真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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井上馨 藤田組贋札事件と相つぐ変死事件

2018年09月02日 | 国際・政治

 尾去沢鉱山事件や予算問題などで、当時の司法卿江藤新平との争いに敗れ大蔵省を去った井上馨が、藤田組贋札事件にも関わりがあるという話に驚きます。

 井上馨は、幕末に浪士・宇野東桜の斬殺に加担していますが、司馬遼太郎の暗殺者を主人公とする短編集 「幕末」(文春文庫)の「死んでも死なぬ」と題された文章の中に、公使館焼打ち事件に関わって、下記のような一節がありました。

当時、品川御殿山の景勝の地に、幕府は巨費をもって各国公使館を建築し、ほとんど竣工しようとしていた。
「あれを焼いてしまえ」
 と仲間に提唱したのは、長州攘夷派の領袖高杉晋作である。目的は、水戸藩、薩摩藩の過激分子と攘夷競争をしていた長州藩高杉一派が、競争諸藩の鼻をあかすことと、幕府を狼狽させ、その威信を失墜させるためのものだ。むろん、こういう挑(ハ)ねっかえりの若者は、この当時、長州藩でもまだ高杉以下十七、八人という小人数しかいない。この連中が、維新までの六年間、正気とは思えぬほどの暴走につぐ暴走をやってのけ、途中そのほとんどが死に、生き残った者が気づいたときには、維新回天の事業ができていた。
 聞多と俊輔は、こういう時代から、この仲間に入っていた。

 聞多(井上馨)も俊輔(伊藤博文)も、かつて ”正気とは思えぬほどの暴走につぐ暴走をやってのけ”た仲間です。
そうした暴走をくり返した尊王攘夷急進派の面々が、最終的に武力で幕府を倒して政権を手にしたため、彼らの暴走(蛮行)は何ら咎められることがなかったばかりでなく、彼らが明治新政府の要職を固め、活躍することになりました。それが、その後の日本をあやまらせることにつながったのだろう、と私は思っています。
 権力を手にすれば、過去がどうであろうと、自分たちのやりたい大きなことができるという井上らの成功体験が、尾去沢鉱山事件や藤田組贋札事件をはじめ、様々なその後の事件や戦争にも影響しているのではないかと思うのです。

 藤田組贋札事件は、関係者による隠蔽工作の結果でしょうが、多くの謎が残っています。でも、当時の人々は、感覚的に事件の核心を見抜いていたのではないかと思います。だから、きちんと疑いを晴らすことができなかったのではないかと思います。謎が残ったままであることが、事件の真実性を語っているのではないか、とさえ思います。

 事件の関係者はもちろんですが、誰もが受け入れ難い贋札事件の犯人として、明治の元勲、井上馨の名前が出てきては困る人たちも、隠蔽に加担したり、あるいは、ありもしない事実を勝手に想像して語ったりすることがあったでしょうし、今なお、あるのではないかと思います。したがって、事件に関わる事実については、慎重に判断して受け止める必要があると思います。
 
 藤田組贋札事件を摘発し、藤田伝三郎をはじめ、井上馨と関係の深い中野悟一を逮捕、投獄して、きびしい取調べをした大警視・川路利良は、”急死”ではなく、”病死である”という情報も、その出どころや状況がはっきりわからなければ、信用することができません。

 明治政府は、太政官札や藩札を新紙幣に統一するにあたって、はじめはドイツの印刷業者に紙幣の印刷を依頼し、その後ドイツから印刷設備一式と原版を輸入し、日本で印刷するようになったといいます。そうした新紙幣のニセ札が、真贋の鑑定が難しいほど精巧であったということですが、紙幣印刷の専門家ではない医師・熊坂長庵にそうしたニセ札の印刷が可能であったとは思えません。また、関西から九州一帯にかけて、二円紙幣のニセ札が大量に発見されたということも、個人の犯罪としては考えにくいと思います。あり得ないといっても過言ではないと思います。さらに、川路大警視がベルリンで精巧な紙幣贋造印刷機を発見したと報道された後に急死していることも、そのころベルリンを行き来していた井上馨の策謀を疑わせます。

 下記は「日本疑獄史」森川哲郎(三一書房)から抜粋しましたが、明治という時代をよりよく理解するためには、こうした犯罪的な汚職の事実も見逃してはならないと思います。不都合な事実をなかったことにすることは許されないと思います。 

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                       藤田組贋札事件
                           ーー相つぐ変死事件ー

 川路大警視は藩閥に消された?

