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無意識日記
宇多田光 word:i_
 



やれやれ、梶さんはインフレの円盤の発売に関して一貫して「予定はありません。」とテンプレ通りの返答をしてくれてるではないか。これは、「発売する」とも言ってないし、「発売しない」とも言っていないのだから、勝手に「出ないんだ」と解釈しないように。例えば100万人発売嘆願署名が集まったら発売するに決まってるだろうて。今後の推移次第だけど、取り敢えずマーケティングの初期戦略上は発売は最善手ではなかったという事だ。

今日もインフレに触れてにんまりの1日。正直気持ち悪い。(自分が)


という訳でさっさとFL15DxEDの話を済ませてしまおう。時事ネタだから優先。仕方ない。

昨日アマゾンにアクセスしたら「入荷次第メールするサービス」ってのに切り替わっていた。今後の増産を見込んだ措置なのか? いやいや、恐らく、Amazonの取り分が倍になった分、キャンセル待ち態勢が本格化したのだろう。

この、入荷メールサービスは、ロングテールの(即ち今それを買いたがっている人間が自分位しか居ない)商品には有効だろうが、こんな購入希望が殺到しそうな商品については機能するのだろうか? もし登録者が数百人単位なら、その数百人に対して入荷メールを一斉送信するのか? それをみてアクセスしたほぼ全員が買えない、という事態を数十回繰り返させるのだろうか。或いは登録者の中から無作為抽出若しくは先着順で1人或いは数人にメールを送るのだろうか。いつもなら便利なサービスだろうが、こういったプレミア商品に対しては疑問が残る。まぁ、なんとかして上手くやるんだろうな。アマゾンとて馬鹿じゃなかろ。

寧ろやはり、逐一該当ページにアクセスして情報を更新し続ける事が、原始的だがいちばん確率が高い。地道に待つ事が肝要だ。

私は試した事がないが、理屈でいえば最もキャンセル分が多発するタイミングは「発売日から6日か7日後の24時」になる。カードやポイントで支払いを済ませている人は関係ないが、ATMやコンビニで支払いをする人には、商品が準備出来次第「払込番号通知」が届いて、そのタイミングから数日後(5日だっけ7日だっけ10日だっけ…忘れた)までに払い込まないとキャンセルになる旨が知らされる。この時、何らかの事情によって支払いをしなかった人の分が期限の時刻で一斉に発生する筈である…理屈の上では。でもこれ、私試してみた事ないんだよね。だから絵空事かもしれない。話半分できいといて。

なお、3日経った。これ位になると人々は随分と冷静になれる。考えてみよう。アナタにとって、FL15DxEDは、そんな金額を払ってまでどうしても手に入れたいものなのか? 未発表音源なんて、発売されてしまえばネットにすぐに放流されるだろう。それを聴いてからでも遅くはないじゃん。LUV LIVEは貴重だが、こちらは通常盤で観ればよい。ただし、通常盤と言ってもFirst Loveアルバムの特殊再発盤なのは変わりないのだから、発売後即廃盤(即ち初回生産分のみ)という可能性も、低いながら、なくはない。あんまり油断しない方がいいかもしれない。っつっても、このテの作品は、田舎のCDショップに入荷されて誰も買わずに二年も三年も…いい加減返品すりゃいいのに…返品契約が特殊なのかも…とかいう事に、なりがちなんだけどねー。

うーん、こんな感じで、FL15DxEDの数字の話はいいかな。いい加減内容の話に移らないとバランスが悪そうだ。本当に興味あるのはそっちだしな。という訳で、次回はその辺りの話から。(←フラグ)

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FL15DxEDは中古盤を探せばよいのではないかという話。勿論新品でなきゃヤだという人には関係ないんですが。

このような限定生産のコレクターズ・アイテムの中古盤市場がどうなるかは、その生産数量と、その内容に大きく左右される。

数量の方はそんなに説明は要らないだろう。そのアーティストのコアなファンが居て、何があっても手放さない、という人にしか行き渡らなかった場合、中古盤は殆ど出回らない。その人数を上回る生産数になってきたらそこからぐぐぐんと中古盤が増える。買ってみて満足できなかった、か或いは利用して満足し不要になったか、理由は様々だろうけれど。今回の場合、私個人の見立てでいくならば、5000枚限定なら中古盤絶望的、あっても定価以上の価格になる。恐らく基底ラインは8000程度だろうと踏んでいるので、現時点での10000枚プレスというのは、なかなかまだまだ数量は少ないものの、中古盤が出回る望みが出てくる枚数なのではと思われる。価格は殆ど下がらないだろうけれど。

で、そう、数量だけではなく内容に左右されるのだ。例えば今回の場合、未発表音源さえ手に入ればいいという層は買ってCDコピーしたらすぐさま売り払うだろう。或いは、色々ついていても結局はFirst Love、お馴染みのアルバムだ。15000円はやっぱり高かったなとなる。売り払う理由は結局内容如何になる。世の中転売屋さんばかりではない。

