人が生きる世の中(サランサヌンセサン)
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セシボン文化 「ユン・ヒョンジュの”セシボン、私たちの話”より」② ドビド ”友” ヤン・ヒウ
キム・ミンギ作”小さな池”ヤン・ヒウン
これら音楽鑑賞室から1970年代の熱いフォーク文化の息吹を感じることができます。
セシボン仲間
下左ユン・ヒョンジュ、下右ヤン・ヒウン、真ん中左ソン・チャンシク、真ん中右キム・セファン,上左イ・ジャンヒ、上中央チョ・ドンジン、上右チョ・ヨンナム
ユン・ヒョンジュ「セシボン、私たちの話」(朝鮮日報コラムより)
1968年春の事だ。いつものようにソウル音楽鑑賞室 「セシボン」に座っていた。特に人が多い一日だった。200席余りの室内に 300人近い観客がいた。 椅子が足りなくて補助椅子をいっぱい置いた。 普段の時と違いセシボン入口には ”未成年者と高高生入場不可”の立て札が付いていた。その日のプログラムは前衛芸術が予定されていた。
時間になると現代音楽家ジョン・ケージの音楽が流れた。女性一人が舞台に歩いて出た。ランニングシャツとタイツの身なりだった。頭には白いマフラーを巻いた。他の男たちが出てきて刀でランニングを裂いてタイツを脱がせた。パンティーとマフラーだけ残った。代わりに透明風船で身をくるんだ。この間女性は始終ほほ笑みを失わなかった。急に男たちがその女性の風船めがけて飛びかかった。全身の風船が割れた。上半身を完全に現わしたヌードの彼女だけが立っていた。室内は静かだった。観客たちは拍手することも忘れた。
ミニスカートを着るだけで皆が眺める時代だった。当時一新聞社は ”奇妙で狂ったような事を繰り返す青年作家たちがした事”と報道した。さらに ”文化的テロリスト”とも言われた。前衛芸術家チョン・カンジャの ”透明風船とヌード”と言うパフォーマンスだった。チョン・カンジャは当時 25歳。”現場に取材にきた記者が ”脱いではいけない”と引き止めても、すべて脱ぐ覚悟で舞台に立った。30年近くたった1997年彼女は朝鮮日報に寄稿した文でこんな事を書いた。”30年前の音楽感想室 「セシボン」を思えば今も胸が震える。そこは今まで熱病に浮き立った人のように暮して来た私の芸術人生を生んだ母のような所だ”
そうだ、「セシボン」は単純な音楽感想室ではなかった。ギター音楽の誕生の役目ばかりではなかった。私が憶える青年文化の最初集結所が「セシボン」だった.。金大中(キム・デジュン)前大統領、有名マンガ家、清凉里精神病院長、前国会副議長, 前将軍などが舞台に立って青年たちと討論した。詩人や文壇の巨匠たちが詩を朗唱して観客たちと対話を交わした。大学生が主役になることができる唯一の文化空間が「セシボン」だった。
「セシボン」は 1953年ソウル明洞(ミョンドン)で初めてオープンした。最初主人が誰だったかは確かではない。その後イ・フンワンが引き受けて忠武路と小公洞を経て瑞麟洞に腰を据えた.。そこで今私たちが分かっている ”セシボン時代”を開くようになる。
セシボンが大学生文化空間で位置づくようになったのは、オーナーのイ・フンワンの役目が大きかった。セシボンを運営する彼の哲学は確固だった。酒は絶対持ち込み禁止だった。酒に酔った人も、暴力を使う人も出入り禁止だった。たまに酒に酔った人が入場しようとする、乱動をしようとする人がいると、大男のイ・フンワンが ”かつぐか””お酒飲んだの?”と言えばそれで終わりになった。
