「南京の人口20万人」について No1
2015年10月14日 自民党は『南京事件』資料のユネスコ記憶遺産登録に関し「中国が申請した『南京事件』資料のユネスコ記憶遺産登録に関する決議」を発表しました。また、政府は外務省と専門家の意見書をユネスコ側に提出したといいます。ところが、その意見書に対し、疑問の声が上がったとの報道がありました。それは意見書に南京事件否定派とみられている学者の著書が引用されるなどしたためです。かえって日本の印象を悪くして逆効果になった恐れがあるとのことです。
ふり返ると、2015年5月には、 米国をはじめとする海外の著名な日本研究者ら187名が、連名で「日本の歴史家を支持する声明」を発表したとの報道がありました。 日本政府の歴史修正主義的姿勢に懸念を示すこうした声明があってもなお、ネット上には
”南京市の人口は、日本軍の南京への攻撃開始前に約20万人でした。20万人しかいない所で、どうやって30万人を殺せるでしょう。しかも日本軍の南京占領後、南京市民の多くは平和が回復した南京に戻ってきて、1ヶ月後に人口は約25万人に増えているのです。もし「虐殺」があったのなら、人々が戻ってきたりするでしょうか”
というような主張が、相変わらず散見されます。歴史を学ぼうとする日本の若者を惑わす主張であり、国際社会の信頼を損ねる主張であると思います。なぜなら、「20万」という数字について
”…12月18日には、南京国際委員会(南京の住民が集まっていた安全区を管轄する委員会)が人口「20万人」と発表しています。”
と書いています。「30万人」の虐殺を否定するために、「20万」という数字が、根拠ある数字であることを示すために、南京安全区国際委員会の発表を利用したのだと思われますが、この「20万」という数字の利用には、三つの大きな問題があると考えます。
まず第一に、確かに南京安全区国際委員会の代表ラーベも、繰り返し20万という数字を使ってはいますが、下記の日記抜粋文に明らかなように、その数字は、南京安全区国際委員会が保護しようとする「非戦闘員」であり、避難民の数であって、ラーベは「南京の人口」を語っているのではありません。
日本軍が一般市民も多数虐殺したことは、数々の証言で明らかだと思いますが、特に、南京攻略戦前後に、「捕虜」とした中国兵、武器を捨て、抵抗の意志を放棄して逃げる「敗走兵」や「敗残兵」、さらには白旗をあげて日本軍の前に出て来た「投降兵」などを国際法に反し、計画的に集団虐殺したことを忘れてはならないと思います。ラーベのいう「20万」という数は、「非戦闘員」という言葉が示すように、計画的に集団虐殺された中国兵は、「便衣兵狩り」などで避難民の中から引っ張り出された一部を除き、含んでいないのです。
ラーベが南京残留を決心した状況とともに、ラーベが「毒ガスにそなえて、酢にひたしたマスクも用意するつもりだ」と書いていることも忘れてはならないと思います。日本は中国で、国際法に反して密かに毒ガス戦を展開していた、という事実を示すものだと思うからです。
下記は 『南京の真実 The Diary of John Rabe』ジョン・ラーベ著:エルバン・ヴィッケルト編/平野卿子訳(講談社)からの抜粋です。
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1937年9月21日
裕福な中国人たちはとうに船で漢口へ避難しはじめていた。農場という農場、庭という庭、さらに公共の広場や通りには大車輪で防空壕が作られた。とはいっても、19、20日と、続けて四度の空襲にみまわれるまでは、ごく平穏な毎日が続いた。