もし仮に、Luv Liveがデラックスエディションにしか収録されておらず、しかも無駄にBlurayでコピープロテクトが掛かっている場合なんかも、中古盤を出回らせないひとつの要因となるだろう。

そんな感じなので、中古盤の出回る確率は、これから発表される未発表音源の質と量に幾らか左右されるだろう。もし"未発表曲"で、かつ複数曲収録されていれば満足度は上がり手放す確率は下がる。ライブ音源、デモ音源、リミックスなどになると、少し微妙になってくるかな。歴史的なアルバムなので歴史的な価値も高いし、ここらへんは本当に内容によるとしかいえない。

兎に角、私が推定した8000~10000人のコアなファンの中にも、音源さえコピー出来ればいい、と考えるファンは、少ないながらも一定数居る筈であるし、今後仮に更なる増産があった場合はその割合は、増える事はあっても減る事はない。また、希少性が高ければ買取価格が上昇し、売買のモチベーションも上がるだろう。

このように、限定生産が瞬時に無くなったからといって、中古盤が全く出回らないという事態にはならない。生産数量と内容如何によっては、かなりの数が出回る筈だ。中古盤については、オフィシャルが購入を勧める事は絶対にない(何しろ直接には一円も儲からないのだから)が、新品が転売によって価格高騰するよりは、マシなのではないか…いや、わからんな。

兎に角今は慌てない事。じっとしていれば、かなり高い確率で購入機会がやってくる。適正価格で。それを静かに待つ事である。

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あーもー、1日の記憶の大半がインフレで占められている。この勢いだと1ヶ月連続で(即ち40回約8万字)インフレエントリーを上げられてしまいそうだ。しかし、今のテンションだと未だ購入していない人たちに対して思い切り不快な発言を連発してしまいそうなので暫く自重しよう。抑えがかかるまでもうちょっとかかる。

じゃあ、実効的なコメントを。今回の配信販売はSD画質、映像約1.5Mbps、音声約128kbpsの、一昔前でいえばMpeg1程度のビットレートである。それもあってか、エンコーディングのアプローチが、ipadやipod,iphoneで視聴するのに最適化されているようだ。PCで視聴して画質音質が芳しくなかったという人で上記のデバイスを持っている人はPCから転送するなりしてそちらで観てみるとよい。私の見立てでは、ipad miniで観ながらWi-FiかBluetoothでスピーカーに音声を飛ばしてリラックスしながら鑑賞するのがインフレをいちばん楽しめそうな気がする。私の今の勢いだとそれをする為だけにipad miniを買ってしまいそうだ。いかんいかん、自重々々。いやしかし、本当に素晴らしいぞ Utada In The Flesh 2010は。こっちが15000円なんじゃないの? 2500円なのか。多分25回位は観るor聴くと思うので二時間近く最高に楽しめて一回あたり100円以下。リーズナブルこの
上無い。10倍の値段でも迷わず買っていただろう…

…いかんいかんいかん、やっぱりすぐにインフレの話になってしまう。今は本当に15000円の価格がついている方の話を優先させよう。今日の夕方、FL15DxEDの増産が決まった。5000追加して計10000。どうやら2時間ほどでオンライン販売分は売り切れてしまったようだ。ふむ。

あ、先にエクスキューズを。先日「この商品は梶さん主導か」みたいな事を書いたけど、別に沖田さんの事を忘れていた訳ではない。彼がディレクターなので、商品の制作は彼が責任者だ。ただ、限定生産モノに関してはマーケティングからのフィードバックが非常に重要になる。生産量と価格のバランスが、商品の内容を左右してしまうからだ。こんな特典をつけてこの値段ならこれ位の人たちが買うだろう、という目利きをしながら、特典を決めていく。そんな手順であるから梶さんのマル秘宇多田ファイル(もう100冊もあるそうな。すげー。)の出番になる訳だ。梶さん主導と言ったのはそういう意味である。

さて本題。これで合計10000になった。まだ買えない人が出てくるだろう。私は最初20000と予想したのだからこれでもまだ半分なのだが、しかしこれで転売の相場はぐっと下がる。ざっと見積もって適正価格は22000~23000円程度となるだろう。今回の増産分でも予約出来なかった人たちは早速転売屋に目移りしているだろうが、少なくともこの価格より高いのならそれを注文するのは止めておこう。発売日を迎えるまでに、必ずこれ以下の値段になる。私の2万人という見立てが正しければ、だが。なので、まだまだ慌てる時間じゃない。ここらへんに下がってからでも商品は確保出来る。もうちょっとだけ待ってみよう。


しかし、ひとつ問題がある。残り3ヶ月。増産するには時間が必要だから、幾ら反響があろうが、「発売日に総て揃える」事を優先するなら、ちょっとタイムリミットが迫ってくる。それは考慮に入れなければならない。

