旅順虐殺事件
旅順虐殺事件は、1894年(明治27年)11月、日清戦争の旅順攻略戦の際、市内及び近郊で日本軍が清国軍敗残兵掃討中、多数の一般市民をも虐殺したといわれる事件です。南京大虐殺事件といろいろな面で似かよっていると思います。したがってこの時、政府や軍が旅順虐殺事件にしっかり向き合っていれば、その後の日本は、また違った道を進んだのではないかと思います。
当時、国内ではすでに陸軍省や軍が、軍機・軍略に関する記事を新聞や雑誌に掲載することを禁じ、また、日清戦争に関する「検閲内規」を定めていたため、旅順虐殺事件のような事実が国内で報道されることはなく、逆に挙国一致の姿勢で、軍や政府を後押しするような報道ばかりが続いていたようです。
問題は海外の報道です。陸奥外相は事件を知るとすぐに、海外報道を抑えるために在外公使に至急連絡するよう、外務省に電報を打つ一方、工作資金の工面についても、大本営に掛け合ったようです。その結果、事件直後に旅順事件について知る日本人は、ほとんどなかったようですが、少し間をおいて、海外の報道が日本に入り始めるのです。
資料1は、旅順虐殺事件について、英国「タイムス」の特派員トーマス・コーウェンから情報を得た陸奥外務大臣の対応と、その情報の概要を陸奥自身がまとめたものです。コーウェンが陸奥とのやりとりを短信にまとめ、会見の翌日広島から発信し、「タイムス」に取り上げられた記事の内容には、陸奥が敢えて触れなかった残虐な面も記されていたようです。
陸奥の指示を受けて、各国駐在の公使もそれぞれ対応したようですが、特に工作資金に関するやりとりが含まれる在英臨時代理公使内田康哉の電文部分も合わせて抜粋しました。
資料2は、事件の目撃者、クリールマンが横濱から米国ニューヨークの日刊紙「ワールド」へ打電した記事の内容です。これが日米間の新条約締結に関わる大問題となったようです。
資料3は、旅順虐殺事件の目撃者、クリールマンの記事が米国ニューヨークの日刊紙「ワールド」に出て大きな問題になった後、陸奥が寄せた弁解の文章と、その米国側の受けとめ方に関する部分を「残心を以て其人口を殺戮したり」の中から抜粋したものです。陸奥の弁解の一文をもってして、「日本告白す」というのはちょっと違うような気がしますが、その海外報道を日本で取り上げる時、日本に都合の悪い部分を修正するような報道もいかがなものかと思います。
資料4は、米国の報道関係工作資金に関する栗野米国公使とのやりとりの部分を抜粋しました。
下記は、すべて「旅順虐殺事件」井上晴樹(筑摩書房)から抜粋しました。多くの漢字の読み仮名は省略しました。また、漢字の旧字体は一部を新字体に変更しています。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
戦捷後随分乱暴ナル挙動アリ
11月24日~12月6日
1
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旅順虐殺事件とそれに続く日本政府の一連の慌しい反応は、第二軍に従軍していた外国人従軍記者が、日本に戻って来てから始まる。情報の操作と収集にぬかりのない陸奥にしても、この事件のその後の展開を予想していたであろうか。…
・・・
2
英国「タイムス」の特派員トーマス・コーウェンは11月29日午前、広島・宇品港に着岸した長門丸から降り立ち、30日に運よく陸奥に会見することができた。それは夜になってからのことであったと思われる。ここで陸奥は初めて事件の概要を知ることになり、大いに驚き、同時に事の重大さを素早く感知した。会見を終えると直ちに、東京・外務省にいる事務官林薫(ハヤシタダス)(1850~1913)に宛て、英文の電報を打った。文面の冒頭には、在露公使を通じて在独公使、在英臨時代理公使、在仏公使、在米公使、在伊公使、在墺(オーストリア)臨時代理公使へ直接、以下の電文を送るようにと指示がなされていた。その内容の大意は、「旅順から帰還した欧州の新聞記者たちが、日本軍が同地を占領したのちに暴行を犯した、と申し立てているが、我々はこの件に関する公報を受け取っていない。
これを受け取ったならば、速やかに知らせるつもりだが、新聞で公になるかもしれぬこの件に関するどのような報道でも、まるごと打電せよ」というものであった。まず海外に手を打ってから、陸奥は今度は事の次第をより詳しく記し、やはり林宛てに暗号・至急電報を送った。これを陸奥が、「今日…」と買い出したときには、まだ11月のうちであったが、送信するときには12月1日を20分ほど回っていた。30分後に着信し外務省担当官の手で復元された電報は、次のようなものであった。
