真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ババル島住民虐殺事件極秘資料新聞記事 

2008年02月04日 | 国際・政治

          ババル島住民虐殺事件極秘資料新聞記事 

 下記は1986年11月23日朝日新聞の記事である。(十五年戦争極秘資料集②ババル島事件関係書類-武富登巳男-不二出版より抜粋)

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 太平洋戦争末期の昭和十九年十一月南海の小島ババル島(現インドネシア領)を占領していた旧日本軍第五師団の部隊が住民400人以上を虐殺した事件があったことが、戦史研究家が入手した同師団参謀作成の極秘資料で明らかになった 書類では戦争犯罪人の追及を恐れてか「虐殺」を「原住民の反乱」と言いくるめようと師団長宛の報告書を二回にわたって変更していく過程が克明に記録されている。・・・
 関係者は朝日新聞の取材に対して、「報告書を改ざんすることで、戦犯として訴追されることを免れた」と認めた。・・・

 ババル島はニューギニアとチモール島のほぼ中間にある小島でオーストラリアに隣接する当時の最前線。書類の最初にある昭和二十一年一月十七日付の報告書(歩兵四十二連隊、第二中隊長名で小堀金城第五師団長あて)によると一連の事件は十九年十月二十七日、同島のエムプラワス村にたばこを買いつけに行った海軍嘱託が口論のすえ村長を殴り、怒った村長に現地人の密偵とともに殺されたのがきっかけだった。村長らは後難を恐れて、島内の憲兵詰め所と海軍見張り所を襲って憲兵曹長と水兵一人を殺害したため、十一月三日同島に配備されていた陸海軍部隊が「討伐」「約百名ヲ銃殺及(および)捕ヘタ」。さらにその4日後、中隊主力があったタンニバル島から中隊長以下60人が「第二討伐」のため同島に派遣され、二十日村長以下四百人を帰順させたが、日本軍に対する反逆事件だから将来を戒めるため重罰に処すべきだとの理由で「帰順セル土民約四百名ハ現地ニ於イテ銃殺」した、となっている。
 この報告書には、師団長らしい青鉛筆の文字で、「検討ヲ要ス」項目として。「帰順セル者ニ対スル処置ハ誰ノ命令カ」「婦女子マデ連座罰ヲ課セシ理由」など十三項目が書き込まれていた。 この指示にこたえるように「第二回検討」と書かれた憲兵少尉名の謄写版印刷の報告書では、帰順者の処置は、厳重訓戒のうえ釈放しようと全員休憩中、山中からの「叛徒」の逆襲を受けて応戦。この時、帰順者の約半数が「銃口を前に右往左往」したため、日本軍の弾丸と「叛徒」の弓矢に触れ死亡した、とした。 しかし、これでは合理的な説明にならないと判断したためか、陸軍用便せん十七枚、図一枚の最後の報告書では、事件名「『ババル』島住民蜂起事件」として、海軍嘱託殺害に始まる一連の事件を住民の「反乱」と決めつけた。そして、原住民四百人殺害は「婦女子ニ至ル迄・・・死ヲ賭シテ徹底抗戦ニ出デタルニ依リ止ムナク射撃したところ、住民は無統制に陥って、自分たちの武器などよって大半が死傷したということになった。
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 一連の報告書の改ざんについて事件の中心人物である中隊長らは、朝日新聞の取材に対し、住民「虐殺」があったことを認め、三つの報告書は戦後処理に当たったオランダ軍に報告するため、師団内で検討。結果的に戦犯訴追は避けられたと説明した。

 陸軍第五師団 第四十二連隊 第十二中隊長の元大尉は最初の報告書(改ざんされる前の報告書)の通りです、と認めた。・・・

 オランダ軍も少人数で十分な現地調査ができなかったらしい。
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        http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/
      http://homepage3.nifty.com/pow-j/j/j.htm

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