何か新しい指摘があるかと思い、「竹島は日韓どちらのものか」下條正男(文藝春秋)を読んだ。しかしながら、特に目新しい指摘はなく、むしろ、いくつかとても引っかかる部分があった。下條正男竹島論は、歴史的事実や関係する文献を総合的かつ客観的に分析するのではなく、むしろ日本の領有権主張の筋書き作りのために取捨選択し、都合よく解釈しながら記述されているという印象を受けたのである。引っかかった部分をいくつか指摘したい。
その1(p16)----------------------------
第1章 ことの発端 17世紀末の領土紛争
1 竹島問題はこうして始まった
無人島だった竹島は、近代以前は日朝間で領有権問題が持ち上がったことはなかったが、20世紀初めに日本人が海驢(あしか)猟の基地として使い始めてから利用価値が認められ、日本政府は1905年(明治38年)1月28日、「他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムベキ形跡」のないことを確認の上、閣議決定で日本領とし、同年2月22日、島根県知事の松永武吉は「島根県告示第40号」を公示して、島根県に編入した。
これに対しその翌年5月、朝鮮側では竹島の日本領編入が問題になった。編入が侵略行為と映ったのである。朝鮮半島が日本の保護国となる4年ほど前のことである。
---------------------------------
ここでは、「近代以前は日朝間で領有権問題が持ち上がったことはなかったが……」の部分である。「近代以前」というのがいつからなのかはっきりしないが、少なくても1905年以前にも、問題になっていたと考えるべきだと思う。鬱陵島と竹島を完全に切り離し、竹島(独島)を鬱陵島の属島としてとらえるとらえ方を完全に無視することによって、安龍福の主張などはなかったことにすれば、「問題が持ち上がったことはなかった」ということになるかも知れないが、日本は、竹島(磯竹島・現鬱両島)の領有権を主張し、朝鮮人の渡海を禁ずるように要求もしているのである。
また、「他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムベキ形跡」のないことを確認の上で編入したというのであるが、竹島は「日本海に浮かぶ絶海の孤島」「古来、人間の定住を拒み続けてきた島」であるといっておきながら、何を確認したというのであろうか。なぜ、編入前に隣国である韓国に通知し確認しなかったのか。鬱陵島での日本人の条約違反に対応するために発せられ、竹島編入前に韓国官報に掲載された1900年10月25日の大韓帝国勅令第41号の石島(韓国は現独島であるという)が独島(竹島)であるのかどうかの確認を、なぜしなかったのであろうか。さらに言えば、領土編入を隣国である韓国政府に文書で通知しなかったばかりでなく、なぜ島根県告示第40号というかたちで公にしたのか(このような重要な領土問題の決定が、日本の官報に掲載されず、秘密裏に近い状態で編入されたことが、国際法的に問題がないといえるのだろうか)。
「……確認の上、閣議決定で日本領とし、……」の確認が、確認になっていないのではないか。隣国との確認・調整のない無主地編入がそのまま認められるものなのかどうか疑問だと思うのである。「……確認の上、閣議決定で日本領とし、……」では、韓国人はもちろん、客観的に判断しようとする良心的な日本人は納得できないのではないかと思うのである。
その2(p17)----------------------------
1946年1月29日、GHQ(連合国軍総司令部)の暫定的措置(訓令第677号)で、「日本から除外される地域」に指定されていた竹島は、朝鮮領の範囲を規定した1951年調印の「サンフランシスコ講和条約」の第2条(a)項では、朝鮮領から除外され日本領になっていた。
---------------------------------
日本領になる経緯については、同書では第4章で触れているが、サンフランシスコ講和条約の第1次から第5次草案までは、竹島は日本が放棄するものとされていた。ところが、日本の外務省の、米国務省駐日政治顧問・連合軍最高司令部外交局長シーボルトへの要請や情報提供(それまでの日韓の論争や経緯を無視したものであったようである)によって、草案の書き換えが行われ、第6次草案で竹島が日本領に入れられたという事実にもここで触れる必要があると思われる。
