マガジンひとり(ご訪問ありがとうございます。年内に閉鎖を予定しています)

書肆マガジンひとりとしての小規模な同人活動を継続します。

ポスターのユートピア ~ ロシア構成主義のグラフィックデザイン

2009-01-13 22:58:55 | Bibliomania
永遠の輝きを得た「時代の美術」 ~ロシア構成主義とポスター~ (抄)
エレーナ・バルハトヴァ Elena Barkhatova
20世紀の初頭に台頭したロシア・アヴァンギャルドの名で知られる芸術運動の中でも、ヨーロッパのモダニズムと密接に関わった構成主義の一派による絵画、グラフィックアート、建築、映画、デザインなど諸分野での独創的発達は、1917年のロシア革命と世界初の社会主義国家建設という壮大な実験性をも反映しており、多くの到達が失敗に終わったと見なされソビエト全体主義への批判もあるとしても今なお有意義である。1910年代に未来派の出版物とともに現れたヴラディーミル・マヤコフスキーら詩人たちは、古典的な規範や言葉の優越性から解放されて、「超理性的」あるいは「超論理的」言語といった原理や、工業化の進む都市・都会の生活様式と大衆のエネルギーを称揚したのである。未来派の本の多くには美術家も参加し、文字テキストと絵画的イメージの調和という考えのもと斬新な構図、レタリング、切り紙絵やコラージュなどの工夫を凝らして手作りの少部数の本を世に送った。同じ時代には芸術のあらゆる分野でも、従来の具象美術の枠を壊すような試みが盛んとなり、造形的絵画、絵画的彫刻、空間的絵画、素材の絵画的処理など「芸術から生産へ」というスローガンも掲げられて、前時代の純粋美術よりも工学機器や日用品をも範疇とするよう広がってゆく。家具、衣服、食器、さらには庭園や鉄道―すべてに創造的意志を行き届かせることこそ、革命の理念の実現と考えられたのである。それらを実践する芸術家や職工たちがモスクワで創作工房や教育機関を開設して集まり、1920年代初頭には早くも構成主義を謳った展覧会がいくつも行われるまでになる。その最初の綱領的マニフェストとなったのがアレクセイ・ガンの著した『構成主義』で、彼は特に20世紀的な芸術手段として映画を重視し、彼も参加した映画と写真の専門誌『キノ・フォト』では一冊全体がアレクサンドル・ロトチェンコによる写真とタイポグラフィーを組み合わせたモンタージュでデザインされるなど構成主義を象徴する存在となった。
イーゼル絵画を前時代的なものとして否定するようなその動きの中で、ロトチェンコらは当然のようにポスターに対して最大の可能性を見出すようになる。雑誌『レフ(芸術左翼戦線)』を媒介として集った多くのアーティストたちは、マヤコフスキーの言葉に沿ってポスターを作り、さらにそれは本来の実用的に備えた機能としての広告の方向へも向かってゆく。マヤコフスキーとロトチェンコは1923年、ソヴィエト最大手の商業団体モスセルプロム(20の店舗と100のキオスクを抱えていた)の商品を宣伝する、文字と写真によるモンタージュ広告を発表、その一点一点に記された「モスセルプロムだけにしかありません」というキャッチコピーはロシア語では韻を踏むことができ、力強く響いた。二人はそれから広告デザイナーとしてコンビを組み、モスセルプロムのみならず多くの企業の広告宣伝を手がけるものの、この大衆消費社会を先取りするような活動にもかかわらず、実のところソビエトの消費者は広告やポスター制作の原動力たりうる競争原理よりも、構成主義の力強いデザインが象徴する国家経営企業・集団経営企業のイメージに惹かれていたのである。
こうした事情と、1924年にはレーニンも死去したことにより、人びとは早くも構成主義の中に潜む俗物趣味に気づいて激しい批判も起こってくるものの、その彼らにしても構成主義ポスターの大衆に対するあまりに直截な訴求力については認めないわけにいかなかった。その帰結として、マルクス主義的理念を称揚しつつ広告宣伝のパワーも最大限に活かす、映画ポスターが中心的かつもっとも斬新な表現を追及できる場として注目されてゆく。そこでは俗な方向に流れがちであったモンタージュの手法も激変とさえいえるほど新しい手法が試みられ、中でもエイゼンシュテイン監督による映画『戦艦ポチョムキン』や『十月』のポスターは、映画という新時代のダイナミックな表現手段そのものを象徴的に表して強い印象を刻んだ。主要なアーティストたちがそれら映画に向けたポスターをこぞって競作し、ゲオルギーとヴラディーミルのステンベルク兄弟による作品は、構成主義の理論的原則に則ったうえで、機知に富むスローガン、さまざまな視点からの珍しいアングルなどを大胆に取り入れて高い評価を獲得した。
またもっと実用的な分野では、構造主義ポスターが広告=形式主義的なものへと堕するのを防ぐためとも称されて、亡くなったレーニンの写真もしばしば登場するようになった。ロトチェンコは「スナップショットを入れ込めば、誰にもレーニンを理想化したり偽ったりすることはできない」とも語ったのだが、フォトモンタージュの構図の中ではそれらがレーニン像を偉大なるシンボルにしてしまうのは必然であり、やがて故人に代わってしだいにヨシフ・スターリンのものが現れてくる。スターリンは1920年代終わりから30年代初頭にかけて戦友たちを容赦なく排斥しながら台頭してきた存命中(当時)の指導者である。そして構成主義者たちが「時代の美術」と呼んだポスター・デザインはソビエトの政治状況の中に組み込まれ、1931年に共産党中央委員会が決議した「ポスターについて」などで厳しい監視・検閲下に置かれて美術の中でも特に共産党の厳しい規格化および思想的統制のもと、急速にその活気と創造性をしぼませていったのである。

上画像「映画“十月”」ゲオルギー・ステンベルク、ヴラディーミル・ステンベルク(1927)



「レフ(芸術左翼戦線)1号」アレクサンドル・ロトチェンコ(表紙デザイン・1923)



「社会主義国の自動車を大切にしよう。自動車は良い道路、注意深い保管、時を得た修理、熟練した運転技術を必要とする」セルゲイ・イグームノフ(1930)



「映画“熱烈な王子”」イオーシフ・ゲラシモーヴィチ(1928)



「映画“戦艦ポチョムキン”」ゲオルギー・ステンベルク、ヴラディーミル・ステンベルク(1929)



「レーニン。1万の敵それぞれを迎え撃つために我々は新たに数百万の戦士を招集する」ニコライ・アキーモフ(1925)

ロシアの夢 1917-1937
コメント