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中産階級ハーレム⑭ — マラソン

2020-12-13 18:52:21 | 中産階級ハーレム
先週金曜だったか5chでコロナ情報を漁っていると

群馬県46(おそらく歴代2位
埼玉県185 (おそらく歴代2位
京都府57

との書き込みがあり、歴代2位という言葉に思わず駅伝・マラソンを熱心にみていた頃を思い出してしまった。「区間新記録」なんてのも他では使われないが一部の人を熱くさせますよね。スポーツに限らず人が競うことにはその種の記号が溢れている。

私が高卒で就職する1983年、2月に東京マラソンで瀬古利彦が2年ぶりのマラソンを走り日本初の2時間8分台で優勝、宗兄弟やこの後おなじみになるイカンガーも出ていて非常に盛り上がり、確か38%とかでマラソン駅伝が高視聴率を叩き出す先鞭を付け、私も興奮して見ていた。86年ころにはますます熱中して陸上の専門誌を買ったり、架空の選手たちを作って箱根駅伝からやがてはユニバーシアードに出て世界陸上・オリンピックへ~とかね。自分は走りもしないのに、高卒だし。

ワープロ機器が出始めて架空の記録リストまで作ってたわ。誰にも見せない。プロ野球や大相撲でも似たことをやっていたが、それは学校時代に始まっており、そうしたことをやる子どもは少なくないでしょうが、陸上・マラソンについては就職してから始まって熱中していたというのが黒歴史である。女子マラソン解説など広く活躍する増田明美さんは私より学年1コ上で、成田高校時代から「女瀬古」の異名をとり、川崎製鉄千葉が陸上部を創設して監督の滝田氏も一緒にってことで彼女を獲得。しかし紆余曲折あり現役のマラソン選手としては大きく花開くことはなかった。80~90年代のマラソン駅伝隆盛は、部活で集団の中で揉まれ、心身を鍛えたり先輩後輩など人脈を作って一人前の社会人になる、昭和の高度成長~バブル経済と表裏一体なのであった。ゆえにいま失われた30年、いやもっと、さまざまなスポーツ団体や大学の関係者の不祥事・犯罪が噴出し、さらにコロナも重なってオリンピックさえ忌まわしいものに変貌してしまったのでしょう—。




「いまはなんでも科学、科学と言いよるがね、でもマラソンは科学じゃない。子供時代、ザトペックもアベベもみんな苦労した。ひもじい思いをしている。いいランナー、貧乏人じゃないと駄目よ」
孫基禎は韓国が日本に併合された2年後の1912年、新義州(現北朝鮮)の貧しい家に生まれた。十代で働きながら走ることに打ち込み、専門的なトレーニングなしで朝鮮の大会上位入賞し、20歳で故郷の先輩などの支援を得て体育の名門、京城の養正高等普通学校に入学。4年生だった時にマラソン2時間26分42秒の世界記録を出す。翌年のベルリン五輪には選考の結果、孫ら朝鮮の2人と日本の2人が派遣され、現地でレース本番の18日前に突如30キロを走って3人を選ぶことになり、孫と同輩の南昇竜が1・2位となり五輪本番でも1・3位。



1954(昭和29)年の箱根駅伝復路、早稲田大のアンカー昼田哲士はトップ快走していたが芝大門から新橋にかけみるみるペースダウン、倒れそうになって中村清監督(後の瀬古・新宅・ワキウリらの指導者)がサイドカーを降りて「都の西北」を歌いながら伴走、どうにかテープを切ってそのまま失神。



