マガジンひとり

自分なりの記録

昭和疾風怒濤 #2 - 美空ひばり

2016-06-05 19:51:25 | メディア・芸能
竹中労はひばりと、ひばりの歌とを愛している。ゆえに、献身と奉仕をもっぱらにして然るべきなのである。それが、喜美枝さん(ひばりの母)の唯一絶対の論理であった。抵抗できぬのだ。逃げ出すほかにすべはないのだ! 「美空ひばりは神様である」と私はそのころ書いたことだが、「山口百恵は菩薩である」(平岡正明)とはニュアンスを異にする。神様とは敬して遠ざかる存在であって、日常ふだんにつきあっていたのでは、こちらがひばり教の神主、司祭となり果ててしまう、まあそれでみいりのよい連中もいた。私のようなヤンチャに幇間は勤まらない、会うは別れのはじめであった。

鮎を馳走するという、七匹も八匹も九匹も十匹も塩焼きをウントコショと運ばせて、どんどん食べちまう! 秋ともなれば松茸であるが、これが鍋に満ち溢れている。グラグラ煮えておる。

「過分というものじゃないですか」と心中つぶやいとるけど、口に出しては失礼というものだ。箸をつけぬ前に腹はふくれて、何やら哀しくなってしまう。ああ、何という趣味・嗜好の落差であることよ!

…誤解のないように断っておくが、ヤユしているのではない。おのれが実に度し難いインテリ、"教養"に毒された俗物であるということを、ひばり母子に私は教えられたのである。あのキンキラキン、豪華けんらんの舞台衣装を悪趣味と嗤う人は、美空ひばりを理解できぬのだ。庶民の願望・ユートピアの化身として、ひばりは威風堂々と存在する。たとえば天安門のごとく朱と金に、極楽鳥のごとく七彩に、釈尊のごとく日月をしたがえ輝きわたり炎え立ち、しかもその眸には涙を湛えていなくてはならぬのである。

かくも豪奢にそしてかくも哀切に、ひばり街の子と共にいませばなり。鮎・松茸なんざ驚愕に値しないのだ。勿体ない一匹ぐらいは宵越しの刺身でと、いじましいことを考えるほうが心根卑しいのである。美味しいものはたらふく食え、悲しい時には誰はばからずに哭け、しんじつ憎い奴は叩っ斬れ! それが庶民の心意気…、"浪曲原理"なのである。 ―(竹中労 『完本・美空ひばり』 ちくま文庫・2005年、原著1965年)





引用した部分、美空ひばりとその母の贅沢三昧は、逆に小林旭との結婚生活においては、旭が人前でベタベタしたり、豪華な新居を建てたことを幸せに感じられず、芸能界では格下の旭が暴君のように振る舞うことにも耐えかね、じきに別居~離婚、元の一卵性母子のサヤに戻ってしまう、といったように描かれる。

常にひばりを庶民の子、正義であり偶像であるとせんがため、情に流され支離滅裂におちいっている部分も少なくないが、独特の美文調で、素材の持つ熱量の高さは生々しく伝わる。全く独特な評伝の傑作といえよう。

ひばりは1937(昭和12)年生まれ。終戦時は8才であり、彼女の歌は戦後のわが国のたくましい復興ぶりを象徴するものであった。父の増吉氏は復員兵で、焼け野原の横浜市にあって、娯楽を自らの手で作り出そうと素人楽団を編成、この頃から天才的な歌いぶりを示したひばりをボーカルに立て、喝采を博す。

が、豆歌手として世に出るも、NHKラジオの『のど自慢』では、失格の鐘一つすら鳴らない。「子どもが大人の歌を歌っても審査の対象にはなりえない。ゲテモノは困りますな」と拒絶される。ひばりの芸の下地を培った増吉氏も、歌はあくまで道楽と考え、プロ歌手を目指すことに反対だったが、ひばりは早くも10才にして母の喜美枝さんと二人三脚、歌手の道を歩む決意を固める。

小学校へもろくに通えない地方巡業の日々。天才歌手の評判は全国に広がり、映画出演に続き11才でレコード・デビュー。「悲しき口笛」「東京キッド」とヒットを連発。1952年の「リンゴ追分」は当時異例の70万枚を売る大ヒット。ボードビリアンの川田晴久や山口組組長の田岡一雄はひばりの才能を認め、支援を惜しまなかったが、文化人などからのゲテモノよばわりは続き、彼女の栄光を快く思わない者は少なくなかった。

これを象徴する事件が1957年、浅草国際劇場で起こる。正月公演のフィナーレ、ひばりが舞台に出ようとしたその時、一人の少女が駆け寄って、液体をひばりに浴びせた。液体は塩酸で、ひばりは焼け付くような痛みで失神、救急搬送されることに。犯人は東北の田舎から上京してお手伝いさんをしていた少女で、ひばりの熱烈なファンだったが、「みじめな自分にひきくらべ、みなにチヤホヤされているひばりちゃんが憎くてたまらなくなり、焼けただれてみにくい顔になれば舞台にも映画にも出られなくなるだろう」と犯行に及んだのだった。




↑お互いにとって不幸だった、小林旭との短い結婚生活(1962-64)。田岡組長がとり持ち、喜美枝さんが別れさせたとも伝えられる


ジャマイカの音楽スカのドン・ドラモンドが「リンゴ追分」をカバーしている。軽快なスカのインスト曲だ。「リンゴ追分」が名曲であることに疑問の余地はない。が、私は美空ひばりの曲として最上だとは思わない。

方言交じりのセリフを語る部分が、いかにも演じている感をぬぐえないからだ。虚構を演じて、お客を喜ばせる。そも歌謡曲はそうした音楽だが、私が思うに(ひばりのような)オペラ的な歌の上手さと、ロック的な歌の上手さは価値観が対極にある。黒人音楽をルーツとするロックの尊厳は、他人からどう思われようと、自分を貫くことから生ずる。

この見地から、ひばりの最もひばりらしい曲は「越後獅子の唄」か「お祭りマンボ」だと思う。歌唱も絶品だ。初期の美空ひばりは良い曲が多い。私は彼女のベスト盤を探して、とんでもない盤をレンタルしてしまったことがある。「悲しい酒」「柔」など、私の嫌う60年代の、もったいぶった尊大な歌い方で、初期の曲を録り直した盤。

彼女はプロ野球の金田正一投手と対談する企画で、金田氏の自信と誇りを目の当りにし、以降「歌の女王」「日本一の歌い手」の称号を自ら進んで担おうと決意したのだという。その重みに耐え、うち勝とうと。




↑晩年の美空ひばりがステージで用いた衣装


少女歌手として味わった「歌える喜び」と、後年、歌の女王としての重責。この落差を埋めるための酒や母親への依存、孤独、強がりといったものが、彼女に堂々たる音楽の王道を歩ませなかった。弟が山口組系の暴力団幹部となったため、NHKをはじめマスコミを敵に回すことも避けられなかった。

大腿骨骨頭壊死の大病から、1988年4月の東京ドーム「不死鳥」コンサートで39曲を歌い切り、奇跡の復活を遂げるも、再び病状悪化。翌1989年6月、昭和から平成へ移り変わるのを見届けるように、不帰の人となる。52才の若さであった。そして2年後には、同じ肝臓を病みながら活動していた竹中労氏も後を追ったのである―



完本 美空ひばり (ちくま文庫)
竹中 労
筑摩書房
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