その3(p20)----------------------------
一方、日本政府が竹島の領有権を主張した根拠はどこにあったのか。
それは、安龍福の証言よりも30年ほど前に成立した、出雲藩藩士の斎藤豊仙が、藩命によって著した『隠州視聴合記』(1667年序)である。その「国代記」で斎藤豊仙は、松島(現在の竹島)と鬱陵島を日本の「西北限」の領土として明記している。
これを根拠に明治政府は1905(明治38)年、それまで松島と呼ばれていた無人島を「竹島」と命名し、島根県に編入したのである。17世紀以降、日本側では竹島をわが国の領土として認識していたことは明らかである。
----------------------------------
とのことである。しかしながら、これは下條正男竹島論のきわめて問題ある部分で、「史的検証 竹島・独島」の中で内藤教授が書いているように、斎藤豊仙の『隠州視聴合記』には下記のようにあり、「此の州」に関して「鬱陵島」を示すのか「隠岐島」を示すのか意見が分かれているのである。(「此の州」に関しては、『近代日本の国際秩序と朝鮮観 大君外交と「武威」』池内敏(名古屋大学出版会)に、反論の余地がないと思われるほど総合的かつ客観的な分析があるので、別途抜粋をしたい。)
「隠州は北海の海中にあるので隠岐島という。これより南は雲州美穂関までは35里、東南は伯州赤崎浦まで40里、西南は石州温泉津まで58里、北から東は住むべき地がない。西北に1泊2日行くと松島がある。また1日ほどで竹島がある。(俗に磯竹島という。竹や魚、海驢が多い。案ずるに神話にいうところの五十猛から来ている)。この2島は無人の地である。高麗をみるに雲州より隠州を望むごとくである。しからば即ち日本の西北(乾地)は此の州をもって限りとなす。」
この文章は、鬱陵島から高麗(朝鮮半島)を見ることが、雲州(出雲の国)から隠州(隠岐島)を望むことと同じであるという比較に読める。その比較の延長で「しからば即ち日本の西北(乾地)は此の州をもって限りとなす」を読めば、「此の州」は隠岐島を示すと考えられる。少なくとも「斎藤豊仙は、松島(現在の竹島)と鬱陵島を日本の「西北限」の領土として明記している」と断言できるような文章ではないのである。隠州を基点に記述している内容や「此の島」ではなく、「此の州」という言葉を使っていることも考え合わせると、むしろ逆であるといえる、「鬱陵島を日本の領土として明記している」とは、とても断言できそうにないのである。
その4(p74)----------------------------
第2章 舞台は朝鮮に──誤解の始まり
4 安龍福の驚くべき証言
この証言のうち、安龍福が「鬱陵于山両島監税を僭称」したことと、「安龍福が駕籠に乗り、他の者が馬で鳥取の城下」に入ったこと以外は、すべて偽りである。安龍福が鳥取藩に密航する4ヶ月ほど前1696(元禄9)年1月28日、すでに幕府は鬱陵島への渡海を禁じており、鬱陵島で鳥取藩の漁民たちと遭遇することは不可能である。また、禁を犯して出漁した漁民たちが処罰されたと、いう事実もない。
・・・
事実、安龍福は、「舟を曳いて入った」とする于山島の描写でも、馬脚を現している。于山島では「釜を列ねて魚膏を煮ていた」と供述しているが、大谷家と村川家が海驢(あしか)から膏を採取していたのは鬱陵島である。岩礁にすぎない松島には、燃料となる薪がなく、釜を並べて魚膏を煮ることができる場所や、舟を曳いて進める浜辺もない。于山島に渡ったこともなく、松島もしらないままで安龍福は「松島は于山島だ。これもわが朝鮮の地だ」と証言していたのである。
・・・
----------------------------------
「安龍福」の偽証説は、下條竹島論の根幹をなす部分である。先ず、「1696(元禄9)年1月28日、すでに幕府は鬱陵島への渡海を禁じており、鬱陵島で鳥取藩の漁民たちと遭遇することは不可能である。」の部分に関してであるが、渡海禁止令は、対馬藩の「即時伝達を見合わせてほしい」という求めで、安龍福が鬱両島に渡った時点では、大谷・村川両家をもちろん、鳥取藩にも伝達されてはいなかったのである。「漁民たちと遭遇することは不可能」ではなかった。(この部分についても、『近代日本の国際秩序と朝鮮観 大君外交と「武威」』池内敏(名古屋大学出版会)から別途抜粋したい。