その点を睨みながら、更なる増産は可能かどうか。この様子だと、増産単位は5000とみるべきか。ならば次は1万5000。これ位になると、転売価格も2万円を切ってくるだろうから余り転売収益はあがらなくなるが、ただ、ここらへんからは慎重にならなければならない。このテの商品は余らせる訳にはいかない。全部売り切ってやっと収益が見えてくるビジネスモデルなのだから。ここらへんのバランス勝負になってくる。流石にここから数日は、様子を見た方がいいだろう。ここから3ヶ月でどれだけ"熱が冷めるか"。その見極めが大切だ。そしてそれが、とても難しい。10000までは熱とは関係ないから、ここまでは大丈夫。案外長期戦になりそうだ。

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要は、商品の価格は需給のバランスで決まるっていう普通の話をしているだけだ。野菜だって豊作だと値崩れするし凶作だったら値上がりする。FL15DxEDが15k円で5000セットというのは需給バランスに従えば安すぎるor少なすぎるのである。

それは、発売する方も重々承知だろうし、狙いもあるだろうから構わない。ただ、発売元が転売屋に対して不平を言うのは筋違いだという事だ。彼らは市場に従って価格調整をしているだけなのだから(なかには行き過ぎもあるけれど)。だったら適切な価格、適切な生産数で売ればいいだけの話。

そうだな…例えば、直前になってDxEDのみの音源、カラオケアルバム&B面集with未発表音源集を配信販売してしまう、という手もある。コレクターズアイテムだけに、どれ位の効果があるかはわからないが、「音だけ聴ければいい。レプリカとかは要らない」という人にとってはそれで十分かもしれない。「転売屋涙目」になるかどうかは、微妙なところだが…。

まぁいいや、まだこれから3ヶ月あるのだから、年内位は様子をみてみるか。オンライン通販では瞬く間に売り切れてしまったようなので、凄いスピード感だが、まだ発表されて2日も経っていないのだ。いやはや、Web時代ならではの展開の速さだねぇ。

しかしどうにも、ビッグ・プロジェクトである。スポーツ紙記事のアップロードは、12月9日0時1分だった。昨日の朝の番組でも紹介されたらしい。たかが5000セットの販売に(全部売れたら7500万円の売上だけどねー)ここまで大掛かりなプロモーションをするか? こんなの宣伝しなくても5000セットは楽勝である。普通に考えてしまうと、これは復帰に向けての地均しとみてしまえるところなんだが…取り敢えず、次のHikaruのツイートと来週の熊淡を聴いてからだな。話ははそれからだわ。

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変な話だが、あたしゃコイツ(自分)がIn The Flesh 2010を手に入れてこんなに嬉しがる楽しがるとは思っていなかった。心がはしゃいじゃって仕方がない。こんなに眠くない日は今年初めてかもしれん。今夜ちゃんと寝れるかな…。

という訳でとてもインフレの感想を冷静に書ける状態ではないのでそれはまた後日(もしかしたら来月…即ち来年?)にでも。今日は引き続きFL15DxEDの話。

限定生産5000セットという数の設定に誰しも疑問を抱くだろう。私もその1人。どうせなら完全受注生産にすれば、という感じだが、多分受付から販売まで半年はかかる。その上、キャンセル一切拒否でなくてはならないだろう。こういうのは大抵基本ロット数が決まっていて、1000枚単位か5000枚単位か10000枚単位か知らないが、キリのいい数字で生産するのがいちばん収益性が高い。そこまではいい。何故それが5000という少ない数字だったか、だ。

繰り返し書いてきている事だが、私はこの国で「Utada Hikaruがオフィシャル・リリースするものなら基本的に必ず購入する」層が、大体8000人~10000人位は居ると想定している。だから、限定生産モノをリリースするなら8000は手堅く、基本10000でいいだろう、というのが最初の考え方である。

今回の限定生産は、しかしながら、あの「First Love」アルバムである。Utadaのシングルやアナログは持っていないけどこれは欲しい、という層は相当居る筈だ。ここからは経験が効かないが、4ヶ月間プロモーションするならば、20000セットなら完売するんじゃないだろうか。1万5千円という価格設定ならば。

勿論、シリアルナンバーをふりプレミア感を出したい、という(本来限定生産モノにとって普通の)理由があるのなら5000枚でもいいのだが、だとしたら1万5千円は安すぎる。そろそろ外税で価格書いた方がいいよね。消費税8%だと16200円になるのか。うわ高ぇ。

出来れば、きっちり5000人だけが注文する位の価格設定がよかった。そうだな…5万円位か? もうちょい下か。28000円位だろうか。今転売屋さんの相場が、きっとこれ位だろう。まぁ、価格の話は、また次回に続けるとしよう。今宵はここまで。

