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A.M. CASSANDRE (A・M・カッサンドル)

2010-05-11 23:06:42 | Bibliomania
A.M. Cassandre(1901~68)─本名アドルフ・ジャン=マリー・ムーロンとしてロシアのウクライナ地方で生まれパリで死去したフランス人の画家・ポスター作家・タイポグラファー。ことに1925年から30年代半ばにかけて幾何学的で力強いポスターを多数デザインし、当時のアール・デコの潮流を代表する一人。
裕福な家庭で育ち絵画を志したカッサンドルがパリで知名度を広げるきっかけとなったのは1923年、家具店「オ・ビュシュロン」のために制作した大型ポスターである。当時のフランスは新時代へ向けての「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」が1925年開催されるなどしており、その《装飾美術=アール・デコラティフ》が後にアール・デコとして定着するのだが、画家たちにとっては印象派などの個人の見方に基づく美術の延長に広告デザインもあるという認識が一般的で、個人の絵とはまったく異なって大多数に向けて力強くアピールする方向性を宿したカッサンドルのポスターは驚くほど斬新なものだったのである。彼がポスターを手がけるまでの絵画作品は残されていないが、キュビスムの影響を受けて抽象画の方向へ向っていたとされ、建築にも興味を持つなどして、ポスター作家として当初からその特性に自覚的だったことは疑いない。



↑改良版の「オ・ビュシュロン」ポスターがパリ街頭に貼られた様子

ポスターの大きさいっぱいに配置された45度の矩形が、並べて貼られたポスターと連続して、カッサンドルの言葉によれば「一種の幾何学的リズム、統一のとれたシンフォニー」のような効果を挙げている。当時、街頭のポスターが人びとに与える影響は大きく、カッサンドルのポスターは行き交う人びとの注意を向けさせ、街を活気づけるのに十分であった。「画家のタブローというのは、ちょうど紳士が玄関から訪問するようなものだが、ポスターは強盗が斧を持って窓から闖入するようなものだ。そのくらいでないと人びとは注意をはらってはくれない」とも彼は述べている。
ずっと後年に女性SF作家ジェイムズ・ティプトリー・Jrが「接続された女」で描いた、《押し売り防止法》により広告が禁止された世界にしても、広告や媒体というものがときに併せ持つ暴力性に対し意識的なことがうかがえる。



↑食前酒「ピヴォロ」 1924



↑煙草「ゴールデン・クラブ」 1926



↑食前酒「デュボネ」 1932

消費者の気を引く快活なカッサンドルとしては、DUBO、DUBON、DUBONNETと三段階のプロセスを追って、一人の紳士が食前酒デュボネのとりこになっていくこのポスターは傑作といえよう。紳士のユーモラスな表情とともに、Du Beau(すてきな)などの言葉とかけた遊びも見逃せない。ポスター作家となってからカッサンドルは詩人ブレーズ・サンドラールや活字製造会社を経営するシャルル・ペイニョと知り合っており、Pivolo(食前酒ピヴォロ)の書体は彼が最初に手がけたタイプフェイスとなる。



↑壁面に並べて貼られたデュボネのポスター



↑旅客列車「エトワール・デュ・ノール(北極星号)」 1927



↑客船「ノルマンディー」 1935

これらの鉄道や船をあつかった作品は、名実ともにカッサンドルの評価を不動のものにした。とりわけ「ノール・エクスプレス」(いちばん上の画像、1927)で右下の一点へ向けて極端な遠近法がとられた構図は、今もなお鮮烈である。
彼のダイナミックな都市的視点は、当時あまりに潔癖だったル・コルビュジエからは批判されたが、人々への訴求力は抜群で、巷にはカッサンドル風のデザインも現れ始めた。カッサンドルは1930年、同業の友人シャルル・ルーポとアリアンス・グラフィクL.C社を設立し、多数のポスターを手がけて全盛期を迎える。



↑オランダ発明博覧会「NE NY TO」 1928



↑イギリス旅行を呼びかける「アングルテール」 1934



↑タイプフェイス「ペイニョ体」の見本ページ 1937



↑1937年から39年まで手がけた米ハーパース・バザー誌の表紙の一つ

1935年に画家バルテュスと出会ったことが、カッサンドルの後半生の不遇に大きく作用したともいわれる。かつて決別したはずの「抒情」が彼の中に兆したのだ。それは彼にとってしばしば心の傷や苦悶を意味し、大胆なポスターを描かせてきた「完璧さへの希求」とは相容れないものであった。1936年にはニューヨークで大がかりな回顧展が開かれ、雑誌ハーパース・バザーと契約して表紙を担当するものの、彼の中に表れた迷いは、そのデザインを時代の先端からだんだんと後退させていくこととなった。第二次大戦後のカッサンドルは、ほぼすべての時間を絵画制作に当てたが、最晩年にもイヴ・サン=ローランのロゴやタイプフェイス「カッサンドル」の優れた仕事を残した。そして1967年に自殺を企て、そのちょうど1年後にピストルで頭を打ち抜いて死去した。 ─(図版・経歴は1991年の『カッサンドル展』図録より)



↑イヴ・サン=ローランのロゴ 1963



↑1930年頃のカッサンドル
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