今日タイムス通信記者一人旅順口ヨリ帰リタル者ニ面会セシニ日本軍ハ戦捷(センセウ))後随分乱暴ナル挙動アリ生捕(イケドリ)ヲ縛リタル儘(ママ)ニテ殺害シ若(モシ)クハ平民特ニ婦人迄ヲ殺シタルコトモ事実ナルカ如ク此事実ハ欧米各新聞社ガ目撃セシノミナラズ各国艦隊ノ士官特ニ英国海軍中将ナドモ実地ヲ見タリト云フ故ニ此新聞ハ東京横浜ノ間ニ広ガルベシ今日タイムス通信者ガ頻リニ日本政府カ取ルヘキ善後策如何ト尋ネタル故本大臣ハ之ニ答ヘ貴下ノ云フトコロ事実ナレバ実ニ痛嘆スベキコトナレトモ余ハ大山大将ヨリ公然ノ報告アルマデハ日本政府ノ意見ヲ云フ能ハズ而シテ日本兵隊ハ常ニ規律ヲ守ルモノンレハ若シ貴下ノ云フ如キ事実アルモ必ズ之ヲ起サシメタル原因アルベシ其原因ノ次第ニヨリ此ノ不幸ナル事実ヲ多少減少スヘキヲ信ズト云ヒ置キタリ閣下ハ此ノ本大臣ノ意見御了解ノ上若シ右ノ事実ガ顕ハレタルトキ何事モ(コミット)セザル様御話シ置キ降(クダ)サレタシ即(スナハチ)今日本政府カ如何ニ処分スベシト云ヒ若シ其処分出来ザルトキハ甚ダ不都合ナリ委細井上書記官帰京ノ上御聴取リアリタシ
どこまでも慎重で冷静な陸奥であった。12月2日に陸奥は再度、林宛てに暗号・至急電報を送り、事件に関する在日各国公使らの談話や東京、横浜の内外新聞が事件を記事にしたときには、「御報知アリタシ」と念を押した。同じく2日の夜には、連合艦隊司令長官伊東祐亨(イトウユウコウ)(1843~1914)が、11月28日に大連湾から発した電報が大本営に届いた。しかしそれは、「旅順口占領後特ニ報告スヘキ程ノ事件ナシ」と書き始められていて、事実の確認には役に立たなかった。
陸奥とのやりとりをコーウェンは短信にまとめ、会見の翌日、12月1日に広島から発信した。それが「タイムス」に報じられたのは、12月3日であった。その大筋は、陸奥が林に宛てた電報の内容と変わりはないが、事件の概要がわかる。
清国軍は、最後まで抵抗した。清国兵が平服に武器を隠し持っているのを、私(=コーウェン)は目にしたし、爆裂弾を隠し持っているのも見つけた。
民間人が戦闘に参加し、家々から発砲し、それゆえに彼らを根絶する必要があると判断した旨を日本軍は報告している。日本軍は、日本人捕虜の死体のうちの幾つかが生きたまま火焙りにされたり、手足を切断されたりしたのを目にし、より激昂したのであった。
私が次ぐる4日間、市街では抵抗がないのを知っていた。日本兵は全市街を掠奪し、そこにいるほとんど全ての人々を殺戮した。ごく少数ではあるが、婦女子が誤って殺された。
多数の清国人捕虜が、両手を縛られ、衣服を剥がされ、刃物で切り刻まれ、切り裂かれ、腸を取り出され、手足を切断されたことを、私はさらに陸奥子爵に伝えた。多くの死体は、部分的に焼かれた。
・・・
しかし、新聞で公になるかもしれぬと陸奥が各国公使に書き送る以前に、海外の新聞にはすでに事件を匂わせるような記事が掲載されていた。例えば、米国ニューヨークで発行されていた「ワールド」には、11月29日付紙面に12月28日清国・芝罘(チーフー)発の記事があり、これが「清国人避難民」の語った旅順の様子を伝えている。その大意は「日本軍は老若誰であろうと射殺し、掠奪と殺戮は三日間で極に達した。死者は手足を切断され、手や鼻、耳まで切り落とされ、もっとひどいことも行われた。住民は無抵抗であったにもかかわらず、日本兵はこの地域をあらし尽くし、清国人とみれば全てを殺害した。旅順の全市街と港湾は死体でいっぱいになっている」。また、同日付紙面の別記事は、米国軍巡洋艦ボルチモアからの報告が、虐殺の話を裏付けていると伝えていた。また、これより前に、「タイスム」の11月26日付紙面には、たった一行ではあるが、旅順で「大虐殺(グレート・スローター)が起きたことが報告されている」と記されていた。