次に、日本の竹島領有権を主張する場合、「韓国の文献で于山島と呼ばれている島は、現竹島(独島)ではない」ということを立証することが重要であるが、、その点でも、安龍福の証言は決定的といえる。ところが、「竹島は日韓どちらのものか」が発行された平成16年4月20日の翌年、平成17年5月16日に島根県隠岐郡海士町村上助九郎邸宅で「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」が発見された。安龍福が2度目に来日した際の、隠岐島での取り調べ記録である。安龍福の供述の重要部分が、偽証ではなかった。日本の文献で、安龍福が松島(于山島・現竹島)の領有権も主張していたことが証明されることになった。安龍福は鬱陵島のみならず、松島(于山島・現竹島)も朝鮮の領土であり、江原道に属すると「朝鮮八道之図」を示し主張していたのである。位置関係も、ほぼ間違いないという。ということは、下條正男の下記の記述も通用しないことになる。
その5(p102)---------------------------
第3章 その後の経過──二つの異なる歴史認識
2 ある朝鮮史書の改竄
結局、于山島が松島(現在の竹島)だったということも、于山島が鬱陵島の属島だったということも、柳馨遠の『輿地志』に書かれていたのではなく、申景濬から始まっていたのである。
では、申景濬は何に依拠して「于山島は松島である」と臆断したのだろうか。
申景濬は按記の中で、「諸図志を考えるに」としているように、当時存在していた文献を勘案しているが、それらは、安龍福の「松島即ち于山島」という証言を無批判に取り入れたものであった。
その6(p120)---------------------------
第3章 その後の経過──二つの異なる歴史認識
4 近代における鬱陵島と竹島
・・・
これらの事実は、佐田白茅がいう松島が、現在の竹島とは無縁であったことの証左である。江戸幕府が渡海を禁じたのは鬱陵島であって、現在の竹島への渡海は禁じていなかったという事実も、日本側が今日の竹島を日本領と認識していたことを裏づける。
----------------------------------
しかしながら、幕府は1837(天保8)年2月21日付で、「異国渡海の儀は重きご禁制に候」と、2回目といえる渡海禁止令を出した。そこには「……勿論国々の廻船等海上において異国船に出会わざる様 乗り筋等心がけ申すべき旨先年も相触れ候通り弥々(いよいよ)相守り、以来は可成たけ遠い沖乗り致さざる様乗廻り申すべく候」とある。この文面から、「江戸幕府が渡海を禁じたのは鬱陵島であって、現在の竹島への渡海は禁じていなかった」と解釈することは難しいのではないか。なぜなら、「遠い沖乗り致さざる様……」といっているのである。松島(現竹島)までなら行ってもよいというのであれば、こういう文面にはならないと思われる。
その7(p127)---------------------------
第3章 その後の経過──二つの異なる歴史認識
4 近代における鬱陵島と竹島
・・・
リャンコ島(竹島)での海驢猟は、すぐに過当競争となり、乱獲の弊害が出始めたので、中井養三郎は1904(明治37)年9月29日、リャンコ島の領土編入を願って、その請願書である「リヤンコ島領土編入並に貸下願」を内務、外務、農商務省に提出した。これを受けて明治政府は、1905(明治38)年1月28日の閣議で「他国ニ於テ之ヲ占領シタりト認ムベキ形跡ナク」として、リヤンコ島を竹島と命名し
「島根県所属隠岐島司ノ所管」としたのである。
---------------------------------
この部分の記述も正確ではないと思う。中井養三郎は、自身の『事業経営概要』で「……リヤンコ島を以て朝鮮領土と信じ、同国政府に貸下請願の決心を起こし、37年の漁期を終わるや、直ちに上京して隠岐出身なる農商務省水産局員藤田勘太郎に図り、牧水産局長に面会して陳述する所あり、牧局長亦之を賛し、海軍水路部に就きてリヤンコ島の所属をたしかめしむ、……」と記しており、竹島の領土編入の流れは、中井養三郎によってではなく、日露戦争最中、軍や政府関係者(外務省政務局長山座円次郎、農商務省水産局長牧朴真、海軍水路部長肝付兼行)によって作らたことが明らかになっているのである。中井養三郎の「貸下請願」がきっかけであったとはいえ、編入に至る経緯の軍事的側面や軍および政府関係者の働きを無視してはならない。リヤンコ島で海驢猟に取り組んでいた中井養三郎が、リヤンコ島は朝鮮領と信じていたと自ら述べていることに触れることなく、