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んもー。

In The Flesh 2010の12月9日発売発表即発売開始は皆が予想&期待してた事だからまぁその話はじっくりするとして。

サプライズは「First Love 15周年記念版」の方だ。いやはや、やられた。

まず最初に思ったのは、「1stだけ!?」という点。2014年3月10日に発売されるのだからそりゃ当然じゃん、と思われそうだがそれは後付けの錯覚である。今日2013年12月9日発売なら、例えば初期3枚まとめてリマスター版をリリースする手もあった筈だ。それをしないという事は…2016年3月28日や2017年6月19日にも同様のリリースが予定されているのだろうか?? だとしたらまだまだ人間活動からの帰還は先か、或いは全く逆に、年内或いは年度内で人間活動期間は終了し復帰を睨んでのリリースか、となるが、これは今回発表の「未発表音源分」の具体的な内容までみてみないと予想がつかない。どちらともとれる、と今は言っておこう。

それにしても、よくよく考えられた内容である。先導は梶さんだろうが、ここのA&Rチームは優秀さは抜きん出ている。今回の発表に関して、熟慮に熟慮を重ねた形跡がそこかしこから伝わってくる。TeaserとしてアップロードしたPassion/SanctuaryのYoutubeが、どうやら日本国外から観られないみたいなのは痛かったが…これも、海外でのリリース日を加味しての事かもしれないから、即断は避けておこう。兎に角、まだついていけてないのでゆっくりやる。ただし!デラックスエディションの予約は今すぐやれ!瞬時売り切れ濃厚である。あとでオークションを指をくわえて眺める羽目になっちゃうぞ。迷っている暇は、ない。

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ネルソン・マンデラ氏が亡くなった。95歳。このニュースを聴いて最初に思ったのは、「そういえば、ヒカルがノーベル平和賞を貰えたら、喜ぶかな…」という事だった。

あんまり"賞"なるものに執着がないであろう事は容易に想像がつく。本人もそう仄めかす発言を随分過去にしている。今や一周まわって、賞を貰ったら素直に喜べるようになっている、んだろうきっと。

しかし、ノーベル平和賞は別格な気がする。ある意味、彼女が「いちばんしたい事」なんじゃないだろうか。平和に貢献する、というのは。

この日記では、徹底してHikaruの事を音楽家として扱っているが、彼女の人生、別に誰に決め付けられる訳でもない。何をしようが好きに生きればいい。が、能力を別にして何を成し遂げたいかといえば、世界平和というか…「いい世界にする」事なんだろうな、とぼくはくまをリリースした当時のメッセージを思い出しながら思う。こどもたちのくまに対する反応をみて、「いい世界にしてあげたいって思っちゃうよね。」と言ったのが、妙に印象的だった…2006年12月18日のメッセージか。もう7年も前になるか。

この実感。いい世界にする、ってどういう事だろうと考えて、「取り敢えずいい世界にはいい歌が不可欠なんじゃね?」と冬至の私…いや確かにその季節だけども…当時の私は反応を返した。やっぱり徹底して音楽家扱い。

いい世界って、何なんだろね。わかんないや。

でも、Hikaruの居る世界は確実にいい世界だ。それは言える。


人間活動を経て、自分が何をしたいのか、何が出来るのか、いろんな角度から検討できた筈だ。そんな中で、本当に自分がこれからする事は何なのか、どれ位見えてきただろう。あとどれ位かかるかわからないが、中間報告でもあると有り難い。

ノーベル平和賞ってもう随分歴史が長いから、どこの誰が受賞してきたかは私は全然知らないのだが、過去に音楽家が授与された例はあるのかな。なければそういう前例を作ればいいし、あるのなら心強い。何が言いたいかというと、いちばんよくできることをやっておけば、最終的に、自分のやりたかった事も成し遂げられるかもしれないよ、って事。まだ若いんだからね。取り敢えず、今月の熊淡納品頑張って♪

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前回のエントリーを要約すると、「ヒカルの新曲は毎回進撃の巨人第1話みたいなもので、全部出オチ。」という感じになるか。完成度が高い、というと違うかもしれないが、ほぼ総ての楽曲を煮詰めきってから発表する為、なんていうのかな、こちらは「成長を見守る楽しみ」みたいなもんがない。いやこれも不思議な感触で、振り返ってみたら歌唱であったり編曲であったり、着実に成長の"跡"はみられるのだが、それは常に「後から振り返った時」にしか現れない。出来たてで大人…なんだろう、そんな感じ。

こどもの成長を見守るというのは、そういうことではない。あれが出来ない、これも拙い、という中で失敗を繰り返しながらあれが出来るようになった、これが上手になった、という風なプロセスを経るものだ。15歳16歳にして会社のいちばんの稼ぎ頭になってた人には、そういう時間がなかった…