陸奥が各国公使に通達するように林薫に指示した11月30日夜、サンクト・ペテルブルグを経由して、在英臨時代理公使内田康哉(ウチダコウサイ)(1865~1936)の電報(電受代1111号)が外務省へ向かっていた。入れ違いのように12月1日に届いたこの電報は、英文の電文と訳文とが一組にされて、林の手で広島にいた陸奥のもとへ改めて発信された。それは、陸奥が危惧していたことが、ロンドンの新聞紙上に現れていたことを示していた。しかし、「不當ナル記事當地ノ新聞紙上ニ顕ハルヽ毎ニ中央通信社ハ常ニ之ヲ辯駁ス」と内田の報告がそこには記されており、「タイムス」(11月28日付)が「日本兵暴(ミダ)リニ清国人民二百余名を虐殺せり」としたのを、「中央通信社」が否定の報道を(「タイムス」11月29日付)をした旨を伝えている。さらに続けて内田自身が言う。
”又旅順口ニ於テ日本兵ハ頗ル野蠻的ノ惨害ヲ行ヒタリト云フ上海發ルーター通信ハ本官之ヲ差止メタリ”
電報の原文には、翻訳はされなかったが、実はまだ文章が残っていた。
Cannot you grant money I have requested. I have no money from the beginning for press purpose.(=お願いした金員をお授けいただけませんか。最初から新聞用の金員は所持しておりません。)
3
・・・
それは、買収工作の結果であった。英国における新聞、通信界への工作は、1894(明治27年)年秋頃から活発化する。セントラル・ニューズは11月初旬あたりから、内田康哉、つまり日本政府の意に沿った通信を流し始める。時期は第二軍の行動と重なりあう。買収の効果が現れたということであろう。一例をあげれば、セントラル・ニューズは先の「タイムス」(11月28日付)の記事に対して、「戦時正當ノ殺傷ノ外清国人ハ壹名(イチメイ)モ殺害セラレタルモノナシ(電受第1111号電報訳文)と極めて乱暴な記事を流すのである。当時の新聞にはしばしば、様々なルートから来る正反対の内容を持つ記事が同時に掲載されることがあった。これが戦争という局面では、、なおさらに極端な形で表れたことであろう。内田は買収の効果に気をよくし、11月半ばに陸奥に宛ててセントラル・ニューズの動向を報告し、末尾には、「Allow me some money to acknowledge its past and future service. 」(=同社の以前以後の尽力に感謝するため幾許かのお金をお与えあれ)と記す。12月1日着の電文であった「money I have requested」とは、このことを指していた。
内田の電文をみるや陸奥は折り返し(12月1日午後3時12分)外務省にいた林薫に宛て、必要な金額を「御見計(オミハカラ)ヒノ上御送金」するよう指示を出した。事件らしきものが起きてしまった以上、少なくとも協力的な通信社をさらに懐柔し味方につけるしかないと陸奥は判断し、大本営にも了承を取りつけた上で、翌2日にも再度、林薫に暗号・至急電報を打った。それは、内田へ「例ノ豫備金(ヨビキン)」のなかから二千円ほど送るように指示したもので、もし「豫備金ノ餘分(ヨブン)」が少なければ、大本営から支出してもらう許可を得ている、と申し添えていた。
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資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
残心を以て其人口を殺戮したり
12月12日~12月18日
1
12月11日、クリールマンは横濱から米国ニューヨークの日刊紙「ワールド」へ、短文を打電した。事件の目撃者による初めてのより具体的な記事であった。栗野が12月2日に外務省に宛て公信にあるように、これまで「清國人ノ野蠻的ノ行為ハ日本二対スル米國ノ好感淸ヲ好クスルノ傾キ」があったが、それは未だ事件を知らぬ時点でのことであって、12日付「ワールド」第一面に載った、わずか百一語からなるクリールマンの署名記事は、ニューヨークやワシントンを中心に”激震”を引き起こした。