アメリカ人やドイツ人の多くがすでに南京を去っていた。これからいったいどうなるのか。昨晩、じっくり考えてみた。安全な北戴河からわざわざここへ戻ってきたのは、なにも冒険心からなどではない。まず財産を守るため、それからジーメンスの業務のためだ。むろん、社のために命を差し出せなどといわれてもいないし、いうはずもない。第一、私自身、会社や財産のために命をかける気などこれっぽっちもないのだ。だが、伝統あるハンブルグ商人である私にとってどうしても目をそむけることのできない道義的な問題がある。それは中国人の使用人や従業員のことだ。かれらにとって、いや、30人はいるその家族にとっても、頼みの綱は「ご主人(マスター)」、つまり私しかいないのだ。私が残れば、かれらは最後まで忠実に踏みとどまるだろう。以前、北部の戦争で私はそれを見届けている。逃げれば、会社も家も荒れ果てる。それどころか略奪にあうだろう。それはともかく、たとえどんなにつらいことになろうとも、やはりかれらの信頼を裏切る気にはなれない。こんなときでなければさっさとお払い箱にしたいような役立たずの連中すら、いちずに私に信頼をよせているのをみると思わずほろりとする。
アシスタントの韓湘林が給料の前払いを頼みにきた。妻子を済南へ避難させたいという。韓はきっぱりといった。
「所長がおられる所に私もとどまります。よそへ行かれるのなら、私も参ります!」
うちの使用人も大半がやはり北部の出身だが、貧しく、逃げようにも行く所がない。せめて妻子だけは安全な所へと思い、旅費を出そうといったが、かれらはどうしていいかわからず、おろおろするばかりだ。むろん、みな故郷へ帰りたい気はある。だが、帰ったところでそこも戦いのさなかなのだ。── というわけで、口々に、ここに、私のそばにいる方がいいという。
こういう人たちを見捨てることができるか? そんなことが許されるだろうか? いや、私はそうは思わない! 一度でいい、ふるえている中国人の子どもを両手に抱え、何時間も防空壕で過ごしたことのある人なら、私の気持ちが分かるだろう。
それに結局のところ、私の心の奥底にはここに残り、ここで耐えぬくべきだ、という強い思いがある。私はナチ党の党員だ。しかも、支部長代理さえつとめたことがあるのだ。わが社の得意先は中国の役所だが、仕事で訪れるたびに、ドイツという国、それからナチ党や政府について尋ねたれた。そういうとき、私はいつもこう答えてきた。
いいですか……
ひとつ、我々は労働者のために闘います
ひとつ、我々は労働者のための政府です
ひとつ、我々は労働者の友です
我々は労働者を、貧しき者を、見捨てはしません!
私はナチ党員だ。だから、私がいう労働者とは、ドイツの労働者のことであって中国のではない。だが、かれらはそれをどう解釈するだろうか? この国は30年という長い年月、私を手厚くもてなしてくれた。いま、その国がひどい苦難にあっているのだ。金持ちは逃げられる。だが貧乏人は残るほかない。行くあてがないのだ。資金もない。虐殺されはしないだろうか? かれらを救わなくていいのか? せめてその幾人かでも? しかも、それがほかでもない自分と関わりのある人間、使用人だったら?
私はついに肚を決めた。そして留守に使用人たちが掘った陥没寸前の汚い防空壕を作り直し、頑丈なものにした。
そこへわが家の薬箱をそっくり持ち込んだ。とっくに閉校になった学校からも運んできた。毒ガスにそなえて、酢にひたしたマスクも用意するつもりだ。飲食物は篭と魔法瓶につめた。
9月22日
爆撃終了を告げる長いサイレンが鳴ったあと、車で市内をまわってみる。日本軍がまっさきにねらったのは中国国民党の支部だ。ここには中央放送局のセンターとスタジオがあるからだ。
本日をもって私の戦争日記の始まりとする。19、20日と続いたすさまじい爆撃の間、私は自分で作った防空壕に中国人たちと一緒に潜んでいた。爆弾が落ちても大丈夫というわけではないが、榴散弾の炎や散弾っからは守られる。庭には縦横6×3メートルの大きさの帆が広げてある。これにみなでハーケンクロイツの旗を描いたのだ(写真5ー略)。
政府が考え出した合図は実によくできている。空襲のおよそ20分前から30分前、けたたましい警報が鳴る。ついで幾分短い警報。これで通りから通行人が排除される。交通もすべて停止。歩行者は通りの脇に作られた防空壕にもぐりこむ、という寸法だ。
建物の後ろ、市の外壁のローム層に、中国国民党をねらった最後の爆弾のあとが見える。