多様なプログラムも積極的に進めて他の音楽鑑賞室たちを圧倒した。明洞には芯喫茶店と皇室喫茶店, シボネが, 武橋洞にはヨン喫茶店が, 光化門近くにはアカデミー音楽鑑賞室と金蘭喫茶店が, 鐘路にはデ-スェネとルネサンス, アポロなどの音楽鑑賞室がお互いに競争した時代だった。この内セシボンぐらい、多くのプログラムを保有した所はなかった。
セシボンはソン・チァンシクがデビューした舞台である ”大学生の夜”から ”星占””名詞招待席””三行詩文章大会”など多くのプログラムを進行した。”新曲合評会”も開かれた。アルバムを録音する前に観客反応を見る時間だった。既成の歌手らが、楽団やピアノ伴奏で歌を歌って評価を受けた。
時間になると現代音楽家ジョン・ケージの音楽が流れた。女性一人が舞台に歩いて出た。ランニングシャツとタイツの身なりだった。頭には白いマフラーを巻いた。他の男たちが出てきて刀でランニングを裂いてタイツを脱がせた。パンティーとマフラーだけ残った。代わりに透明風船で身をくるんだ。この間女性は始終ほほ笑みを失わなかった。急に男たちがその女性の風船めがけて飛びかかった。全身の風船が割れた。上半身を完全に現わしたヌードの彼女だけが立っていた。室内は静かだった。観客たちは拍手することも忘れた。
ミニスカートを着るだけで皆が眺める時代だった。当時一新聞社は ”奇妙で狂ったような事を繰り返す青年作家たちがした事”と報道した。さらに ”文化的テロリスト”とも言われた。前衛芸術家チョン・カンジャの ”透明風船とヌード”と言うパフォーマンスだった。チョン・カンジャは当時 25歳。”現場に取材にきた記者が ”脱いではいけない”と引き止めても、すべて脱ぐ覚悟で舞台に立った。30年近くたった1997年彼女は朝鮮日報に寄稿した文でこんな事を書いた。”30年前の音楽感想室 「セシボン」を思えば今も胸が震える。そこは今まで熱病に浮き立った人のように暮して来た私の芸術人生を生んだ母のような所だ”
そうだ、「セシボン」は単純な音楽感想室ではなかった。ギター音楽の誕生の役目ばかりではなかった。私が憶える青年文化の最初集結所が「セシボン」だった.。金大中(キム・デジュン)前大統領、有名マンガ家、清凉里精神病院長、前国会副議長, 前将軍などが舞台に立って青年たちと討論した。詩人や文壇の巨匠たちが詩を朗唱して観客たちと対話を交わした。大学生が主役になることができる唯一の文化空間が「セシボン」だった。
「セシボン」は 1953年ソウル明洞(ミョンドン)で初めてオープンした。最初主人が誰だったかは確かではない。その後イ・フンワンが引き受けて忠武路と小公洞を経て瑞麟洞に腰を据えた.。そこで今私たちが分かっている ”セシボン時代”を開くようになる。
セシボンが大学生文化空間で位置づくようになったのは、オーナーのイ・フンワンの役目が大きかった。セシボンを運営する彼の哲学は確固だった。酒は絶対持ち込み禁止だった。酒に酔った人も、暴力を使う人も出入り禁止だった。たまに酒に酔った人が入場しようとする、乱動をしようとする人がいると、大男のイ・フンワンが ”かつぐか””お酒飲んだの?”と言えばそれで終わりになった。
多様なプログラムも積極的に進めて他の音楽鑑賞室たちを圧倒した。明洞には芯喫茶店と皇室喫茶店, シボネが, 武橋洞にはヨン喫茶店が, 光化門近くにはアカデミー音楽鑑賞室と金蘭喫茶店が, 鐘路にはデ-スェネとルネサンス, アポロなどの音楽鑑賞室がお互いに競争した時代だった。この内セシボンぐらい、多くのプログラムを保有した所はなかった。
セシボンはソン・チァンシクがデビューした舞台である ”大学生の夜”から ”星占””名詞招待席””三行詩文章大会”など多くのプログラムを進行した。”新曲合評会”も開かれた。アルバムを録音する前に観客反応を見る時間だった。既成の歌手らが、楽団やピアノ伴奏で歌を歌って評価を受けた。
