「南京の人口20万人」について No2
ここでは、南京市の人口が20万人、という下記のような主張の二つ目の問題を、『ラーベの日記』の記述をもとに考えたいと思います。
”南京市の人口は、日本軍の南京への攻撃開始前に約20万人でした。20万人しかいない所で、どうやって30万人を殺せるでしょう。しかも日本軍の南京占領後、南京市民の多くは平和が回復した南京に戻ってきて、1ヶ月後に人口は約25万人に増えているのです。もし「虐殺」があったのなら、人々が戻ってきたりするでしょうか。”
”12月18日には、南京国際委員会(南京の住民が集まっていた安全区を管轄する委員会)が人口「20万人」と発表しています。”
でも、『南京安全区国際委員会』は「南京の人口」を「20万人」などと発表はしていません。『ラーベの日記』でも、問題にしているのは安全区の「難民」です。ラーベが委員長をつとめる南京安全区国際委員会の 12月18日の「日本大使館宛公信(第7号文書)」には
”拝啓 陳者貴国軍隊は難民区内にて引続き狼藉を働き全く安かならず20万難民は苦痛に呻吟致し居り候 当委員会は貴大使館を通じ貴国軍事当局に対し迅速且有効なる行動を採り不幸なる事態を阻止せられんことを御伝達相成様要請せざるを得ざる次第に候”
とか、
”6日貴国軍隊が司法部大楼より数百名を虜にし又警察官50名を虜と致し候 この程局勢を若し明澄にせざれば難民区内20万の市民の生命は絶対に保障無之候”
とあるのです。「難民区内」という言葉を見落としたのか、意図的に「難民区内20万の市民」を「南京の人口」に読みかえたのかはわかりませんが、南京安全区国際委員会は「難民」を保護の対象として、様々な取り組みをしたのであり、ラーベも、常に「難民」のことを考えていたことは、日記でも明らかです。
ラーベは、下記のように「11月28日」に「警察庁長王固盤は、南京には中国人がまだ20万人住んでいるとくりかえした」と書いていますが、これは12月6日の「なぜ、金持ちを、約80万人という恵まれた市民を逃がしたんだ」という文章や「ここに残った人は、家族を連れて逃げたくでも金がなかったのだ」などという文章と考え合わせると、もとから南京城内に住んでいたが、逃げられかった貧しい人たちの数であると思います。それを確かめるため、12月1日に、「南京に残っている住民」について、「残っている住民の数を南京の中国の新聞代理店に片端から問い合わせてみることにしよう」と書いているのだと思います。
城外から避難してきた難民ではなく、もとから城内に住んでいた住民がどれくらい残っているのか、その数が定かではなかった、ということではないでしょうか。
12月2日には、「我々は安全区を組織的に管理しており、すでに難民の流入が始まったことをご報告いたします」と日本からの電報をもたらしたフランス人、ジャノキ神父宛の電報に書いています。12月2日は南京陥落前です。「始まった」ということは、その後も流入が続いたとうことだと思います。12月4日には、「難民は徐々に安全区に移りはじめた」と書いています。南京安全区国際委員会が保護すべき難民の数が増えているということだと思います。12月7日には「城門のちかくでは家が焼かれており、そこの住民は安全区に逃げるように指示されている」とあります。中国軍の清野作戦で家を焼かれた人も安全区に入ってくることになったのだと思います。
特に見逃すことができないのは、12月8日の文章に、「何千人もの難民が四方八方から安全区に詰めかけ、通りはかつての平和な時よりも活気を帯びている」とあり、「城壁の外はぐるりと焼きはらわれ、焼け出された人たちがつぎつぎと送られてくる」とも書いることです。城壁の外からも安全区に人が入ってきたのです。
したがって、南京安全区に避難してきた難民の数が予想を超えたことは、『南京の真実 The Diary of John Rabe』ジョン・ラーベ著:エルバン・ヴィッケルト編/平野卿子訳(講談社)に収録されているラーベの「ヒトラーへの上申書」の「難民の収容」と題された部分に書かれています。下記の文章です。
”その二、難民の収容。その間にも難民はぞくぞくと安全区に流れ込んできました。私たちはまず城壁にポスターを貼り、安全区の友人の家においてもらうよう、それからじゅうぶんな夜具と食料をもってくるように指示しました。つぎに、もっと貧しい人のために、いまやほうぼうにある空き家や入居前の新築の建物を明け渡し、さいごに極貧の人々、いわゆる「老百姓(ラオパイシン)」に、アメリカ伝道団の学校や大学などの大きな建物を開放しました。そのおかげで、恐れていた「ラッシュ」、つまり難民の殺到を避けることができたのです。このように、安全区は何日にもわたってすこしずつふさがっていったのですが、それでも、一家そろって野宿しなければならなかった難民が後を絶ちませんでした。おいそれとはてごろな宿が見つからなかったのです。私たちはすべての通りに難民誘導員をおきました。ついに安全区がいっぱいになったとき、私たちはなんと25万人の難民という「人間の蜂の巣」に住むことになりました。最悪の場合として想定した数より、さらに五万人も多かったのです。なかでも一番貧しい人たち、食べる物さえない6万5千人を、25の収容所に収容しましたが、この人たちには、一日米千6百袋、つまり生米で一人カップ一杯しか与えてやれませんでした。かれらはそれで生きのびなければならなかったのです。