「…リャンコ島の領土編入を願って…」と記述することは問題だと思うのである。
その8(p173)---------------------------
第5章 争点の整理難──何がどうくいちがっているのか
3 「良心的日本人」とは何か
・・・
また、もう一つ重要な事実がある。それは長久保赤水の『日本輿地路程全図』に描かれた鬱陵島(図では竹島と表示)の右上に、「高麗を見ること、猶雲州より隠州を望むがごとし」という付記があることである。この付記は斎藤豊仙の『隠州視聴合記』からの引用である。この事実から見ても、長久保赤水が鬱陵島を日本領と認識していたことは明らかである。崔書勉氏や堀和生氏は、『日本輿地路程全図』に付記した長久保赤水の見識を無視して、彩色の有無だけを問題にしていたのである。
『隠州視聴合記』さえきちんと読んでいれば、こうした誤りを犯すはずがない。にもかかわらず堀和生氏が崔書勉氏の説に同調してしまったのは、「竹島は韓国領である」という前提で、竹島問題を論じているからである。
韓国側が我田引水な文献の読み替えをしている事例は、まだある。
たとえば、1785(天明5)年に林子平が作成した『三国通覧輿地路程全図』という日本およびその周辺を描いた地図であるが、その日本海の中ほどに竹嶋という島が描かれていて、その島に「朝鮮ノ持也」と付記がなされている。韓国側では、それをそのまま解釈して、その島は今日の竹島であり、林子平も韓国領と認めていた、と主張している。
だが、今日の竹島が「竹島」と呼ばれるようになるのは、1905年以後のことで、『三国通覧輿地路程全図』中の竹嶋を、文字通り今日の竹島と解釈すること自体無理がある。
---------------------------------
下條正男竹島論は、安龍福の供述の主要部分が偽証であるとしつつ、斎藤豊仙が『隠州視聴合記』で、「竹島を日本の西北限と明記した」として、そこから諸文献を眺め、韓国側の主張を批判しているように見える。したがって、現在の竹島にあたる部分に描かれた島が朝鮮領を示す色になっている理由などは、全く問題にしていない。対馬や隠岐島は日本領を示す色なのである。疑問が残るといわざるを得ない。『隠州視聴合記』にいう「此の州」が鬱陵島なのか隠岐島なのか議論があることを考え合わせれば、なおのことである。前述したように、『近代日本の国際秩序と朝鮮観 大君外交と「武威」』池内敏(名古屋大学出版会)を読めば、「此の州」が隠岐島を示していることは疑いようがない。歴史的事実を客観的に分析するのではなく、下條正男氏自身が、「竹島は日本領である」という前提で、竹島問題を論じていると思われるのである。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は記憶しておきたい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。
その1(p16)----------------------------
第1章 ことの発端 17世紀末の領土紛争
1 竹島問題はこうして始まった
無人島だった竹島は、近代以前は日朝間で領有権問題が持ち上がったことはなかったが、20世紀初めに日本人が海驢(あしか)猟の基地として使い始めてから利用価値が認められ、日本政府は1905年(明治38年)1月28日、「他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムベキ形跡」のないことを確認の上、閣議決定で日本領とし、同年2月22日、島根県知事の松永武吉は「島根県告示第40号」を公示して、島根県に編入した。
これに対しその翌年5月、朝鮮側では竹島の日本領編入が問題になった。編入が侵略行為と映ったのである。朝鮮半島が日本の保護国となる4年ほど前のことである。