…という風に書くと、お馴染み「人間活動の意義」みたいな話になりそうなのだが、いや、それはまぁそれで有りなんだけど、何か違う。育てる楽しみ、育つのを見守る楽しみ、がない一方、では我々が彼女を親や先生のように敬って、大いなる信頼を寄せている…というのとも違う。前回触れたように、彼女に寄せる感情は常に期待より不安と心配の方が大きい。

結果だけみると、明らかに誰よりも頼もしい。ここまで結果を出し続けられている人は、特に作曲面においては、右に出る人は居ないだろう。クォリティーの面では安定感抜群である。なのに、いつも我々は彼女の事を心配している。どーんと構えて待っている、という事がない。何の不安もなく「宇多田は大丈夫」と信頼しきっている人は、大抵活動休止中は彼女の事を忘れているタイプなんじゃないか。それはそれでいい事だが。

単なる考え過ぎ、という面も勿論ある。しかし、どちらかといえば「そんなにいつも心配心配ばかり言いやがって少しはヒカルの事信頼しろよ」と普段言ってる方の私がこうやって毎度書いていて「やっぱり期待の方はひねり出すように出してるなぁ…心配は呼吸のついでにできる」なんて風に感じるのは、ちと尋常ではない。ならば、と、その原因の答を探そうとしそうなものだが、不思議な躊躇いがそこにはある。なんだかまだまだこのテーマから離れられそうにない。

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今年いちばん話題になったアニメといえばやはり「進撃の巨人」だろうが、私のツイート等を読んでくれている人たちは薄々感じてらっしゃるかもしれないな、私はそれほどこの作品を高く評価していない。ゆゆ式の方がよっぽど好きだ。

生理的に嫌いとか、この作品の魅力がわからない、とかではない。全く逆。この作品の"魅力の限界が見えてしまっている"から、そこまで興奮出来ないのである。

同作のいちばん凄い所は、巨人というアイデアと、それを具現化するにあたってあのデザインにした事、そしてそれがもたらす恐怖と絶望のリアリティである。なので、私は、第一話を観た時に、「この作品が進むべき"正しい道"は、このままひたすら人類が訳もわからず巨人に蹂躙され続け、何一つ巨人の謎が解けないまま、人類が最後の1人まで喰い殺されて絶滅して終わる事だ。」と思った。今でも思っている。しかし、それでは勿論売れない。娯楽作品としては、今進行中のように、巨人の謎を解き、そして謎が謎を呼び…という展開にするしかない。お陰様でとんでもない売れ行きであるどうもありがとう。

でだ。そうなると、どれだけ巧みに謎を設定し解いていっても、恐らく最初の、我々が巨人を初めて観た時の恐怖と戦慄と絶望のインパクトを超える事は出来ない。何故なら、恐怖と絶望の謎を解くとは感情の解体であり、ただひたすら最初のインパクトを削り取っていくしかないのである。勿論、その過程が鮮やかであればある程カタルシスは得られるが、恐怖と絶望の解体が終わった時点で物語は進むべき必然性を失う。

要約すると、「進撃の巨人」という作品は、綺麗に作品を終わらせて名作として語り継がれる事は可能だけれども、作品の特質として、終わった後の展開が望めないのだ。看板はそのままに、全く別の特質に入れ替えて続けるかもしれないが、そうなったらそれは全く別の作品として扱われるだろう。

そこらへんが、ガンダムやエヴァやまどマギと違う所だ。これらの作品はいずれも陰鬱で、明るい作品とはいえないのだが、アニメーション作品として"未来を切り開く力"を持っている。要はそこからの発展性が高い訳だ。進撃の巨人にはその望みが薄い。私はそうみているので、どうしても評価が低くならざるを得ない。この作品自体は面白いと思うし、ここまで評判になって当然だとは思う。あクマで、ここから切り開かれる未来への期待の部分の話である。



…とこんな長い前フリをしたのは他でもない、では宇多田ヒカルの音楽の作風を私はどう捉えているのか、という話をしたかったのだ。答はシンプル。私は作曲家ヒカルの作風を、上記であげた「進撃の巨人」型だとみている。意外かな?


彼女の作曲術というのは、いつも全く未来が見えない。飽きる程繰り返し書いてきたとおり、「新しいスタイルを創造して、そのスタイルの許で考えられ得る最高のクォリティーの楽曲を最初に生み出して終わる」というのが彼女のスタイルだからだ。その時、その曲を聴いてマックスに感動する事はあっても、っていうか毎回そうなんだけども、「新しい金脈をみつけた!これからが楽しみだ!」と思わされる事態は本当に少ない。そして、それが12年続いた。普通最初で終わりだ。奇跡みたいな人である。いや、奇跡そのものと言うのすら生温い。何と言っていいかわからない。


ヒカルという人は、最初のような、最後のような、不思議な人である。今私が「魔法少女まどか☆マギカ」に感じているような「これからこのコンテンツは更にでっかくなっていくぜ!」みたいな高揚感を、この人はまるで味わわせてくれない。常に「最高」を「今ココ」で見せてくれているから、かな。だろうな。