事態がいよいよ深刻さをましてきたうえに、安全区の保護を要請した私の手紙に対する日本当局からの返事がなかったので、総統閣下にあてて(11月25日に)私はつぎのような電報を打ちました。(電報の内容は『ラーベの日記』No1の11月25日)”
また、同じヒトラーへの上申書の中で、ラーベは南京の人口に触れ、下記のように書いています。
”青島から先は順調で、済南経由の列車で南京に向かい、9月7日に到着しました。
私が7月に発ったときには、南京の人口は135万人でした。その後8月なかばの爆撃の後に、何十万もの市民が避難しました。けれども各国の大使館員やドイツ人軍人顧問はまだ全員残っていました。”
以上のようなラーベの文章から、ラーベがヒトラー総統宛てに打ったという電報の中の、「目前に迫った南京をめぐる戦闘で、20万以上の生命が危機にさらされることになります」という文章の「20万」という数字を根拠に、あたかも「南京の人口が20万人」であったかのような主張にをすることには疑問が残ります。
ラーベの文章の中の数字を単純に計算すると、もともと南京の人口は「135万人」であり、そのうち「約80万人という恵まれた市民」が避難したのですから、当時の南京の人口は55万人になり、難民として国際安全区に入った人が25万人ということになるのではないかと思います。
ラーベは、それらの数字の意味や根拠は示していませんので、当時の南京の人口が「20万人」であったというためには、『ラーベの日記』や『南京安全区国際委員会』の文書も含め、様々な資料をもとに、きちんと検証することが欠かせないと思うのです。
そうした避難民に関する記述とともに、ラーベが中国軍の考え方や南京の行政に強い不満をもっていたことも見逃してはいけないことだ思います。
下記は、『南京の真実 The Diary of John Rabe』ジョン・ラーベ著:エルバン・ヴィッケルト編/平野卿子訳(講談社)からの抜粋です。
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11月28日
昨日、蒋介石と話し合った結果についてのローゼンの報告。
”防衛は、この町の外側だけか、それとも内側でも戦うのか」という質問に対して、「われわれは両方の場合にそなえている」という答が返ってきた。
次ぎにもしも最悪の事態になった場合、だれが秩序を守るのか、つまりだれが行政官として残り、警察力を行使して暴徒が不法行為を行わないようにするのか」という質問に対する蒋介石もしくは唐の返事は、「そのときは日本人がすればよい」というものだった。
言いかえれば、役人はだれひとりここには残らないということだ。何十万もの国民のために、だれも身をささげないとは……。さすが、賢明なお考えだ!
神よ、ヒトラー総統さえ力をお貸しくだされば! 本格的な攻撃が始まったら、どんな悲惨なことになるだろうか。想像もつかない。
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ミルズがいった。客観的にみて、南京の防衛など馬鹿げている。それより穏やかに明け渡した方がよいのではないか。できるだけ早いうちに中国の最高権力者である蒋介石と唐将軍にそのことを伝えるべきではなかろうか。だが、杭立武の意見はちがう。今はその時期ではないというのだ。結局、日本政府から承認されるまで待とうということになった。
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会議で、中国語で印刷された大きな紙をもらった。中国兵に襲われないよう、ドアに貼れというのだ。今日、ドイツ人顧問の家が兵士に押し入られたそうだ。もっともこれはすぐに解決した。
寧海路五号の新居に、今日、表札とドイツ国旗を取り付けてもらった。ここには表向きだけ住んでいることにするつもりだ。うちの庭ではいま、三番目の防空壕作りが急ピッチで進んでいる。
二番目のほうは、あきらめざるをえなくなった。水浸しになってしまったからだ。警察庁長王固盤は、南京には中国人がまだ20万人住んでいるとくりかえした。ここにとどまるのかと尋ねると、予想通りの答が返ってきた。「できるだけ長く」
つまりずらかるということだな!