記事には、「日本軍大虐殺」と大見出しがつき、続いて「ワールド戦争特派員、旅順での虐殺を報告す」と中見出しが入り、「三日間にわたる殺人(マーダー)」「無防備で非武装の住民、住居内で殺戮(スローダード)さる」「死体、口にできぬほど切断(ミュークレイテイド)さる」「恐ろしい残虐行為(アトロシティ)に戦(オノノ)き外国特派員、全員一団となって日本軍を離脱す」と、小見出しが記事の要点を語っていた。クリールマンのこの記事は、その衝撃的な内容を強調するためか、他の記事よりも行間を余計に取って組まれていた。記事には、「1894年、プレス・パブリッシング・カンパニー(ニューヨーク・ワールド)による」と著作権が明示され、その下には「ワールドへの特電」と入っていた。特電は12月11日に横濱から発信されていた。記事の末尾には、クリールマンの名があった。のちに「萬朝報」は1895(明治28)年1月5日付紙面に「見よ外國新聞の通信者が如何に我軍を誹毀(ヒキ)するかを」と題し、途中に記者の弁駁を交えながら、クリールマンの記事を引用した。また「自由新聞」(同1月6日付)も「日米条約と米國上院」のなかで、これを掲載した。「日本」も同1月13日付紙面に「不埒なる記者の虚報」と題し、クリールマンを猛烈に罵倒する非難の一文を掲載したが、ここには記事の全文が翻訳されて引用された。
日本軍は11月21日旅順に入り冷々たる残心を以て悉く其人口を殺戮したり
防禦もなく武器をも有せざる住民は各々其家に於てせられたり屍体の惨状は言語の能く盡す所にあらず虐殺の無制限的に行はれたること三日にして全市悉く日軍の暴行に侵されざるなし是れ實に日本の文明を汚したる第一の血痕なり日本は此場合に於て再び野蠻に逆戻りしたり此暴行を為すに至りたるは事淸止むを得ざる所あるに由(ヨ)ると強弁するものあるも是れ虚妄なり信ずるに足たらず文明社会は此詳報を得ると共に唯だ戦慄するあらんのみ
外国通信者は此惨状を見るに忍びず一團となりて同軍を辞し去れり
・・・
「ワールド」は12日付紙面に続き、13日付紙面にも事件に関する記事を掲載し、のみならず社説も事件について述べたものであった。もはや日清戦争のことではなく、事件についてであった。社説は「日本軍の残虐行為(ジャパニーズ・アトロシティーズ)」との題であった。従軍記者(目撃者)が事件について書いたものといえば、コーウェンの記事(「タイムス」12月3日付)が最初であったが、ここでは何故か、クリールマンの記事を「欧米の新聞中、残虐行為についても最初の信頼すべき記事」と自賛していた。日本政府が何よりも気にしていた新条約についても触れられ、日本はまもなく文明化するであろうが、そのときが来るまで正義と人道に悖る国に、我々の市民を守る権利を放棄する条約を締結するべきではない、と痛いところを突いていた。…
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資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
3
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「ワールド」宛にハウスの手によって送られた陸奥の電報は(弁解の声明文)はニューヨークに15日深夜から翌未明にかけて届き、同紙編集室を狂喜させた。12月17日月曜日の朝、仕事に出かけるニューヨークの人々は、売店に置かれた「ワールド」第一面の左端、つまりトップ・ニュースの見出しに「日本告白す」という文字を見つけた。続いて「日本政府、ワールド紙に公式声明す」「国家的な自責の念を表明」「旅順における虐殺についてのクリールマン報道を裏付ける」「ありのままの真実が語られよう」「責任を問い、国家の名誉挽回の措置を講ず」「ワシントンニュースに驚愕す」「日本政府、戦争に関する通信を初めて送る」との中見出しや小見出しが、かなりのスペースを割いて割り付けられ、いやでも人目を引いた。12日付同紙のクリールマンの報告以来、米国政府でさえ「ワールド」の報道に並々ならぬ関心を寄せていたのである。「ワールド」の社主ジョセフ・ピューリツツァー(1847~1911)は、時の大統領スティーブン・G・クリーヴランド(1837~1908)を支持していた。クリーヴランドは第二十二代大統領(在任1885~1889)を務め、さらにベンジャミン・ハリソン(1833~1901)のあとをうけ、前年の1893年に第二十四代大統領に就任したところであった。このような背景によって、「ワールド」の記事はなおのこと政府筋に歓迎されたことと思われる。
「12月16日、日本・東京発ーー以下の声明はワールド紙に発表することを、日本国外務大臣陸奥氏によって認可されている」という冒頭部分に続き、陸奥の声明文が始まる。のちに「時事新報」(1895年1月18日付)は、この声明を「所謂旅順の虐殺に付き」と題して翻訳転載し、また、「日本」(同1月30日付)も抄訳し転載した。前者で声明文は次のように訳されている。