フォークデュオ「ツインフォリオ」の前はセシボントリオで活動した。1967年10月に結成しメンバーが軍に入隊し、1月に解散、長続きはしなかった。PDが二人でやればといい、ソン・チャンシクと二人で「ツインフォリオ」を結成。私たちは当時20歳、楽しかった。ラジオ番組は夜の11時に始まり、終ると12時が過ぎて”通行禁止”(当時は戒厳令がひかれていた)で家へ帰れずセシボンで寝た。私たちはクリフ・リチャード、ビージーズ、ハリー・ベラフォンテや、童謡や歌謡曲も歌った。”白いハンカチ”がヒットして歌謡曲のパティ・キム、イ・ミジャ、ナム・ジンらと一緒に出演もした。1968年冬はツインフォリオの絶頂期だった。
セシボンに初めて足を踏み入れたのは1967年。多くの人に出会った。チョ・ヨンナム、イ・ジャンヒ、ヤン・ヒウン、キム・セファン、キム・ミンギ、ハン・テス、チョン・ユソン、ソ・ユソク、1960年代に始まったギター文化を一緒にわけた人々だ。その中でもソン・チャンシクは20代の一番長い時間を一緒に過ごした。1960年代1万ウォン持っていればそのお金は私のお金ではなく、私たちのお金だった。そんな心で歌も喜んで分けあった。
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セシボン文化 「ユン・ヒョンジュの”セシボン、私たちの話”より」② ドビド ”友” ヤン・ヒウ
”チング”は1970年のフォーク・デュオ「ドビド」の歌です。「ドビド」はキム・ミンギがソウル大美大に入学して、友人キム・ヨンセと作ったフォークデュオです。1960年代終盤から音楽鑑賞室(ライブハウス)「セシボン」始め、いくつもの音楽鑑賞室ができました。ドビドはYWCAの集まり場、「雨蛙」のメンバーとして歌っていました。浪人中だったヤン・ヒウンはそこでキム・ミンギと出会いました。
キム・ミンギ作”小さな池”ヤン・ヒウン
これら音楽鑑賞室から1970年代の熱いフォーク文化の息吹を感じることができます。
セシボン仲間
下左ユン・ヒョンジュ、下右ヤン・ヒウン、真ん中左ソン・チャンシク、真ん中右キム・セファン,上左イ・ジャンヒ、上中央チョ・ドンジン、上右チョ・ヨンナム
ユン・ヒョンジュ「セシボン、私たちの話」(朝鮮日報コラムより)
1968年春の事だ。いつものようにソウル音楽鑑賞室 「セシボン」に座っていた。特に人が多い一日だった。200席余りの室内に 300人近い観客がいた。 椅子が足りなくて補助椅子をいっぱい置いた。 普段の時と違いセシボン入口には ”未成年者と高高生入場不可”の立て札が付いていた。その日のプログラムは前衛芸術が予定されていた。
時間になると現代音楽家ジョン・ケージの音楽が流れた。女性一人が舞台に歩いて出た。ランニングシャツとタイツの身なりだった。頭には白いマフラーを巻いた。他の男たちが出てきて刀でランニングを裂いてタイツを脱がせた。パンティーとマフラーだけ残った。代わりに透明風船で身をくるんだ。この間女性は始終ほほ笑みを失わなかった。急に男たちがその女性の風船めがけて飛びかかった。全身の風船が割れた。上半身を完全に現わしたヌードの彼女だけが立っていた。室内は静かだった。観客たちは拍手することも忘れた。