だから、私が「桜流しの次の楽曲が楽しみでならない」と言っているのに、何ら心情的確信はない。ただ、今までの結果からしてこの人は次もやってくれるんだろうなと思わざるを得ないだけである。何を言ってるかわかりにくいかもしれないが、体調面も含め、我々がHikkiに向ける感情は、常に期待より心配と不安の方が大きい。それこそ進撃の巨人が恐怖と絶望をまず最初に与えてくれたように。彼女が今後全米1位をとる期待とか、勿論あるんだが、なんだろう、それが楽しみかというと違う気がする。ちょっと今回は難しい話だったかな。自分にとっても、誰にとっても…。

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毎度話の掴みにアニメの話題をもってくるのは、まぁそれならわかりやすいかなー、という程度にほんわり思っている、ってだけで深い意味はない。「来月発売されるTRANSATLANTICの新譜にどう期待するか」から入るよりはいいかなー、と。まぁ、どっちでもいいか。本当は、同じ邦楽シーンの中で今ライバルたちはこんな事しているから…だなんて切り口で入れればいいんだけど、宇多田ヒカルのライバルなんて居ないからね…。いや同期の人たち、MISIAやらaikoやらが頑張っているけれども(MISIAはたった今体調不良でコンサートキャンセルしたばかりだが…)、彼女たちの生き方が参考になるかというと、う~ん…。少し年齢も違うしねぇ。

前も書いたけれど、やっぱり創造的なクリエイターはインタビューが面白い。面白くなっていないのは七割方インタビューアの力量不足だ。残り三割は本人の喋りが下手なケース、という感じ。逆に喋りが面白いのに作品がつまらないってのはまずない。なんだかんだで、クリエイターってのはしょっちゅう考えているのだ。

という視点からみている私からすると、邦楽誌のインタビューを読むのは苦痛ですらある。それだったらアイドル扱いしてくれた方がよっぽど楽しい…と。

で、なんでこんな愚痴っぽい事を書いたかというと、そういえばWILD LIFEの頃のインタビューはつまらなかったなぁ、という事を思い出したからだ。といっても、内容がどうのというより、相手が誰であってもヒカルが常に"用意していた答を繰り返す"事に終始していたからそう思ったまでの話なんだが。

その時は、即ち、インタビューアとの相互作用の中で何か面白いアイデアが生まれていく、というダイナミズムがなかった。これはまぁ確かに贅沢な感想で、常に桜井和寿や浦沢直樹を引っ張り出してこれる訳じゃないんだけども、然し、宇多田ヒカルが喋るという貴重な機会(普段はオフィシャル・インタビューの切り貼りがメインだからね)なんだから、少しは気合いの入ったセッティングを期待したいのだが、そうなってくるとやっぱり、同世代にライバルが居てそこらへんと交流があるとか、彼らの中で揉まれてインタビューアが育つとか、そういうのが必要になってくる。それがない。Hikaruは常にいい歌を世に出してきているからその点については不満はないが、孤軍奮闘な感じはどこまでも否めない。

とはいえ、本人はそういった環境に慣れ切っているので、全然気にしていないんだろうなぁ。それならまぁ、よいかな…。

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日本語詞よりも英語詞の方が自己言及的な内容が多い理由。その最初のひとつは結構呆気ない理由である。日本語で歌う宇多田ヒカルは有名人だったが、英語で歌うUtadaは無名だった。ただそれだけの事だ。

1stアルバムを除き、宇多田ヒカルは聴く人全員が自分の事を、少なくとも顔と名前くらいは知っていると(恐らく無意識のうちに)仮定して歌詞を書いていた筈だ。そんなだから、別に自分の事を外にアピールする必要はなかった。寧ろ、突き刺さり続ける外側からの視線に呼応して「こんなに有名になってしまった私って何?」という形状の思考が支配的であったのではないか。下手な事を歌うと、「それって自分の事?」と勘ぐられる危険性があった。それを乗りこなして欺くような位(特技:惑わす事)に歌詞を巧んでいった、という風にもみる事ができよう。

しかし英語詞で歌う歌を届けようという人たちは、多くがHikaruの事を知らない。ならば、まずは私の事を知って貰おうと自己紹介が多くなる。私はこんな人ですよ、私がする事はこれですよといった内容。それは、Crossover InterludeやAnimatoのように一人称で直接的に歌われるものから、Easy BreezyやThe Workoutのように、歌の中の人物に語らせて比喩や皮肉を交えながら歌ったものまで、広いスペクトルがあるが、この、"お互いの顔が見えていない"状態における歌詞作りというのは、Utadaの1stと2ndに特有なものである。