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ここでは、「近代以前は日朝間で領有権問題が持ち上がったことはなかったが……」の部分である。「近代以前」というのがいつからなのかはっきりしないが、少なくても1905年以前にも、問題になっていたと考えるべきだと思う。鬱陵島と竹島を完全に切り離し、竹島(独島)を鬱陵島の属島としてとらえるとらえ方を完全に無視することによって、安龍福の主張などはなかったことにすれば、「問題が持ち上がったことはなかった」ということになるかも知れないが、日本は、竹島(磯竹島・現鬱両島)の領有権を主張し、朝鮮人の渡海を禁ずるように要求もしているのである。
また、「他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムベキ形跡」のないことを確認の上で編入したというのであるが、竹島は「日本海に浮かぶ絶海の孤島」「古来、人間の定住を拒み続けてきた島」であるといっておきながら、何を確認したというのであろうか。なぜ、編入前に隣国である韓国に通知し確認しなかったのか。鬱陵島での日本人の条約違反に対応するために発せられ、竹島編入前に韓国官報に掲載された1900年10月25日の大韓帝国勅令第41号の石島(韓国は現独島であるという)が独島(竹島)であるのかどうかの確認を、なぜしなかったのであろうか。さらに言えば、領土編入を隣国である韓国政府に文書で通知しなかったばかりでなく、なぜ島根県告示第40号というかたちで公にしたのか(このような重要な領土問題の決定が、日本の官報に掲載されず、秘密裏に近い状態で編入されたことが、国際法的に問題がないといえるのだろうか)。
「……確認の上、閣議決定で日本領とし、……」の確認が、確認になっていないのではないか。隣国との確認・調整のない無主地編入がそのまま認められるものなのかどうか疑問だと思うのである。「……確認の上、閣議決定で日本領とし、……」では、韓国人はもちろん、客観的に判断しようとする良心的な日本人は納得できないのではないかと思うのである。
その2(p17)----------------------------
1946年1月29日、GHQ(連合国軍総司令部)の暫定的措置(訓令第677号)で、「日本から除外される地域」に指定されていた竹島は、朝鮮領の範囲を規定した1951年調印の「サンフランシスコ講和条約」の第2条(a)項では、朝鮮領から除外され日本領になっていた。
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日本領になる経緯については、同書では第4章で触れているが、サンフランシスコ講和条約の第1次から第5次草案までは、竹島は日本が放棄するものとされていた。ところが、日本の外務省の、米国務省駐日政治顧問・連合軍最高司令部外交局長シーボルトへの要請や情報提供(それまでの日韓の論争や経緯を無視したものであったようである)によって、草案の書き換えが行われ、第6次草案で竹島が日本領に入れられたという事実にもここで触れる必要があると思われる。
その3(p20)----------------------------
一方、日本政府が竹島の領有権を主張した根拠はどこにあったのか。
それは、安龍福の証言よりも30年ほど前に成立した、出雲藩藩士の斎藤豊仙が、藩命によって著した『隠州視聴合記』(1667年序)である。その「国代記」で斎藤豊仙は、松島(現在の竹島)と鬱陵島を日本の「西北限」の領土として明記している。
これを根拠に明治政府は1905(明治38)年、それまで松島と呼ばれていた無人島を「竹島」と命名し、島根県に編入したのである。17世紀以降、日本側では竹島をわが国の領土として認識していたことは明らかである。
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とのことである。しかしながら、これは下條正男竹島論のきわめて問題ある部分で、「史的検証 竹島・独島」の中で内藤教授が書いているように、斎藤豊仙の『隠州視聴合記』には下記のようにあり、「此の州」に関して「鬱陵島」を示すのか「隠岐島」を示すのか意見が分かれているのである。(「此の州」に関しては、『近代日本の国際秩序と朝鮮観 大君外交と「武威」』池内敏(名古屋大学出版会)に、反論の余地がないと思われるほど総合的かつ客観的な分析があるので、別途抜粋をしたい。)