ミニスカートを着るだけで皆が眺める時代だった。当時一新聞社は ”奇妙で狂ったような事を繰り返す青年作家たちがした事”と報道した。さらに ”文化的テロリスト”とも言われた。前衛芸術家チョン・カンジャの ”透明風船とヌード”と言うパフォーマンスだった。チョン・カンジャは当時 25歳。”現場に取材にきた記者が ”脱いではいけない”と引き止めても、すべて脱ぐ覚悟で舞台に立った。30年近くたった1997年彼女は朝鮮日報に寄稿した文でこんな事を書いた。”30年前の音楽感想室 「セシボン」を思えば今も胸が震える。そこは今まで熱病に浮き立った人のように暮して来た私の芸術人生を生んだ母のような所だ”
そうだ、「セシボン」は単純な音楽感想室ではなかった。ギター音楽の誕生の役目ばかりではなかった。私が憶える青年文化の最初集結所が「セシボン」だった.。金大中(キム・デジュン)前大統領、有名マンガ家、清凉里精神病院長、前国会副議長, 前将軍などが舞台に立って青年たちと討論した。詩人や文壇の巨匠たちが詩を朗唱して観客たちと対話を交わした。大学生が主役になることができる唯一の文化空間が「セシボン」だった。
「セシボン」は 1953年ソウル明洞(ミョンドン)で初めてオープンした。最初主人が誰だったかは確かではない。その後イ・フンワンが引き受けて忠武路と小公洞を経て瑞麟洞に腰を据えた.。そこで今私たちが分かっている ”セシボン時代”を開くようになる。
セシボンが大学生文化空間で位置づくようになったのは、オーナーのイ・フンワンの役目が大きかった。セシボンを運営する彼の哲学は確固だった。酒は絶対持ち込み禁止だった。酒に酔った人も、暴力を使う人も出入り禁止だった。たまに酒に酔った人が入場しようとする、乱動をしようとする人がいると、大男のイ・フンワンが ”かつぐか””お酒飲んだの?”と言えばそれで終わりになった。
多様なプログラムも積極的に進めて他の音楽鑑賞室たちを圧倒した。明洞には芯喫茶店と皇室喫茶店, シボネが, 武橋洞にはヨン喫茶店が, 光化門近くにはアカデミー音楽鑑賞室と金蘭喫茶店が, 鐘路にはデ-スェネとルネサンス, アポロなどの音楽鑑賞室がお互いに競争した時代だった。この内セシボンぐらい、多くのプログラムを保有した所はなかった。
セシボンはソン・チァンシクがデビューした舞台である ”大学生の夜”から ”星占””名詞招待席””三行詩文章大会”など多くのプログラムを進行した。”新曲合評会”も開かれた。アルバムを録音する前に観客反応を見る時間だった。既成の歌手らが、楽団やピアノ伴奏で歌を歌って評価を受けた。
フォークデュオ「ツインフォリオ」の前はセシボントリオで活動した。1967年10月に結成しメンバーが軍に入隊し、1月に解散、長続きはしなかった。PDが二人でやればといい、ソン・チャンシクと二人で「ツインフォリオ」を結成。私たちは当時20歳、楽しかった。ラジオ番組は夜の11時に始まり、終ると12時が過ぎて”通行禁止”(当時は戒厳令がひかれていた)で家へ帰れずセシボンで寝た。私たちはクリフ・リチャード、ビージーズ、ハリー・ベラフォンテや、童謡や歌謡曲も歌った。”白いハンカチ”がヒットして歌謡曲のパティ・キム、イ・ミジャ、ナム・ジンらと一緒に出演もした。1968年冬はツインフォリオの絶頂期だった。
セシボンに初めて足を踏み入れたのは1967年。多くの人に出会った。チョ・ヨンナム、イ・ジャンヒ、ヤン・ヒウン、キム・セファン、キム・ミンギ、ハン・テス、チョン・ユソン、ソ・ユソク、1960年代に始まったギター文化を一緒にわけた人々だ。その中でもソン・チャンシクは20代の一番長い時間を一緒に過ごした。1960年代1万ウォン持っていればそのお金は私のお金ではなく、私たちのお金だった。そんな心で歌も喜んで分けあった。
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