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雑誌の興亡 #8

2009-01-29 22:06:03 | Bibliomania
【71】生産者のため - 遜色ない国産品が実現
『暮しの手帖』の広告を載せない方針のため可能となった「商品テスト」は、やがて消費者やメーカーにも影響をおよぼす存在となり、同誌の部数増にも寄与した。石油ストーブの場合は昭和35年、37年、43年と3回にわたってテストが行われたが、1回目では英アラジン社のブルーフレームという製品が評価されたのみで国産品はどれもお話にならないと切り捨てられ、2回目で国産品にも、まあまあ、というものが現れ、3回目にしてアラジン社と遜色ないものが国産品でも可能になったのである。こうして消費者のためというより生産者に、いい製品を作ってもらうための有効な手段となった「商品テスト」であったが、花森安治の硬骨ぶりはそれにとどまらず、戦時中に軍曹から聞いた「兵隊は一戔五厘の葉書でいくらでも召集できる」との言葉への怒りから、読者の体験談を募集して「戦争中の暮しの記録」を特集したり、自ら「見よぼくら一戔五厘の旗」という長編詩を執筆して平和と民主主義を鼓舞し、政府や大企業を批判していこうと述べた。

【72】小用に立たなければ - 週刊誌ブーム火付け役に
ここからしばらく週刊誌のことについて。『週刊朝日』の編集長として戦後の週刊誌ブーム火つけ役となった扇谷正造は、朝日新聞の社会部記者として入社したため雑誌などの出版局へ行くことを打診されてもそのつもりはなかったのだが、編集局長と局次長から奨められてる最中にトイレへ立って、用を済ませてるまさにそのとき出版局長から「決心はつきましたか」と問われては引き受けないわけにいかなかった。扇谷が副編集長になったときの『週刊朝日』は10万部の部数で返品が2割5分、欧米の新聞の日曜版のような内容を目指して毎日新聞社の『サンデー毎日』とともに大正時代から創刊されたがあまり売れずに小説なども掲載するようになっていた。

【73】3つの助言 - 大衆誌、人間くさく、固定欄
扇谷正造が社の先輩たちに『週刊朝日』の今後のあり方について相談したときに得られた3つの役立つアドバイス。荒垣秀雄氏の推した“ニュース大衆誌”という方向性。岡一郎氏の「人間くさく作るんだネ。何から何まで人間、人間、人間だよ」との言葉。秋山安三郎氏の「毎号何から何までガラッと変えるよりも固定欄をいくつか作って、そのワクの中で目先を変えていけば」という助言。これらの言葉をまず具体化させようとした最初の企画が、フランス文学者の辰野隆(ゆたか)に自叙伝を書いてもらうことであった。(下画像:扇谷正造が編集長をしていた頃の『週刊朝日』昭和24年8月28日号)



【74】対談企画 - フランス仕込みで大当たり
この企画を授けてくれたのは、扇谷の東京帝大の先輩にあたる野沢隆一で、彼によれば「辰野博士の自叙伝はそのまま明治、大正、昭和の文化史になる」と。ところが、扇谷は辰野氏と初対面の席で機嫌をそこねてしまい、なんとかとりなしてようやく「書くのはいやだが対談なら」ということでまとまった。辰野氏が13人のゲストを招いた連載対談は読者の好評を呼び、これ以後『週刊朝日』は高田保、浦松佐美太郎、獅子文六など連載対談を売り物として部数を伸ばしてゆく。

【75】トップ記事 - 新人記者を鍛える
獅子文六がホストの対談「面白き人々」を連載中、彼が胃の手術をすることになって急遽ピンチヒッターとして起用されたのが、サイレント映画の活弁士出身で声優やラジオの仕事もこなした徳川夢声であった。やがて夢声がホストを務める「問答有用」は、吉川英治の連載小説「新・平家物語」とともに『週刊朝日』の大看板となってゆく。扇谷はこうして固定欄を固め、さらにトップ記事を強化すべく新人記者たちに中心となって取材・執筆させた「しんせいは語る―いとも悲しき生い立ちの記」「ある保守政治家―犬養健」などの鋭い記事を生み出す。

