百姓通信

自然と素直に向き合い、全身で風を感じて私は百姓しています。
①土づくり②循環型③無農薬・無化学肥料④永続性を大切に!

あの世

2017-03-12 21:10:15 | Weblog
「あの世」とは「霊界」、つまり死後の世界のことをさす。
死後の世界は天国と地獄にわけられ、ある人は階層にわけられているともいう。
「あの世」がもし、存在するのなら死ぬことは怖くなくなる。
輪廻転生が本当なら人生、何度でもやり直しが効く。
輪廻転生については「前世を記憶する子どもたち」(著:イアン・スティーヴンソン)や「臨死体験」(著:立花隆)、「輪廻転生」(J.L.ホイットン他)等に結構書き込まれているが、こればっかりは自らが経験しないとわからない。
日々精進していると死後の世界で“天国”に行けるのか。
何かやはり悪いことをしていると“地獄”行きなのか。
何度でも人生がやり直せるのなら、失敗を恐れず、全力で何事にでも取り組みたい。
もし仮に明日人生が終わことになったとしても悔いなく全力で邁進したい。
日々が未来の「あの世」に繋がっているのだから。

未来

2017-03-11 22:49:52 | Weblog
未来の方々に
未来の方々に
何が残せるのか?
未来の方々は
何を望むのか?
幸せな社会を、
豊かな社会を、
平和な社会を、
本当に願っていたのなら、
もっと以前に叶っていたはず。

覚悟

2017-03-11 00:23:30 | Weblog
明日、東日本大震災から6年を数える。
大自然は日々われわれに多大な恵みを与えてくれている反面、時として猛威を振るうことがある。
われわれはその自然に決して対峙するのではなく、寄り添い共に生きていく“覚悟”をもつ必要がある。
共に生きるということは、決してわれわれの意のままになるということではないこと、思い通りにならないことに対して自然への畏敬の念を抱く“覚悟”をもつことが大切なことなのだろうと改めて心する。

生きる

2017-03-09 22:55:44 | Weblog
「生きる」
と言うよりも「生かされている」という表現の方が正しい気がする。
しかし、そうかと言って、ただ漠然と決められた“運命”の中でズルズルと生きているのではなく、
ほぼ自分の思い通りにならない世界の中で、あくまでも高き理想を持ち、常に前向きに、時には歯を食いしばり、時には涙して、毎日毎日努力する。
“運命”とは決して決められたものではなく、今、現在の歩み方によって決定されていく、日々の弛まない努力によって未来は導かれていく。
「生きる」とは未来が見えないから、だからこそ、またやり甲斐がある。

雪国

2017-03-09 00:29:22 | Weblog
寒の戻りで、いつの間にか“雪国”に舞い戻る。
感謝して生きることが幸せの近道だという。
何事にも感謝し、さまざまなことを他人の責任にすることなく、常に前向きに歩めれば、どう考えても幸せに近づけそうな気がする。
春の雪にも感謝し、明日もまた頑張ろう。

結果

2017-03-07 22:21:04 | Weblog
「結果が全てではない。」
桑田真澄は、
「結果がすべてのプロ野球の世界で22年間生きてきて確信したのは、結果よりもプロセスが大事だということ。」
という。
結果重視の社会の中で、結果にどこまでもこだわる姿勢は大切だが、結果から得るものよりもプロセスから得られるものの方が価値がありそうだ。
バブル崩壊以降各企業で導入された成果主義がもたらした功罪について今一度省み、継続する努力とその過程を評価する仕組み、常に邁進できる土壌とそれを顧みる仕組みが必要なのだろう。

便利

2017-03-06 22:54:04 | Weblog
昨年亡くなった永六輔さんは生前「便利は失うだけ」といっていたことをふと思い出した。
「便利」になったこの世の中で、この「便利」に慣らされていく過程で、われわれは多くのものを失ってきたのではないか。
「便利」はわれわれの根幹になっているところを、だんだんだんだん細め「生きる活力」「生き抜く力」を低下させているのではないか。
そんな思いを永さんは「便利は失うだけ」という表現でわれわれに伝え、残してくれたのか。

ボタニカル柄

2017-03-05 23:04:04 | Weblog
今年のトレンドは「ボタニカル柄」だという。
「ボタニカル柄」とは、植物をモチーフなしたプリントの総称。花柄と対照的に、木の葉や茎、実、草花などをモチーフにした少し落ち着いた柄を示すことが多いそうだ。
コーディネートは難しそうだが、モノトーン等おとなし目の色合いだと結構なんでも合わせることが出来そうだ。

春雷

2017-03-03 22:44:08 | Weblog
昨夜は雷で数度、夜空が煌った。
春を告げるかのような雷。
昔、そういえば、ばあちゃんが「節分の時の豆を残しておいて後で食べると雷から逃れられる」とか言っていた。
理由は何故かわからないが、昔の人が言っていたことには、やはり意味がある。
通常冬の雷は雪を連れてくる「雪起こしの雷」とか「雪下ろしの雷」というが、昨夜の雷は私には春を知らせてくれる春雷であったような気がする。