円谷のことを思うとき、君原には決まってふたつの日の顔が浮かぶのだった。
ひとつは、東京オリンピックのレース直後のことである。控え室で、疲労困憊して簡易ベッドに横になると、側にいた円谷と眼が合った。ひどく悲しい目つきをしていた。一瞬、君原は円谷がレースを棄権したのかと思ったほどである。のち、銅メダルを獲得したものの、トラックに入ってからヒートリーに追い抜かれたことを耳にする。あの悲しい眼は、追い抜かれた無念の目線であったのだろうか…。
もうひとつは、円谷が自殺する半年前のこと。君原が円谷とともに走った最後のレース、1967(昭和42)年5月、広島で開かれた全日本実業団選手権でのことである。東京から2年近く、円谷は右足アキレス腱の故障、さらに腰のヘルニアに悩まされていた。ともに20000mを走ったが、この大会でも円谷は不調であった。会場の控え室で、君原の顔を見ると思いつめた表情でこう言った。
「メキシコでもう一度日の丸を揚げることが国民に対する約束です」 —(後藤正治/マラソンランナー/文春新書2003)



1965年6月、英ポリテクニック・マラソンで重松森雄(福岡大)が2時間12分00秒の世界記録。4月のボストン・マラソンでも優勝。



1978年の福岡国際マラソン、この年の2月に別大マラソンで世界歴代2位の好記録を出し(ヘッダー画像右上)好調の宗茂(旭化成)が飛ばしたが36キロで瀬古利彦(早大)がかわし2時間10分21秒でマラソン初優勝。インターハイ中距離2冠⇒箱根駅伝と王道を歩む瀬古は翌年にエスビー食品に就職、マラソン16戦10勝と勝負強さを誇ったが代表に決まっていた80年モスクワ五輪に日本が不参加となり、84年と88年の五輪代表にも選ばれたものの調整に失敗し14位と9位。



1980年代後半から90年代前半にかけ世界的に記録が停滞し、日本・韓国・中国のアジア勢が台頭。【左】92年バルセロナ五輪・男子マラソンでは韓国の黄永祚(中央)が日本の森下広一(旭化成)を振り切り優勝。【右】93年シュツットガルト世界陸上では中国の馬俊仁コーチ率いる「馬軍団(現地では馬家軍)」が中長距離のトラック種目を席巻。画像は女子3000mで1-3位独占した曲雲霞(右)ら。この馬コーチは競技経験のない退役軍人で後にドーピングを選手に強要していたことが発覚。



2003年のパリ世界陸上、女子マラソンで本命視されたケニアのンデレバ(658)は前半慎重策をとり、日本の野口みずき(グローバリー)が前に出る場面がみられた。33キロ過ぎからンデレバが追いすがる野口を徐々に引き離し優勝。千葉真子と坂本直子も3・4位に。これで翌年のアテネ五輪代表に決まった野口は本番で25キロから思い切ったペースアップ、逆にンデレバを振り切り、2000年シドニー五輪の高橋尚子(積水化学)に続き日本勢2連覇。



【左】2013年モスクワ世界陸上・女子マラソンに2時間27分45秒で3位となった福士加代子(ワコール)【右】同じく女子10000mで先頭を引っ張り30分56秒70の自己ベストで5位の新谷仁美(ユニバーサルエンターテインメント)。トラックからマラソンへ息の長い活躍、底抜けに明るい福士ちゃんと「国民の皆さんが反対するのであれば、五輪は開催する必要はないと思う」のような奔放な発言で知られる新谷。「お金で命を買われている身。どんな手段を取っても結果を出さないといけない」とも発言しておりいったん引退したが2018年に復帰。


1999年冬~2001年春の長期入院中、就寝が早いのでコサキンが聞けないこと、デイルームのテレビは古株のおばさんたちが占拠していてマラソンが見られないことがつらかったな。会社を辞めたのが2003年。だんだんマラソン駅伝、スポーツ全般から心が離れ、2012年のロンドン五輪あたりを最後にほぼ見なくなった。会社員時代の一人遊びからブログ・ピクシブ・コミケ等を介し同人誌作りに。親を見殺しにせざるをえなかったが会社に属さずお金を稼げるようになった自分を褒めたい(ありもり)。
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