12月1日
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18時 会議。南京に残っている住民たちに安全区に移るようにすすめたあとで日本から拒絶されるようなことになったら、われわれの責任は重大だ。それについては大多数の委員が、こちらから先に行動を起こそうという意見だった。安全区に移るようすすめる文面は、ひじょうに慎重でなければならない。いちど、残っている住民の数を南京の中国の新聞代理店に片端から問い合わせてみることにしよう。つまり中国人がどんな様子か聞いてみるのだ。
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12月2日
フランス人神父ジャノキを通じ、我々は日本から次のような電報を受け取った。ジャノキは上海に安全区をつくった人だ。
電報 1937年12月1日 南京大使館(南京のアメリカ大使館)より
11月30日の貴殿の電報の件
以下は南京安全区委員会にあてられたものです。
「日本国政府は、安全区設置の申請を受けましたが、遺憾ながら同意できません。中国の軍隊が国民、あるいはさらにその財産に対して過ちを犯そうと、当局はいささかの責を負う意思はありません。ただ、軍事上必要な措置に反しないかぎりにおいては、当該地区を尊重するよう、努力する所存です」
ラジオによれば、イギリスはこれをはっきりした拒絶とみなしている。だが、我々の意見は違う。これは非常に微妙な言い方をしており、言質をとられないよう用心してはいるが、基本的には好意的だ。そもそもこちらは、日本に「中国軍の過ち」の責任をとってもらおうなどとは考えてはいない。結びの一文「当該地区を尊重するよう、努力する……云々」は、ひじょうに満足のいくものだ。
アメリカ大使館を介して、我々はつぎのような返信を打った。
「南京の安全区国際委員会の報告をジャノキ神父に転送してくださるようお願いします。
「ご尽力、心より感謝いたします。軍事上必要な措置に反しないかぎり安全区を尊重する旨日本政府が確約してくれたとのこと、一同感謝をもってうけとめております。中国からは全面的に承認され、当初の要求は受け入れられております。我々は安全区を組織的に管理しており、すでに難民の流入が始まったことをご報告いたします。しかるべき折、相応の調査をおえた暁には、安全区の設置を中国と日本の両国に公式に通知いたします。
日本当局と再三友好的に連絡をとってくださるようお願い申し上げます。また、当局が安全を保証する旨を直接委員会に通知してくだされば、難民の不安を和らげるであろうこと、さらにまた速やかにその件について公示していただけるよう心から願っていることも、日本側にお知らせいただくようお願いいたします。
ジョン・ラーベ 代表」
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12月3日
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…ローゼンは私に電報を見せてくれた。これは本当は大使あてなのだが、つぎのような内容だった。
ドイツ大使館南京分室 漢口発 37年12月2日 南京着 12月3日
東京12月2日
日本政府は、都市をはじめ、国民政府、生命、財産、外国人及び無抵抗の中国人民をできるだけ寛大に扱う考えをもっております。また、国民政府がその権力を行使することによって、首都を戦争の惨禍から救うよう期しております。軍事上の理由により、南京の城塞地域の特別保護区を、認めるわけにはいきません。日本政府はこの件に関して、公的な声明を出す予定です。
ザウケン
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防衛軍の責任者である唐が軍関係者や軍事施設をすべて撤退させると約束した。それなのに、安全区の3ヶ所に新たに塹壕や高射砲台を配置する配置する場が設けられている。私は唐の使者に、「もしただちに中止しなければ、私は辞任し、委員会も解散する」といっておどしてやった。するとこちらの要望どおりすべて撤退させると文書で言ってきたが、実行には少々時間がかかるというただし書きがついていた。
12月4日
どうにかして安全区から中国軍を立ち退かせようとするのだが、うまくいかない。唐将軍が約束したにもかかわらず、兵士たちは引き揚げるどころか、新たな塹壕を掘り、軍関係の電話をひいている有様だ。今日、米を運んでくることになっていた8台のトラックのうち、半分しか着かなかった。またまた空襲だ。何時間も続いた。用事で飛行場にいたクレーガーは、あやうく命を落とすところだった。百メートルくらいしか離れていないところにいくつもの爆弾が落ちたのだ。
難民は徐々に安全区に移りはじめた。ある地方紙は「外国人」による難民区などへ行かないようと、繰り返し書き立てている。この赤新聞は、「空襲にともなうかもしれない危険に身をさらすことは全中国人民の義務である」などとほざいているのだ。
12月5日
・・・
アメリカ大使館の仲介で、ついに、安全区についての東京からの公式回答を受け取った。やや詳しかっただけで、ジャノキ神父によって先日電報で送られてきたものと大筋はかわらない。つまり、日本政府はまた
拒否してきたものの、できるだけ配慮しようと約束してくれたのだ。
ベイツ、シュペアリングといっしょに、唐司令官を訪ねた。なんとしても、軍人と軍の施設をすぐに安全区から残らず引き揚げる約束をとりつけなければならない。それにしてもやつの返事を聞いたときのわれわれの驚きをいったいどう言えばいいのだろう!