そばの防空壕に直撃弾が落ち、8人死んだ。なかから顔を出してあたりを見まわしていた婦人の頭は吹き飛ばされ、どこにも見当たらない。ただひとり、10歳くらいの少女だけが奇跡的に無事だった。その子は、人々の集まっている所へ行っては、「どうして助かったのか、自分でもわからない。とてもこわかった」とくりかえしていた。広場は兵士によって封鎖された。ちょうど最後の棺の前で紙銭(紙幣を模して作ったもの。棺の前で燃やして死者を弔った)が燃やされたところだった。
11月25日
・・・
ラジオによると、非戦闘員の安全区に対して、日本はこれまでのところ最終的な回答をよこしていない。上海ドイツ総領事館を通じて、おなじく上海にいるラーマン党地方支部長に頼んでヒトラー総統とクリーベル総領事に電報を打とうと決心した。今日、つぎのような電報を打つつもりだ。
在上海総領事館。
党支部長ラーマン殿。つぎの電報をどうか転送してくださるようお願いします。
総統閣下
末尾に署名しております私ことナチ党南京支部員、当地の国際委員会代表は、総統閣下に対し、非戦闘員の中立区域設置の件に関する日本政府への好意あるお取りなしをいただくよう、衷心よりお願いいたすものです。さもなければ、目前に迫った南京をめぐる戦闘で、20万以上の生命が危機にさらされることになります。
ナチス式敬礼をもって。 ジーメンス・南京、ラーベ
クリーベル総領事殿
本日私が総統へお願いいたしました日本政府に対する非戦闘員安全区設置に関するお取りなしについて、貴殿の尽力を心よりお願いする次第です。さもないと、目前に迫った戦闘での恐るべき流血が避けられません。
ハイル・ヒトラ-! ジーメンス・南京および国際委員会代表 ラーベ
※ヘルマン・クリーベルは1923年のヒトラーによる反乱に加わり、ヒトラーと共に禁固刑を受けた。だがこの頃にはヒトラーへの進言など、とうていできない立場にあった。
電報代を考えてラーメン氏は後込みをするかもしれない。そう思ったので、費用は私が持つからとりあえずジーメンスに請求してください。と付け加えた
今日は路線バスがない。全部漢口へいってしまったという。これで街はいくらか静かになるだろう。まだ20万人をこす非戦闘員がいるというけれども、ここらでもういいかげんに安全区がつくれるといいが。ヒトラー総統が力をお貸しくださるようにと、神に祈った。
たったいま杭立武さんが、安全区の件で中国政府から了解を得る必要はないと教えてくれた。蒋介石が個人的に承諾してくれたというのだ。
渉外担当が決まった。南京YMCAのフィッチ。あとは日本側の賛意を待つのみ。
上海の中国本社からドイツ大使館に私あての電報が届いていた。
「ジーメンス・南京へ。ジーメンス上海より告ぐ。南京を発ってよし。身の危険を避けるため、漢口へ移るように勧める。そちらの予定を電報で告げよ」
私は大使館を通じて返事をした。
「ジーメンス・上海へ。ラーベより。11月25日の電報、ありがたく拝受。しかしながら、当方南京残留を決意。20万人をこす非戦闘員の保護のため、国際委員会の代表を引き受けました」
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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801)
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http://www.history.gr.jp/nanking/rabe.html
南京の問題を私も今勉強中です。
投降恐れ入ります。「虐殺はあったのか、なかったのか」とのことですが、捕虜や投降兵の殺害(虐殺)があったことは、戦闘詳報、陣中日誌や陣中日記などの記録、また、元日本兵の多くの証言や回想録などで明らかです。
日本の研究者の中には、「南京大虐殺」の否定が「前提」になってしまっている人が何人かいるように思います。
あげていただいたサイトの田中正明氏はその一人だと思います。都合のよい資料だけを使い、勝手な解釈をして歴史を創作物語のようにしていると私は思っています。
歴史は社会科学の一分野です。客観性が求められます。結論が先にあったのでは社会科学になりません。一旦日本人の立場を離れて、事実を客観的に分析する必要があるんだと思っています。