真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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大熊良一「竹島史稿」は?(竹島領有権問題14)

2010年03月05日 | 国際・政治
 大熊良一の「竹島史稿」(原書房)は、日本の文献だけではなく、多くの朝鮮古書に当たり、竹島問題に関わる部分を取り上げ紹介している(下記はその一部)。その分析は比較的客観的であり、学ぶことが多い。しかしながら、彼もまた川上健三同様、元禄9年(1696年)1月28日の渡海禁止令によって、大谷・村川両家はもちろん、日本人は誰も鬱陵島には渡航していないにもかかわらず、安龍福は欝両島で多くの日本人に遭遇し、越境侵犯に抗議したと述べていることから、安竜福の供述の主要部分が虚言あると判断ている。その判断を覆すともいえる事実が、次の2つである。

 その1つは、安竜福が欝両島で多くの日本人に遭遇したという時点では、未だ大谷・村川両家に渡海禁止令は伝達されていなかった。「史的検証 竹島・独島」内藤正中・金柄烈(岩波書店)によると、両家に渡海禁止が達せられたのは1696年8月1日であり(鳥取藩『御用人日記』)、安龍福が日本人に遭遇する可能性は否定できないというのである(朝鮮側への通知はさらに遅れて、1696年10月16日だという)。したがって、安龍福の供述に虚言が含まれているとしても、全てを否定することはできないのである。
 もうひとつは、2005年5月16日に島根県隠岐郡海士町村上助九郎邸宅で「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」が発見され、そこに、安龍福が鬱陵島のみならず竹島の領有権も主張していたことが書き留められていたという事実である。日本側役人の取り調べ記録に、「安龍福が申すには」ということで、竹島(欝両島)はもちろん松島(現竹島)も朝鮮国江原道に属すと供述したことが記録されていたのである。

 安龍福の供述の主要部分が虚言でないとすると、大熊良一の竹島論も根本的見直しが必要になる。
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                      第2章

 朝鮮古書にある鬱陵島と”磯竹島”


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 しかし、ここで注目しなければならないのことは、この「東国輿地勝覧」(トングッヨジスンラン)にもでてくる李氏朝鮮国の世宗(1419年~1450年)の時代の官撰の実録が、王の孫にあたる端宗の2年(1454年)3月に完成し、この実録のうちに地理志8巻8冊が上梓されていることである。この「世宗実録地理志」は当時の15世紀中葉の朝鮮八道の地理歴史のみでなく行政・社会・財政・経済・軍事・産業・交通にまで広くわたって述べており極めて重要な文献であるということだ。この世宗実録(セジョンシルロク)のうちにおいて再び江原道、三陟都護府管轄下の蔚珍県の記録のうちに欝陵島の記事を見出すのである。その記録はさきの「東国輿地勝覧」(1481年撰)と同じ記録であり、この「世宗実録」との関連があるものと考えられる。この「世宗実録」は「東国輿地勝覧」に先立つこと27年前に上梓されているが、宮廷の納庫本とされ、巷間においては、たやすく繙読はできなかったもののようである。ここに、この実録のうちの欝陵島にかんする記録を次に示すこととする。

