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雑誌の興亡 #7

2009-01-04 23:22:35 | Bibliomania
【61】平凡アワー - ラジオと連動、立体編集
『平凡』がメディアミックスによって、まったく斬新な方法で雑誌を展開したことは、阪本博志『「平凡」の時代 1950年代の大衆娯楽雑誌と若者たち』でも論じられ、さらにこの本では『平凡アワー』というラジオ番組の果たした画期的な役割が指摘されている。そこでは『平凡』のグラビア頁と連動した流行歌や映画があつかわれ、印刷媒体を立体的にふくらませてゆくコミュニケーションが試みられていた。

【62】類似誌 - 表紙から内容まで追随
大判化によって“見る雑誌”となった『平凡』の100万部を超えるような人気に便乗して、『東京』(東京出版)、『明星』(集英社)、『星座』(三幸社)といった、タイトルロゴやレイアウトまで『平凡』の影響下にある類似雑誌が続々と現れた。しかしこのうち継続されたのは『明星』のみであり、また『平凡』が範とした『ロマンス』も版元の分裂や倒産を経て消えていった。

【63】「暮しの手帖」 - 創刊時からの終身編集長
『平凡』の凡人社がマガジンハウスとなってゆくまでの歴史はひとまず措き、戦後に創刊された中でも今も着実に発行されている『暮しの手帖』を採りあげたい。同誌の昭和23年9月の創刊から、自身が53年1月に亡くなるまで30年間ずっと編集長を務めた花森安治という人。彼は『平凡』の岩堀喜之助と同じように戦時中は大政翼賛会に勤めており、戦時下に苦労して青春を送ったような人びとにも喜んで読んでもらえて商売にもなるような雑誌を出したいと考えていた暮しの手帖社社長の大橋鎭子(しずこ)と戦後になって出会う。(下画像:『暮しの手帖』編集長を創刊以来30年にわたって務めた花森安治)



【64】丸ごと花森色に - 新時代の装いを提案
大政翼賛会が解散して失職した花森が、たまに旧制高校で同窓だった田所太郎の編集する『日本読書新聞』に顔を出してイラストを描いていた、そこへ大橋が雑誌の創刊について相談に訪れて花森を紹介されることになった。やがて二人は意気投合し、特に大橋の考えていた、深刻な物資不足のおり女性たちに手持ちの洋服・和服を再利用してもらうようなスタイルブックを作るのに、東京大学で服飾関係を中心とした美学を学んだ花森はうってつけであった。

【65】事務所は銀座に - 予約読者の長い行列
「ファッションの仕事をやるなら事務所は銀座だ」と主張した花森のため、大橋がなんとか物件を見つけると、彼は編集長として獅子奮迅の働きで、表紙の絵もスタイル画も文章、割付、校正まで自ら手がけて『スタイルブック』を昭和21年5月末に発行した。やはり彼の提案で《たとへ一枚の新しい生地がなくても、もつとあなたは美しくなれる/スタイルブック/定価十二円送料五〇銭/少ししか作れません/前金予約で確保下さい》との小さな新聞広告が出され、事務所のあるビルの前には予約読者の長い行列ができ、郵便為替も連日届いた。

【66】衣食住の総合誌 - 「美しさ」へのこだわり
創刊号は成功した『スタイルブック』もやがて類似誌が出るなどして売れゆきが落ち、翌年に出した『働くひとのスタイルブック』もさっぱり売れなかったので、花森たちは衣食住全般をあつかう『美しい暮しの手帖』の創刊を企画する。B5判96頁、定価110円で創刊された同誌の表紙の裏側にある《これは あなたの手帖です/いろいろのことが ここには書きつけてある》との言葉に始まるメッセージは、今でも表紙裏に掲載されている。(下画像:『暮しの手帖』創刊号)



【67】リュックの販売旅行 - 一駅ずつ降りて本屋へ
しかし花森と大橋は、取次会社が「誌名が暗い」だの「婦人雑誌は女の顔がなければだめです」などと言って発行1万部のうち5千部しか引き受けてくれないという厳しい現実に直面する。しかたなく編集室のみなはリュックサックに雑誌をぎっしり詰めて各地の本屋へ雑誌を置いてもらえるよう行商に出ることになった。

【68】広告無掲載 - 「商品テスト」が可能に
そんなに苦労してまで『暮しの手帖』を売らねばならなかったのは、通常の雑誌が購読料収入以上に重視する広告収入、それが広告を載せない方針のためあてにできなかったからである。花森は編集者が苦労して編集したレイアウトに広告がズカズカと踏み込んでくることに耐えられなかったし、広告を載せることでスポンサーの圧力を受けることも排したかった。やがて「広告無掲載」でも雑誌を成り立たせる、売れる企画も5号目にして実現することになる。

【69】やりくりの記 - 皇室発の「特ダネ」
すでに「美しい」が取れて『暮しの手帖』となった5号の本文巻頭に掲載された「やりくりの記」という随筆。その筆者名が東久邇成子(ひがしくにしげこ)となっていた、彼女こそ昭和天皇の第一皇女から東久邇家に嫁いだ照宮さまであり、皇族の彼女に戦後の乏しい配給生活を執筆してもらうという画期的な企画を大橋が再三にわたって東久邇家を訪れて実現させたのだった。

【70】商品テスト - 順調に部数が伸びる
皇室出身者が筆を執って庶民と変わらぬやりくり生活を記したこの随筆は評判を呼び、5号は完売となった。それ以降も部数は数万部から30万部ほどへと順調に伸びてゆき、中でもそれに寄与した企画が昭和29年の26号から始まった「日用品をテストした報告」で、醤油をテストした回では推奨された醤油に対抗すべく他の醤油が10円値下げすることまで起こった。
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