軍需品のための工業用植物を植えさせた。これがもとで、1944年から1945年までのあいだにカンプチア人民の一部が死ぬこととなった。


・・・

 カンプチア人民に対して、侵略、独占、軍国主義政策を隠しておくため、日本は2つのごまかしのスローガンを掲げた。すなわち、「大東亜共栄圏」と「外国のくびきからの解放のための歴史的使命」とである。日本は「ユバン」という青年団を組織したが、これは、ソン・ゴク・タンとポック・チューンの二人を利用して、フランスから権力を奪取する考え力を養成し、親日的傾向の青年たちに「大クメール」民族主義思想を鼓舞するものであった。
 
 フランスと日本の帝国主義者たちは、ともにカンプチア人民の財産を奪い、カンプチア人民に何も考えさせないようにごまかしておくための策略を考え、、また互いに、権力を奪い取る隙をうかがっていた。
 カンプチア人民は、フランスと日本との二重のくびきに苦しまなければならなかった。


二 第2次世界大戦期のカンプチア人民の闘争運動

 農民階級と富裕階級の弱さがこのような状態をひき起こしてしまった。つまり、日本がカンプチアを支配したとき、声高に民族主義を掲げたのは、知識階級、とくに官吏と僧侶だけだった。その中の一部の人びとは、進歩主義の影響を受け、インドシナ共産党の影響を受けた。しかし、他の一部の人びとは日本軍の欺瞞の宣伝の罠に陥ってしまった。

1 親日派の活動
 フランスを追放する条件を整えようと、日本軍はつぎのスローガンを掲げて欺瞞的宣伝を行った。つまり「大東亜共栄圏」「アジア人民解放のための歴史的使命」を標榜し、そのために、大衆を引きつける手段として「大クメール」を利用したのである。さらに日本は、カンプチアの知識層を動員する基礎を築こうと、信頼のおける人びとを利用して、「カンパイタイ(憲兵隊)」と呼ばれるスパイ組織を作った。これら知識層の中に、あきらかに親日的傾向の2人がいた。ポック・チューンとソン・ゴク・タンである。ポック・チューンはパーリ語学校の教授であり、ソン・ゴク・タンはプノンペン仏教学院の司書であった。
 すでに1941年には、ソン・ゴク・タンとポック・チューンらは、日本と深く関係していた。1942年初めは、この一派は日本からの支援を得て、フランス植民地主義者と戦うために、クーデターの準備をしていた。


・・・(以下略)


http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。

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5 コメント

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はじめまして。 (skuna@docomo.ne.jp)
2014-06-13 05:40:25
はじめまして。

えっとこちらのブログすごいびっくりして…

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※もし面倒ならこの書き込みも抹消しちゃって構わないので気にせずにお願いします。

いっぱいお話ししたいことだらけです!
返信する
はじめまして。 (skuna@docomo.ne.jp)
2014-06-13 05:54:00
はじめまして。

えっとこちらのブログすごいびっくりして…

なんだか自分のことを言い当てられてる気がするくらい、思わずブックマークしちゃいました!

共感もしたし、本当にウチの中で大切なことが書き込まれてるブログだと思ったんです。こんなにも素敵なブログを書く方ってどんなひとなんだろう?って思って

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なのでできれば直接お話ししたいと思って、名前の部分にウチの連絡を入れておいたのでよかったら連絡してくださいね。待っていますです!

※もし面倒ならこの書き込みも抹消しちゃって構わないので気にせずにお願いします。

いっぱいお話ししたいことだらけです!
返信する
skuna様 (Unknown)
2014-06-13 09:14:07
skuna様

>えっとこちらのブログすごいびっくりして…

なんだか自分のことを言い当てられてる気がするくらい、思わずブックマークしちゃいました!

共感もしたし、…

 なぜ「びっくり」なのか、「自分のことを言い当てられてる」ということがどういうことなのか、「共感した」のはどういう部分なのか、よくわかりませんが、コメント恐れ入ります。

 私は、昔から、日本の政権中枢にある政治家の先の大戦に対する姿勢に疑問を感じていました。
 特に最近、過去の日本を正当化しようとする動きが露骨です。不都合な事実をなかったことにして、「誇りを取り戻す」などということは許されないと思っています。

 日本人が許しても、周辺国はそれを受け入れないと思います。周辺国の信頼を取り戻すには、生まれ変わった日本を示す必要があるのだと思っています。
 

返信する
お久しぶりです。霧社事件の記事の時に、コメント... (霧社事件)
2014-06-21 16:24:05
お久しぶりです。霧社事件の記事の時に、コメントさせて頂いた者です。その時に使ったHNを忘れてしまったので、とりあえず「霧社事件」とします。

今回は、慰安婦問題の麻生軍医について、知りたく、おじゃましましたところ、やはり、非常に参考になりました。有り難うございます。

これからもお元気で。頑張って下さい。
返信する
霧社事件様 (Unknown)
2014-06-21 21:33:21
霧社事件様

 再び、コメントをありがとうございます。
 誇りを取り戻すために、不都合な歴史的事実をなかったことにしようとする現政権の姿勢は、将来に禍根を残すと思います。軍事力に頼ることなく、生まれ変わった日本を示して、近隣諸国との関係を改善すべきだと思うのです。
 だから、憲法の精神を生かした政治が実施されるまで、日本の加害の歴史的事実を追及し、明らかにし続けるつもりです。辛いことですが…。

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