日本政府は旅順口のことを隠蔽せんと欲せざるのみならず却(カヘ)つて事実の確かなる所を取調べ國の尊厳を保つために必要なる所置(ショチ)を為さんことを欲せり元来戦争の始めより政府は何事に寄らず法外の處置(ショチ)なき様常に注意したるに此度(コノタビ)に限り其注意の充分功を奏せざるご如き赴きあるは実に文武諸官の最も遺憾とする所なり今日までに取調べたる所を以てすれば日本軍は
第一同僚の残酷に殺されたるを見聞して憤慨に堪へず遂に堪忍袋を破りしものゝ如し
第二逃亡の支那兵は皆平服に姿を変へて潜匿(セントク)し以て日本軍の眼(マナコ)を暗(クラ)まさんとしたるが故に見当たり次第彼等を捕へたるものゝ如し
第三既に同僚の残酷に殺されたるを見聞して憤慨措(オ)く能はざる上にその證跡(ショウセキ)毎日顕はれ而(シ)かも次第に其甚(ハナハダ)しきことを知りたるが為に益々憤慨に堪へざりしものゝ如し
日本政府は既往(キオウ)より将来に至るまで常に文明の主義に従はんと欲するものにして偶然にも其常道を外れたるが如き趣あるは遺憾に堪へざる所なれど併(シカ)し不都合なる観察を下し不公平なる見解を以て皇張誇大(クワチヤウコダイ)に説くものに向つて駁撃(ハクゲキ)を加へせざるを得ず日軍の為に殺されたるは大概(タイガイ)皆兵卒にして彼等は平人(ヘイジン)の衣服を奪ひ取りて形を変じたること其奪はれたる平人は皆疾(ト)くに隊を為して逃走したれども日本軍占領の後は追々(オイオイ)に帰り来りて各々(オノオノ)職業に安(ヤス)んじ日軍に向つて誠実を表(ヒョウ)し日軍の仁慈(ジンジ)に感ずること是皆間違ひもなき事実なり日本政府は実際起りしことを聊(イササ)かたりとも蔽(オホ)はんとの心なく実際兵卒以外の市民に害を加へんとの所存は毛頭なし左(サ)れば事実は成るべく速に報道さるゝも宜敷(ヨロシク)けれど極端なことを報じて与論を動かさんとするが如きは差控へられんことを希望す云々
「時事新報」掲載のこの記事には「云々」とあって、このあとにも文が続く印象を読者に与えるが、陸奥の声明文は以上であった。この文は広島で掲示されたものかどうかは不明である。「日本」に掲載されたものは、一段七行ほどの抄訳、抄訳というよりは要旨のみであったから比較の上、検証することはできない。それよりも、政府の声明でありながら、政府にとって都合の悪い部分、例えば第二の理由は、清国兵が民間人になりすまし大規模に逃亡しようとしたことになお一層いきりたち日本兵は無差別に報復を加えた、という訳が内容的にはより正しいのだが、そういった部分は検閲の際に手を入れられ改竄(カイザン)されたようだ。あるいは「時事新報」の自主規制なのか。
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資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
4
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…9月17日には栗野から陸奥宛に、6000ドルので日本政府が望むサービス、つまり日本に有利になる記事を掲載してくれることを同紙が了解した旨の電報が届く。陸奥はあれこれ一ヶ月以上考えた末に、無号・親展の公信を10月26日に栗野に宛てて送った。
ワシントンポスト新聞ハ金六千圓(ロクセンエン)ヲ以テ我ニ利益ナル新聞ヲ掲載セシムルコトヲ得ヘキ旨過般(カハン)電信ヲ以テ御申越(オモウシコシ)相成リタルモ其金高過当ト存候(ゾンジソウロウ)ニ付其次第返電致置キタルニ其後金千五百弗(ドル)ヲ以テ当分ノ間同新聞ヲ使用シ得ヘキ旨御申越之趣(オモムキ)承知致候然ルニ頃日(ケイジツ)接到(セットウ)シタル客月十九日及四月二十八日付スチーブンス氏私翰ノ趣ニ依レ者(ヨレバ)当初新聞利用之義ニ関シ本大臣ノ発シタル訓令ヲ誤解シ或(アルイワ)新聞紙ヲ専(モッパ)ラ我カ為メニ利用スル義ト解シタルモノト相見エ候本大臣ノ意ハ決テ左ニアラス
このような次第で結局は「ポストに関する交渉ハ御見合せ可相成候」となったものの「尤(モット)もスチーブンスヨリ申越者若干ノ金ヲ公使館ニ備ヘ便宜新聞掲載ノ報酬又新聞記者饗応(キョウオウ)ノ費用ニ充ツル義ハ至極有用ノ事ト存候」ということになり、千円の為替が送られた。
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