 于山・武陵ノ二島ハ県ノ正東ノ海中ニ在リ。二島ハ相去ルコト遠カラズ。風日清明ナレバ則チ望見ス可シ。新羅ノ時于山国ト称ス。一ニ云フ欝陵島ト。地方百里、険ヲ恃(たの)ミテ服セズ。智証王12年(511年……注)異斯夫(「三国史記」の列伝にでている……注)何瑟羅州ノ軍主トナル。謂ヘラク。于山ハ愚悍ナリ。威ヲ以テ来ラシムコト難シ。計ヲ以ッテ服スベシト。乃チ、多ク木ヲ以ツテ猛獣ヲ造リ、分チテ戦船ニ載ス。其ノ国ニ抵(いた)リ之ヲ誑(たぶら)カシテ曰ク、汝若シ服セズンバ、則チ即(ただち)に此獣を放ツベシト。国人懼レ来リテ降ル。高麗太宗13年(930年……注)其ノ島人白吉・土豆ヲ使(シ)テ方物ヲ献ゼシム。毅宗13年(1159年……注)金柔立等ヲシテ審察セシメ回(かえ)リ来リテ島中ニ泰山有ルヲ告グ。山頂ヨリ東ニ向ツテ行ケバ海ニ至ル一万余歩、西ニ向ツテ行クコト1万3千歩、南ニ向ツテ行クコト1万5千余歩、北ニ向ツテ行クコト8千余歩ナリ。村落ノ基址7カ所有リ。或ハ石仏像・鉄鐘・石塔有リ。多ク柴胡・蒿木・石南草ヲ生ズ。我太祖ノ時流民逃(のが)レテ其ノ島ニ入ル者甚ダ多シト聞ク。再ビ三陟ノ人金麟雨ニ命ジテ按撫使ト為シ、刷出シテ其地ヲ空クス。麟雨言(もう)ス。土地沃饒ニシテ竹大ナルコト柱(ママ、杠)ノ如ク、鼠大ナルコト猫ノ如ク、挑核升(ます)ヨリモ大ナリ。凡物是ニ称(かな)フト。


 以上朝鮮史書古文献として、「世宗実録地理志」をかかげたが、さらに他の朝鮮の古文献としては17世紀はじめに出版された李睟文の「芝峯類説(ジボンユソル)(万暦42年=1614年)にも、その第2地理部の項において欝陵島と三峯島の記事がある。そのうちの三峯島が如何なる島であるか、一説にはこれをこんにちの竹島(むかしの松島、リアンクール岩礁)に擬するものがあるが、はたしてどんなものであろうか。三峯島は、じつは、まぼろしの島で欝陵島に他ならないのではないかと推測される。この推論についてはさらに後述することとするが、この「芝峯類説」の記事をつぎに掲げることとしよう。

 欝陵島、一名武陵一名羽陵ナリ。東海中ニ在リ。蔚珍県ト相ヒ対ス。島中ニ大山有リ。地方百里、風アレバ便チ二日ニシテ到ルベシ。新羅ノ智証王ノ時于山国ト号ス。新羅ニ降ツテ土貢ヲ納ム。高麗ノ太祖ノ時、島人方物ヲ献ズ。我ガ太宗ノ朝、按撫使ヲ遣ハシ流民ヲ刷出シテソノ地ヲ空クス。地沃饒ニシテ、竹大ナルコト杠(帆ばしら)ノ如ク、鼠大ナルコト猫ノ如シ。桃核升ヨリ大ナリト云フ。壬辰ノ変ノ後、人往キテ見ル者有リ。亦倭ニ焚掠サレテ復(マタ)人煙無シ。近ク聞ク倭奴磯竹島ヲ占拠スト。或ハ謂フ磯竹ハ即チ欝陵島ナリト。
 三峯島モ亦東海中ニ在リ。成廟(宗ママ)ノ朝、人コレヲ告グル者有リ。朴元宗ヲ遣シテ往キテ探ラシム。風濤ニ因リテ泊ルヲ得ズ。還リテ欝陵島ヲ過グルト云フ。山海経ニ謂フ所ノ蓬萊山ハ溟海ニ有リ。風無クシテ洪波百丈ナリ。惟飛仙ノミ能ク到ル者ナリ。盖シ東北ノ海、風濤甚ダ険ナルヲ以テ故ニ云フ。


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http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。読み仮名は半角カタカナの括弧書きにしました(一部省略)。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。  

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2 コメント

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日本の問題ですが、あまり関心がないような風潮に... (ハードディスク 復旧)
2010-06-30 20:08:10
日本の問題ですが、あまり関心がないような風潮になってますね。残念です。
返信する
一度きっちり呼んでみたいですね。 (のれん)
2010-07-06 08:06:35
一度きっちり呼んでみたいですね。
返信する

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