 井上は、…尾去沢事件発生直後、例の大蔵省予算問題で江藤に敗れて、野に下ったが、それだけ汚職の黒い噂につつまれている中で、鉄面皮にも、大阪に出て、堂島で大きな買占め事件を起した。
 また、やはり大阪で、先収会社というものを創立開業して、大もうけをしている。これは子分の藤田伝三郎、木村正幹、富永冬樹、吉富簡一らを使って、大阪鎮台の請負をやらせたのである。井上の藩閥のボスとしての顔を大いに用いたのである。

 井上はやがて元老院議員に返り咲いたが、この時、会社は解散して、藤田組と改名した。やはり長州出身の藤田伝三郎と旧幕臣中野悟一が経営したのである。しかも、井上が黒幕で、背後からあやつって大もうけをしていた。
 たとえば、西南戦争のときなどは、井上のあっせんで、軍需品を政府に納入して、死の商人として、巨利を占めている。
 ところが、この悪のグループは、ついに尻尾を出した。これが贋札事件である。当時の社会をゆり動かした大事件である。連日、新聞に書き立てられた。主犯は、井上につながる藤田伝三郎で、大量のにせ札を作って、バラまいていた。その機械は、某国から仕入れたものとまで指摘して、疑いようのない事件として報道されたのである。

 それほど、当時の藤田組の繁昌ぶりは、目につくものがあり、単なる商取引だけの利潤かどうか、かげで何をしているのか、疑われたのである。
 ところが、ここに世にも不思議なことが起った。肝腎の事件追及の中心人物川路に突然洋行の命令が発せられたのである。しかも、川路は、その帰国の途中原因のわからないなぞの死をとげたのである。
 昔から、政治上の汚職事件のカギを握る人物が、事件追及中突如変死したり、急死したり、自殺と言われる死をとげたりすることは、いまと少しも変わりはない。
 山城屋事件も、山県につながる野村和助の切腹、三谷屋事件では、三谷三九郎の義兄の急死がある。この男が三井の返り証文を持っていたのだが、その行方は、この急死によって永久に不明になり、三谷屋の厖大な土地は、永久に三井のものになってしまった。
 今度は、藤田組贋札事件の鍵をにぎる川路大警視が、原因不明の急死をとげたのである。
 白昼の怪談は、政治権力者の黒い事件とともに続くのである。
 しかも、変死者は、川路大警視だけでなく、やはり事件の黒い鍵をにぎる中野悟一も、数年後猟銃自殺したと発表されたのである。
しかも、事件の結末は、藤田伝三郎は贋札犯人ではないということになっておさまってしまった。しかも、大正年間、藤田は男爵に進み巨財を作って、山県有朋の晩年、目白の椿山荘を買い取って、豪奢な暮らしは、世間の目を驚かせた。
 川路の急死は、いまでは藩閥と金権と密着したもみ消し工作に屈服しなかったための犠牲と見られている。

 

死の商人藤田・中野と長州閥のゆ着

 藤田伝三郎は、長州萩の豪商の息子であった。士族ではないが、幕末、高杉晋作の組織した奇兵隊に入隊した。
 明治維新後、三谷家にいたことがあるが、その後幕末の縁故をたよりに、長州閥のらつ腕家・木戸や井上馨に密着して、陸軍御用達になった。もちろん山県とも深い関係があったのである。だから、後に山県の椿山荘を買いとることになったのであろう。
 彼が、山県を利用して行ったことは、軍靴の一手納入であった。これは、実に巨大なもうけを伝三郎にもたらせた。数年で、大阪の高麗橋に宏壮な店をかまえる身分になった。後に軍服や糧食まで、陸軍に納入するようになった。
中野悟一は、藤田伝三郎と違って、旧幕臣である。剣の達人であったという。
 かつて伝三郎が眼病を患って失明しかけたとき、有馬温泉で湯治していたが、そのとき出あって同情し、ヘボン博士を紹介してくれたのが、中野であった。
 ヘボンが手術をして、藤田の目はなおったが、中野に感謝して、長州閥のボス木戸孝允や井上に引きあわせた。
 中野は、長州閥になりきるために、長州に籍を移し、山口県令にのし上がった。これで、彼は、名実ともに長州人になりきり、山口県令をやめた後、藤田とともに、井上の先収会社の経営者の一人となり、後は、その後身の藤田組の重役となって、巨利をむさぼった。
 井上が、堂島で、凄絶な米相場をはったとき、藤田、中野も加わっていたという。
 西南戦争の勃発は、彼らに死の商人として、巨利を与える絶好のチャンスになった。ことに都合のよいことは、山県有朋が、征討軍の軍監になったことである。
 山県は、一時、大阪の藤田軍を本拠として軍務を見たという一事からも、藤田組が、長州閥を足場にして、いかに深く陸軍に食い入っていたかが分かる。
 政府軍は、大阪を軍需品の調達基地にした。もちろん、藤田・中野に特権をあたえたのである。
 この戦役でのもうけ頭は、藤田組よりも規模が大きく、兵器だけでなく兵員輸送もおこなった三菱の岩崎弥太郎であったが、二位は藤田組で、そのもうけは、当時の金で数百万円といわれた。現在では、数百億円に当たろう。