【76】共同執筆の人物論 - 段違いの機動力発揮
評論家の大宅壮一は昭和3年の論文で、フランスの作家デュマが『モンテ・クリスト伯』などの作品を弟子たちの取材した材料から執筆したので、小説は集団で執筆できると指摘し、さらに自ら翻訳や人物論の執筆を集団で行ったのである。扇谷は学生時代に大宅の仕事を手伝ったことがあり、その体験から、著者個人の情熱よりも集団の機動力を活かした“調べた人物評論”に記事としての客観性を感じていくつかの人物論トップ記事を複数の記者に共同執筆させた。それらのやり方はやがて『週刊朝日』の部数を150万部にまで達させ、彼は週刊誌ブームの立役者となる。

【77】集金のとき - 新聞代なら払うのだが
扇谷は『週刊朝日』の副編集長から編集長となるまでの間にいったん「夕刊朝日新聞」の学芸欄を担当することになったが、その当時、『改造』編集長の小野田政と酒に酔って喧嘩となり小野田の耳を食いちぎるという不祥事を起こした。しかし扇谷は戒告処分となっただけで社にはとどまることができ、それを契機に彼は『週刊朝日』に戻って部下を面罵することはあっても手を出すことはしなくなり仕事にいっそう精を出した。彼は、ただ編集のことを考えるのでなく読者層を開拓して雑誌を営業的に成り立たせることを常に意識したが、これは当時の同誌の部数の半数ほどは新聞専売店を通じて出ており、月末の集金の際に新聞代に比べて雑誌代は払うことをもったいながるようなそぶりがしばしば見られたことも影響したようである。

【78】平均的読者像 - 対象を割り出す数式
扇谷正造は大阪の販売店主から、こう言われたことがあった。「扇谷さん、あなたは家を訪問するとき玄関から入るでしょうが、私どもは勝手口からです。最初に新聞代をいただくと奥さんがガマグチをパチンとしめる。週刊朝日の代金もというと、奥さんが不満そうにパッと口金をあける。どうか、パチンのあとのパッが気持ちよくあくような雑誌をつくって下さい」。こうしたことから彼は「平均的読者像」として子どものいる主婦を意識し、『週刊朝日』を“男性用婦人雑誌”として編集することにしたのである。(下画像:扇谷正造氏を追悼する草柳大蔵氏の文章~『週刊朝日』平成4年4月24日号)



【79】週刊誌源平合戦 - 二枚看板と一枚看板の差
扇谷はそれまで前例のない週刊誌の「型」を創りだして、その部数を伸ばすとともに出版界に市民権を得させ、追随して『週刊サンケイ』『週刊読売』『週刊東京』といった新聞社系の週刊誌を登場させるほどであった。創刊以来のライバル『サンデー毎日』では源氏鶏太の「三等重役」という連載小説が人気を博したものの、『週刊朝日』には「新・平家物語」の他にも「徳川」(夢声)という強い味方が控えていたので、週刊誌の“源平合戦”は朝日ややリードの情勢。昭和33年新年号で150万部にも達するその影響力は、同年3月16日号に「隠れたベストセラー『人間の条件』」というトップ記事が出たため、全6部で19万部の売り上げにとどまっていた同小説を同年末までに総部数240万部の大ベストセラーにするほどであった。

【80】創刊の意図 - 大衆雑誌で経営安定化
やがて新聞社系の週刊誌を追って台頭してきたのが出版社系の週刊誌で、その先鞭をつけたのが文芸書のほか月刊の小説雑誌くらいしか手がけていなかった新潮社から昭和31年に創刊された『週刊新潮』である。同誌の創刊時の編集長を務めたのは後の社長・佐藤亮一で、彼は小学生のころ祖父で初代社長の佐藤義亮が大衆雑誌『日の出』を失敗させて返品に次ぐ返品、大赤字となったことを覚えており、そうした失敗だけはしたくなかったが、出版社の経営を安定させ大をなすためにはどうしてもよく売れる大衆雑誌を持たなければならない、との念願は共通していたのである。

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