では、と考える。理由が日本語や英語の言語的特性ではなく、ただ単にその国で有名か否かの違いでしかないのであれば、日本語で自己言及的な歌詞を書く論理的可能性について言及したくなる。が、今更この国でこれから「宇多田ヒカルを知らない人たち」が多数派になってリスナー層を形成するケースは、ほぼ有り得ない。20年位音沙汰がなくっても、第一声は「覚えていらっしゃいますでしょうか、若い人はご存知ないやもしれませんわね」であって、「はじめまして」では決してない。宇多田ヒカルは、有名になりすぎたのだ。恐らく、今後Hikaruが日本語詞で"Automatic Part2"のような歌を書く事はないだろう…

…あ、ひとつだけあるか。遠い将来に、世界のどこかで、日本語以外に、日本語を公用語とする国が誕生したとしたら、その国でデビューする際に「私の名前は宇多田ヒカルです」的な歌を歌えるかもしれない。…まぁないわな。うちらが心配しなきゃいけないのは寧ろ、日本という国がなくなってしまう可能性の方だったり…それもまぁ、すぐにはないだろうけれど。


さて、では、英語詞の方が自己言及的歌詞が多い理由として、他には何か考えられるだろうか。知名度以外で。…うーん、すぐにはまとまらないな。また整理できたらその時に書く事にするよ、うん。

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自己言及や自己批評といってもそんなに難しい話じゃあない。「今している事について触れる」というだけの事だ。「さぁカメラが下からグイッとパンしてタイトルロゴがどーん!」みたいなやつね。やっぱり直球表題ロボットアニメと発想が同じだ。いやまぁそんな事はさておき。

Utadaの歌詞では「今している事について触れる」内容が幾つもの見られる。"Automatic Part2"がその最たる例で、あれはひたすら自己紹介の歌である。「Virginに居て、今はIsland Defjam」だなんて歌ったもんだからこの曲が今後LIVEで歌われる可能性は絶望的だ。これは将来「Automatic Part3」を作って歌うしかないな。

そもそも、1stアルバムの「EXODUS」というタイトルからして「今している事について」である。"出国"。日本という国を出て新天地での挑戦を試みる。楽曲の"Exodus'04"に関しては内容は駆け落ちだなんだと言われるが、要は「お父さんお母さん心配しないで」と言いたいだけである。まずキーワードとして"Exodus"があり、そこから波が割れたり山や谷を越えたりといったストーリーが出来上がっていったのだろう。

その作品のオープニングとインタールード、"Opening"&"Crossover Interlude"もまた、自己批評的な歌詞である。「飛び越えたいのはジャンルとジャンルの間の壁ではなくて、あなたと私の間なの」という歌詞からは、このアルバムをジャンル分けせずに聴いて欲しいという思いが伝わってくる。事実、この14曲は本当に多彩で、ここで言及された内容が真理である事はアルバムを聴いた人にとっては自明だろう。

他にも、ほぼ同様のコンセプトで、エルビスやツェッペリン、フレディー・マーキュリーを聴くような生活の有り様を吐露する"Animato"なんかもこの系譜に入るだろう。というより、そもそも2002年の夏にこの曲からアルバム「EXODUS」の曲作りを始めたのだから、寧ろ"Animato"こそがその後のUtadaの歌詞の方向性を決めたのかもしれない。いずれにしても重要な曲である。

次回は、何故日本語詞に較べて英語詞ではこのような歌詞の割合が多くなっているかについて述べる。…述べれたら、いいな。(弱気)

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何度か呟いているが、秋アニメは話題性に乏しいながらも充実していて面白い。特に、「アニメとは何か、どうあるべきか、何が何ができるか」といった自己批評性の高い作品が目につく。

筆頭は先日も紹介した「キルラキル」だろう。2006年の傑作、インフレーションとストーリー性についての批判性をそのまま物語化し、アニメ技法の歴史的な回顧と随行しながら展開させ見事な完結をみた「天元突破グレンラガン」の流れを組む、真正面から「王道アニメとは何か。どうあるべきか」というテーマと取り組む本作はあらゆる階層において過去のアニメーション作品たちへのオマージュとパロディがもり込まれている。極端にいえば「アニメあるある」の宝庫である。この作品を見た後にアニメの実際の歴史を振り返ってみるのもいいかもしれない。

あるあるネタといえば、部活動アニメの定型を羅列しながらそこから如何に逸脱するかを女性声優4人が競ってgdgdになる「てさぐれ!部活もの」も見逃せない。プレスコ(声を先に録音して絵を後からつける)の手法を活かし、その制作スピードを利用して視聴者からのフィードバックを巧みに取り入れながら進行していくその独特のLIVE感は、「アニメという枠組みで何ができるか・そもそもその枠組みはどこまであって、どうやってそこから外れていくか&それをどこまで押し広げていけるか」といった欲張りなテーマを内包していて、実に興味深い。現実はアニラジに絵がついただけなんだけども、監督が切れ者且つ案外野心的な人で、更にダウンタウンの番組の構成作家を務めるなどアニメ業界の外からの視点を持っているのが強みである。そこから出てくる批評性は本質を突いている。

