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自分なりの記録

日本幻景 #18 - 西洋人の描いた日本地図

2016-04-03 20:15:20 | Bibliomania
■オルテリウス 東インド図 1570年

日本は1459年初めて西洋の手書きの地図に現われ(フラ・マウロの世界地図)、1506年以降は印刷された地図にも見られる。16世紀半ばにヨーロッパ人が初めて日本に来るまで、日本についてはマルコ・ポーロの記述に頼っていた。さまざまな形が想像で描かれた。

日本と最初の遭遇の後、具体的な地理情報はポルトガル船員の手書きポルトラノ海図に形をとって現われる。しかし、彼らはこうした知識を秘密にしておこうとしたので、情報が印刷された地図になるまでの歩みは緩慢であった




■同上 部分




■テヴェ 日本図 木版 1590年頃

1582年に宣教師ヴァリニヤーノは、洗礼を受けたキリスト教徒として日本のイエズス会の布教活動資金を集める役割を負った4人の若い日本人の使節をローマに送った(天正遣欧使節)。この訪欧はヨーロッパが日本と取り組む機運を高めることとなり、日本における布教や、日本そのものに関する数多くの書物が刊行された。また具体的な地理情報に基づいた最初の単独の日本地図も出版された




■コロネリ 日本および朝鮮図(マルティーニ/モレイラ型) 1692年

1595年にオルテリウスにより発行された宣教師ルイス・テイセラの日本地図によって、西洋の印刷された日本地図が300年をかけて地理の実態に近似して行く過程が始まった。しかしこれは直線的な経過をたどったわけではなかった。別の新しい型が既に出現していても、まだ模写されたり、変形されたりしながら後の地図に継承されて行く型もあった。そこで異なった型の系列が何百年も並行して存在する。相互に影響しあうことにより、また新しい型が生まれる。より新しい型が以前の型に比べて常に進歩したものであるとは限らない




■モンタヌス 出島鳥瞰図 1669年

「キリスト教の世紀」には西洋の宣教師や商人らは日本でかなり自由に動き廻ることができた。後の鎖国の時代になると、宣教師の姿はなくなり、オランダの商人は長崎の出島に閉じ込められた。唯一の旅行の機会は規則的に行われた江戸参府であった。それに対応した路程図が幾つかある。出発地もしくは到着地である長崎と江戸は市街図の中でも特別な位置を占めている




■ラ・ペルーズ 蝦夷、カムチャッカおよび千島列島図 1797年

西洋が初めて日本に触れたのは琉球諸島を通してであったが、この地方に関する知識は19世紀に至るまで不確かなもので、シーボルトでさえ最初の来日時、その地方に関して信頼のおける地図のないことを訝しんだほどであった。

本州の北にある島々は、日本においても18世紀末まであまり知られていなかった。ヨーロッパ、特にロシアの関心が強まったのもこの時期であった




■シーボルト 蝦夷図(手書き) 1850年頃

18世紀半ば以降には、長崎へ来るだけでなく、日本沿岸を航行するヨーロッパの船が多くなった。日本の地図がヨーロッパに届くこともあった。しかし、日本の地理に関する知識は19世紀初めまで相変わらず不正確で、前世紀の地図の型が繰り返して用いられることが多かった、これについては特にケンペルの影響が感じられる。

シーボルトは出島のオランダ南館の医師として、1823年に日本へやって来た。しかし、最も重要な課題は日本に関するあらゆる領域の知識を組織的に収集することであった。彼が帰国後出版した地図によって、19世紀に入ってからもヨーロッパの地図学に残っていた神話や誤謬がようやく最終的に除去され、西洋における日本の地理的形状には、近代的な基盤が与えられた




■世界地図屏風のうちレバント戦闘図 江戸時代初期 重要文化財

キリスト教の伝来にその幕明けが象徴されるように、桃山は広く西洋世界へと開かれた時代であった。遠くヨーロッパからもたらされた「世界図」は、未だ見ぬ世界への憧憬と知的好奇心を刺激したに違いない。ここに、東洋に独自な絵画形式である「屏風」と世界地図が出会い、類ない「世界地図屏風」が生まれることになった。それぞれの作品には、当時最新の地理学・民族学・博物学・天文学などの知識が集成され、「世界」についての認識と理解を「屏風」という画面のなかに定着させたといえよう。 ―(図版と解説は企画展『西洋人の描いた日本地図 ジパングからシーボルトまで』図録・1993より)
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