「隠州は北海の海中にあるので隠岐島という。これより南は雲州美穂関までは35里、東南は伯州赤崎浦まで40里、西南は石州温泉津まで58里、北から東は住むべき地がない。西北に1泊2日行くと松島がある。また1日ほどで竹島がある。(俗に磯竹島という。竹や魚、海驢が多い。案ずるに神話にいうところの五十猛から来ている)。この2島は無人の地である。高麗をみるに雲州より隠州を望むごとくである。しからば即ち日本の西北(乾地)は此の州をもって限りとなす。」
この文章は、鬱陵島から高麗(朝鮮半島)を見ることが、雲州(出雲の国)から隠州(隠岐島)を望むことと同じであるという比較に読める。その比較の延長で「しからば即ち日本の西北(乾地)は此の州をもって限りとなす」を読めば、「此の州」は隠岐島を示すと考えられる。少なくとも「斎藤豊仙は、松島(現在の竹島)と鬱陵島を日本の「西北限」の領土として明記している」と断言できるような文章ではないのである。隠州を基点に記述している内容や「此の島」ではなく、「此の州」という言葉を使っていることも考え合わせると、むしろ逆であるといえる、「鬱陵島を日本の領土として明記している」とは、とても断言できそうにないのである。
その4(p74)----------------------------
第2章 舞台は朝鮮に──誤解の始まり
4 安龍福の驚くべき証言
この証言のうち、安龍福が「鬱陵于山両島監税を僭称」したことと、「安龍福が駕籠に乗り、他の者が馬で鳥取の城下」に入ったこと以外は、すべて偽りである。安龍福が鳥取藩に密航する4ヶ月ほど前1696(元禄9)年1月28日、すでに幕府は鬱陵島への渡海を禁じており、鬱陵島で鳥取藩の漁民たちと遭遇することは不可能である。また、禁を犯して出漁した漁民たちが処罰されたと、いう事実もない。
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事実、安龍福は、「舟を曳いて入った」とする于山島の描写でも、馬脚を現している。于山島では「釜を列ねて魚膏を煮ていた」と供述しているが、大谷家と村川家が海驢(あしか)から膏を採取していたのは鬱陵島である。岩礁にすぎない松島には、燃料となる薪がなく、釜を並べて魚膏を煮ることができる場所や、舟を曳いて進める浜辺もない。于山島に渡ったこともなく、松島もしらないままで安龍福は「松島は于山島だ。これもわが朝鮮の地だ」と証言していたのである。
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「安龍福」の偽証説は、下條竹島論の根幹をなす部分である。先ず、「1696(元禄9)年1月28日、すでに幕府は鬱陵島への渡海を禁じており、鬱陵島で鳥取藩の漁民たちと遭遇することは不可能である。」の部分に関してであるが、渡海禁止令は、対馬藩の「即時伝達を見合わせてほしい」という求めで、安龍福が鬱両島に渡った時点では、大谷・村川両家をもちろん、鳥取藩にも伝達されてはいなかったのである。「漁民たちと遭遇することは不可能」ではなかった。(この部分についても、『近代日本の国際秩序と朝鮮観 大君外交と「武威」』池内敏(名古屋大学出版会)から別途抜粋したい。
次に、日本の竹島領有権を主張する場合、「韓国の文献で于山島と呼ばれている島は、現竹島(独島)ではない」ということを立証することが重要であるが、、その点でも、安龍福の証言は決定的といえる。ところが、「竹島は日韓どちらのものか」が発行された平成16年4月20日の翌年、平成17年5月16日に島根県隠岐郡海士町村上助九郎邸宅で「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」が発見された。安龍福が2度目に来日した際の、隠岐島での取り調べ記録である。安龍福の供述の重要部分が、偽証ではなかった。日本の文献で、安龍福が松島(于山島・現竹島)の領有権も主張していたことが証明されることになった。安龍福は鬱陵島のみならず、松島(于山島・現竹島)も朝鮮の領土であり、江原道に属すると「朝鮮八道之図」を示し主張していたのである。位置関係も、ほぼ間違いないという。ということは、下條正男の下記の記述も通用しないことになる。
その5(p102)---------------------------
第3章 その後の経過──二つの異なる歴史認識
2 ある朝鮮史書の改竄
結局、于山島が松島(現在の竹島)だったということも、于山島が鬱陵島の属島だったということも、柳馨遠の『輿地志』に書かれていたのではなく、申景濬から始まっていたのである。