「とうてい無理だ。どんなに早くても2週間後になる。」だと? そんなばかなことがあるか!それでは、中国人兵士を入れないという条件が満たせないではないか。そうなったら当面、「安全区」の名をつけることなど考えられない。せいぜい「難民区」だ。委員会のメンバーでとことん話し合った結果、新聞にのせる文句を決めた。なにもかも水の泡にならないようにするためには、本当のことを知らせるわけにはいかない…。
・・・
ローゼンはかんかんになっている。中国軍が安全区のなかに隠れているというのだ。ドイツの旗がある空き家がたくさんあり、その近くにいる方がずっと安全だと思っているからだという。そのとおりだと言い切る自信はない。しかし、今日、唐司令長官と会った家も安全区のなかだったというのはたしかである。
12月6日
ここに残っていたアメリカ人の半分以上は、今日アメリカの軍艦に乗りこんだ。残りの人々もいつでも乗りこめるように準備している。われわれの仲間だけが拒否した。これは絶対に内緒だが、といってローゼンが教えてくれたところによると、トラウトマン大使の和平案が蒋介石に受け入れられたそうだ。南京が占領される前に平和がくるといい、ローゼンはそういっていた。
黄上校との話し合いは忘れることができない。黄は安全区に大反対だ。そんなものをつくったら、軍紀が乱れるというのだ。
「日本に征服された土地は、その土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ。最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。いいですか。あなたがたが安全区を設けさえしなかったら、いまそこに逃げこもうとしている連中をわが兵士たちの役に立てることができたのですぞ!」
これほどまでに言語道断な台詞があるだろうか。二の句がつげない! しかもこいつは蒋介石委員長側近の高官ときている! ここに残った人は、家族を連れて逃げたくでも金がなかったのだ。おまえら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な人民の命で償わせようというのか! なぜ、金持ちを、約80万人という恵まれた市民を逃がしたんだ? 首になわをつけても残せばよかったじゃないか? どうしていつもいつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ?
・・・
12月7日
昨夜はさかんに車の音がしていた。そして今朝早く、だいたい5時ころ、飛行機が何機もわが家の屋根すれすれに飛んでいった。それが「蒋介石委員長の別れの挨拶だった。昨日の午後に会った黄もいなくなった。しかも、委員長の命令で!
あとに残されたのは貧しい人たちだけ。それから、その人たちとともに残ろうと心に決めた我々わずかなヨーロッパ人とアメリカ人だ。
そこらじゅうから、人々が家財道具や夜具をかかえて逃げこんでくる。といってもこの人たちですら、最下層の貧民ではない。いわば先発隊で、いくらか金があり、それと引き換えにここの友人知人にかくまってもらえるような人たちなのだ。
これから文字通り無一文の連中がやってくる。そういう人たちのために、学校や大学を開放しなければならない。みな共同宿舎で寝泊まりし、大きな公営給食所で食べ物をもらうことになるだろう。約束の食糧のうち、ここに運び入れることができたのはたった四分の一だ。なにしろ車がなかったので、いいように軍隊に挑発されてしまった。
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城門のちかくでは家が焼かれており、そこの住民は安全区に逃げるように指示されている。安全区は、ひそかに人の認めるところになっていたのだ。…
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12月8日
・・・
2年ほど前、トラウトマン大使が北戴河で開かれたティーパーティーの席で私にこういって挨拶したことがあった。「やあ、南京の市長が来た!」そのころ私は党の地方支部長代理をしていたのだが、いくらか気を悪くした。ところが、いま瓢箪から駒が出た。といったからといって、ヨーロッパ人が中国の町の市長になどなれないのはわかりきっている。しかし、このところずっと行動をともにしてきた馬市長が昨日いなくなり、われわれ委員会が難民区の行政上の問題や業務をなにからなにまでやらざるをえなくなったいま、私は事実上「市長代理」のようなものになったわけだ。まったくなんてことだ。
何千人もの難民が四方八方から安全区に詰めかけ、通りはかつての平和な時よりも活気を帯びている。貧しい人たちが街をさまよう様子を見ていると泣けてくる。まだ泊まるところがみつからない家族が、日が暮れていくなか、この寒空に、家の陰や路上で横になっている。われわれは全力を挙げて安全区を拡張しているが、何度も何度も中国軍がくちばしをいれてくる。いまだに引き揚げないだけではない。それを急いでいるようにもみえないのだ。城壁の外はぐるりと焼きはらわれ、焼け出された人たちがつぎつぎと送られてくる。われわれはさぞまぬけに思われていることだろう。なぜなら、大々的に救援活動をしていながら、少しも実が挙がらないからだ。
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