 ニセ札事件の発覚

 しかし、それと同時に、ニセ札事件が発生したのである。事実藤田組のやったことなら、井上・山県らと組んでやったことであろうが、悪質この上ない事件である。
 西南戦争が終わらないうちに、関西から九州一帯にかけて、二円紙幣のニセ札が大量に発見されたのである。
 幕末からニセ札は、かなりの回数で出まわっていた。しかし、今度のは、それまでと違って、精巧きわまるもので、五百倍の顕微鏡で拡大しなければ分からないものであった。
 ことに、藤田組が、このニセ札を作った主犯と見られたのは、元藤田組支配人が告発したからである。木村真三郎という男で、西南戦争当時支配人をしていた男だから、当時の組の事情には、最も精通しているはずである。
 かれは、手記を書き上げ、実地録と名づけ、大阪府の判事補桑野札行へ訴え出たのである。
 その手記の中には、驚くべきことが書かれていた。それによると、ニセ札の犯人一味は、井上馨と藤田伝三郎、中野悟一らになっている。ニセ札は、独仏両国で作り、これを井上参議御用物として日本に送らせていた。木村自身輸入の函(ハコ)や反物の中に、青い紙幣様のものを見たというのだ。
 また、木村が長崎出張中、まだ世間に通用していない新紙幣数万円をとりあつかったことがある。
ところが、伝三郎の甥辰之助と手代の新山陽治から秘密を聞かされ他言しないようにと脅迫されて、誓約書を書かされたというのだ。この手記を眉つばだと現在もいう人がいるが、これだけ現実に即した詳細な手記を単なるフィクションでものにできるものだろうか?
 とにかく、これだけ精巧な技術は、当時の日本としては、望み得ベくもなかった。また、外国で製造してもちこむ場合、最も発見されないで流布できる確率は、取引のさかんな会社、いわば金銭の出入りの激しい店で使うことである。
 この告発にもとづき、明治十二年九月十五日未明、藤田邸は、三十数名の警官に急襲された。社長藤田伝三郎、重役中野悟一らは、もちろん逮捕拘引された。と、同時に徹底的に家宅捜索が行われた。
 これを聞いた山県、井上は激怒した。明確な証拠もあがらない段階で、名誉ある階級の人々を逮捕することは警視局の越権行為だとというのだ。
 ちょうど、このころ、外遊中の川路大警視が、ベルリンで精巧な紙幣贋造印刷機を発見したという報道が伝えられてきた。川路は、この事件追及に、突如警察制度とり調べのため外遊を命ぜられていたのである。しかし、川路は屈せずに、この機会を利用して独自の捜査を進めていたようである。


 疑われる井上の動き

 井上馨は、なぜかこれより少し前に、ベルリンにおもむき、帰国している。ニセ札取引の連絡に行ったのか、事件が日本で発覚したので、処理に行き、口封じをしてきたのか、証拠隠滅に行ったものか、いろいろな推測がされるが、いまもなぞの残る行為である。
 ところが、その川路大警視が、帰国の船中で急死したのである。当然、井上、藤田などの手がまわって、船中で毒殺されたのだという噂がひろまって、疑惑は、井上らの身辺に集中した。
 しかし、その後の追及では、すでに証拠が隠滅されていたのか、警視局に強力な圧力がかかったのか、三か月後に、藤田、中野ら全員は、証拠不十分で釈放されてしまった。
 と、同時に、告発者の木村は、偽証罪で告発された。しかも、川路の腹心で、川路が同事件を徹底的に追及せよと命じたという安藤中警視と佐藤権大警部は、上司の許可を得ないで、大阪に出張したことは不届きであるという理由で、馘首された。贋札事件もみ消しのための弾圧事件であり、復讐でもある。

 ・・・

 

 いけにえか? ニセ札犯人とされた男

 しかし、権力側も、このままで終わらせたのでは、あれだけ騒がれたニセ札事件を完全に葬ることはできない。
 ニセ札が大量に出まわったことは事実で消しようがない。そこで、この男がニセ札を作った真犯人だと一人の男を検挙した。
 医者である。神奈川県愛甲郡中津村に住む熊坂長庵という三十八歳の男であった。彼が、二千八百枚にもおよぶ、精巧きわまるニセ札を作ったというのだ。
 ニセ札作りは、古代から極刑である。彼も無期懲役の宣告を受けて、投獄された。
 当時まだ、鉄道も開通していない時代に、関西から九州にかけて、一時に流布された大量のニセ札を、この男は一人で作り、一人で使って歩いたのか、これも、世にもふしぎな白昼の怪談である。
 しかし、ニセ札問題での大騒ぎで、世人の目は、藤田組と山県・井上・伊藤らとの密着による不断の汚職に対する追及をごま化されてしまった。
 これは、現代もいえることなので、真犯人は誰か、真の黒幕は誰か、そして、事件の真の根元はどこにあるのかを常に追及する姿勢を我々は失ってはならないと思う。

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