では、申景濬は何に依拠して「于山島は松島である」と臆断したのだろうか。
申景濬は按記の中で、「諸図志を考えるに」としているように、当時存在していた文献を勘案しているが、それらは、安龍福の「松島即ち于山島」という証言を無批判に取り入れたものであった。
その6(p120)---------------------------
第3章 その後の経過──二つの異なる歴史認識
4 近代における鬱陵島と竹島
・・・
これらの事実は、佐田白茅がいう松島が、現在の竹島とは無縁であったことの証左である。江戸幕府が渡海を禁じたのは鬱陵島であって、現在の竹島への渡海は禁じていなかったという事実も、日本側が今日の竹島を日本領と認識していたことを裏づける。
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しかしながら、幕府は1837(天保8)年2月21日付で、「異国渡海の儀は重きご禁制に候」と、2回目といえる渡海禁止令を出した。そこには「……勿論国々の廻船等海上において異国船に出会わざる様 乗り筋等心がけ申すべき旨先年も相触れ候通り弥々(いよいよ)相守り、以来は可成たけ遠い沖乗り致さざる様乗廻り申すべく候」とある。この文面から、「江戸幕府が渡海を禁じたのは鬱陵島であって、現在の竹島への渡海は禁じていなかった」と解釈することは難しいのではないか。なぜなら、「遠い沖乗り致さざる様……」といっているのである。松島(現竹島)までなら行ってもよいというのであれば、こういう文面にはならないと思われる。
その7(p127)---------------------------
第3章 その後の経過──二つの異なる歴史認識
4 近代における鬱陵島と竹島
・・・
リャンコ島(竹島)での海驢猟は、すぐに過当競争となり、乱獲の弊害が出始めたので、中井養三郎は1904(明治37)年9月29日、リャンコ島の領土編入を願って、その請願書である「リヤンコ島領土編入並に貸下願」を内務、外務、農商務省に提出した。これを受けて明治政府は、1905(明治38)年1月28日の閣議で「他国ニ於テ之ヲ占領シタりト認ムベキ形跡ナク」として、リヤンコ島を竹島と命名し
「島根県所属隠岐島司ノ所管」としたのである。
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この部分の記述も正確ではないと思う。中井養三郎は、自身の『事業経営概要』で「……リヤンコ島を以て朝鮮領土と信じ、同国政府に貸下請願の決心を起こし、37年の漁期を終わるや、直ちに上京して隠岐出身なる農商務省水産局員藤田勘太郎に図り、牧水産局長に面会して陳述する所あり、牧局長亦之を賛し、海軍水路部に就きてリヤンコ島の所属をたしかめしむ、……」と記しており、竹島の領土編入の流れは、中井養三郎によってではなく、日露戦争最中、軍や政府関係者(外務省政務局長山座円次郎、農商務省水産局長牧朴真、海軍水路部長肝付兼行)によって作らたことが明らかになっているのである。中井養三郎の「貸下請願」がきっかけであったとはいえ、編入に至る経緯の軍事的側面や軍および政府関係者の働きを無視してはならない。リヤンコ島で海驢猟に取り組んでいた中井養三郎が、リヤンコ島は朝鮮領と信じていたと自ら述べていることに触れることなく、
「…リャンコ島の領土編入を願って…」と記述することは問題だと思うのである。
その8(p173)---------------------------
第5章 争点の整理難──何がどうくいちがっているのか
3 「良心的日本人」とは何か
・・・
また、もう一つ重要な事実がある。それは長久保赤水の『日本輿地路程全図』に描かれた鬱陵島(図では竹島と表示)の右上に、「高麗を見ること、猶雲州より隠州を望むがごとし」という付記があることである。この付記は斎藤豊仙の『隠州視聴合記』からの引用である。この事実から見ても、長久保赤水が鬱陵島を日本領と認識していたことは明らかである。崔書勉氏や堀和生氏は、『日本輿地路程全図』に付記した長久保赤水の見識を無視して、彩色の有無だけを問題にしていたのである。
『隠州視聴合記』さえきちんと読んでいれば、こうした誤りを犯すはずがない。にもかかわらず堀和生氏が崔書勉氏の説に同調してしまったのは、「竹島は韓国領である」という前提で、竹島問題を論じているからである。
韓国側が我田引水な文献の読み替えをしている事例は、まだある。
たとえば、1785(天明5)年に林子平が作成した『三国通覧輿地路程全図』という日本およびその周辺を描いた地図であるが、その日本海の中ほどに竹嶋という島が描かれていて、その島に「朝鮮ノ持也」と付記がなされている。韓国側では、それをそのまま解釈して、その島は今日の竹島であり、林子平も韓国領と認めていた、と主張している。
だが、今日の竹島が「竹島」と呼ばれるようになるのは、1905年以後のことで、『三国通覧輿地路程全図』中の竹嶋を、文字通り今日の竹島と解釈すること自体無理がある。
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下條正男竹島論は、安龍福の供述の主要部分が偽証であるとしつつ、斎藤豊仙が『隠州視聴合記』で、「竹島を日本の西北限と明記した」として、そこから諸文献を眺め、韓国側の主張を批判しているように見える。したがって、現在の竹島にあたる部分に描かれた島が朝鮮領を示す色になっている理由などは、全く問題にしていない。対馬や隠岐島は日本領を示す色なのである。疑問が残るといわざるを得ない。『隠州視聴合記』にいう「此の州」が鬱陵島なのか隠岐島なのか議論があることを考え合わせれば、なおのことである。前述したように、『近代日本の国際秩序と朝鮮観 大君外交と「武威」』池内敏(名古屋大学出版会)を読めば、「此の州」が隠岐島を示していることは疑いようがない。歴史的事実を客観的に分析するのではなく、下條正男氏自身が、「竹島は日本領である」という前提で、竹島問題を論じていると思われるのである。
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だから、ここでの問題は竹島の「領有意識」でしょう。大事なことは、当時の朝鮮の人が、わざわざ日本まで来て「竹島は自分たちの島だ」と主張したことではありませんか。
昔の領有意識を持ち出して根拠にするなら、中国の前身の中国は朝鮮全土は清の領土という認識です。それを持って全朝鮮は中国領と主張したらどうするのですか?
最近中国共産党は高句麗は中国支配下の王朝と言いだしています。
日本古来の習しから、「島名」にも、付け方のパターンが在ります。
日本人漁民の御先祖様方は、
海に出て行って岩礁や島を見付けると、漁をする時の目印として、
取敢えず「竹島」「松島」等の名を付けて来る癖が在りました。
犬のタロやポチ、猫のミケやタマ、みたいなものです(^_^)b。
☆「竹・松・夫婦」の島と岩礁☆
確定した名や名称が無い岩礁や島に、
取敢えず付ける名として、よく好んで上記の名が付けられました。
そして後に、
そのまま島名として確立した場合も在るし、
別名を考えて付け直した例も在ります。
<松島>
小さな島や岩礁等にも松が生えて居る事があり、
そこからもよく好んで名づけられました。
また、松が生えていなくても、
「松」の音読み「ショウ」からの連想で
漢字「小」に掛けて「小さい・可愛い・綺麗」等の意味を込めて
「松島〔まつしま〕」と名付ける事もよく在りました。
日本中に「松島」がいっぱい在るのは、そういった経緯からです。
<竹島>
「竹島」も日本では古来よく好んで付けられた名で、
大抵は「対になった岩礁や小さめの島」に名付けられています。
漢字「竹」は「ケ」が2つ対になって居る事から、
岩礁や島が(大まかに見て)二つ対になって居る様に見える島や岩礁に、
好んで付けられた名の一つです。
「竹が生えている」との理由で名付けられた例としては、
領土確定前の現韓国領「于山島」が且て「竹嶋・竹嶼」等と呼ばれた他、
日本国内では「竹生島」等が在ります。
島名に関する言語学的な論証ありがとうございました。
自主規制勧告”つまりは、異国船ともめて、仕事を作ってくれるなとの、自主規制勧告。禁制ましてや松島=現竹島領土放棄は論外。
そういう解釈には無理があると、私は思います。
・1900年韓国勅令41号鬱島郡格上げ勅令、日本に通知ありというのでしょうか?
・前年の”大韓地誌”、”大韓全図”にある韓国領土東経度要件(鬱陵島近辺迄)を明治政府は確認した可能性を否定不可。故に”無地主地”状態確認。韓国通知遅れたのでしょう。ちなみに1906夏統監府の諮問にも韓議政府は、同様の、東経度要件(鬱陵島近辺東限界)を返答。少なくともこの自点では、日本帝国圧力は感じられません。