逆に、アニメ業界のコアそのものを描きつつも批評性を持たせられている作品が「アウトブレイク・カンパニー」だ。アニメヲタクが大好きな剣と魔法の世界にアニメヲタクを紛れ込ませるという展開で、ヲタクという生き物の滑稽さを相対的に描き出す。テイストは萌え系ギャグアニメに過ぎないのに、案外本質は冷静で客観的だ。てさぐれ同様あるあるネタ(こちらのテーマは一環してヲタクの生態そのもの)を披露しながら、自己の世界を内側から相対化するというのは幾何学的なセンスがあると思う。


こういった、自ジャンルについての批評性を作品の中で展開出来ている業界は好調、或いは健全であるといえる。ありていにいえば、時々「俺何でこんな事やってんだろ」と我に帰る瞬間がなければ、どうしたって狭い世界でのお約束の追求になってしまい風通しが悪くなる。「こんな事やってていいの?」という自問自答がその業界を大きく発展させる。ガンダムやエヴァがいい例である。


日本の商業音楽にも、正直そういった自己批評性が欲しい所なんだが、なかなかそういったミュージシャンは現れない。ラブソングや応援歌を歌う人たちは沢山居るが、例えば上記のアニメ作品達にみられるような実験性や自己批評性がみられるかといえば私は知らない。夢の世界に耽る少年少女を夢中にさせて…という構図しかみえない。なんとかならんものか。


Hikaruの曲の中には、幾つか自己批評性、自己言及性をもった作品がみられる。『キーが高すぎるなら下げてもいいよ 歌は変わらない強さもってる』といいながらキーチェンジして"今歌っている歌"について言及・批評する"Wait & See~リスク~"はその最たる例だし、『誰かの為じゃなく自分の為にだけ歌える歌があるなら私はそんなの覚えたくないだからForYou』と、歌手である自身をモデルにしたと思わしき主人公が登場する"For You"や、締め切りに追われている事そのものをネタにした"タイム・リミット"もそういった系譜に名を連ねるだろう。どれも、シリアスなテイストを持ちながらリスナーに「新しい気付き」を新たなレベルでもたらしてくれる秀逸な歌詞をもった名曲たちである。

とはいえ、ヒカルの曲に関しては上記に挙げた程度で、自己言及性・自己批評性を湛えた歌詞というのはさほど多くない。それが目立つのは英語詞の歌、Utadaの楽曲たちである―のだが流石に今回は長くなり過ぎたので、その分析に関してはまた稿を改めて。いつ書くんだかだが。

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3年前以来、「アーティスト活動休止」という類のニュースに妙に敏感になってしまっているので、「最近そういうの増えたねぇ」と呟いてみても本当にそうなのかどうかよくわからない。ミュージシャン受難の時代、という気は確かにするが、それが活動休止に直結しているかというと不明。元々、創作活動なんて"定期的"に出来るものではない。本能的に多作の人たち以外は無理して作っている事も多い。そりゃあたまに休みたくもなる。しかし、それは昔からあった事で今更だ。

時代性を鑑みて受難をうたうのは容易い。特に、アイドルが組織化されて定常的な供給が可能になるシステムが構築されている日本の現状では、シンガー・ソングライターの「心許なさ」は半端ではないだろう。

基本的に、個々のミュージシャンの供給能力には限界がある一方、消費生活には際限がない。ネットの普及はそのまま供給過多を意味するから、毎日流される情報の中にどうやって滑り込んでいくかは頭を悩ませる点である。その役割を担うべきなのがレコード会社で、毎週発売曜日を固定し、本来偶発的な創作活動の結果を、まるで工場で生産するように供給する事を可能にしてきた。その形態の中で、ミュージシャンたちはある程度の縛り、例えば年一枚のペースでアルバムリリースを行うとか、そういった制約下で活動を続けてきた。今はそのシステムを担うのがレコード会社のみならず、ジャニーさんや秋元さんのような、レコード会社や事務所の枠組みを超えたシステムにも依拠するようになった。

そんななかでの宇多田ヒカルの「無期限」契約は破格の待遇であったといえるだろう…本当に無期限だったかどうかはわからないが。それだけの実力があるのだから当然なのだが、この契約形態を考えると、「アーティスト活動休止宣言」は本来不要なのだ。本来はいつアルバム作ってもよかった訳だから。そこはちゃんとしよう、というのはファンに対する誠意に他ならないのだが、ではファンの方がその誠意に応えるだけの忠義みたいなものがあるかというと、わからん。

勿論、ヒカルはそんな忠義みたいな堅苦しいもんを求める事はないだろう。どちらかといえば、この3年で離れる人はどうぞ遠慮なく、くらいに思っているかもしれない。それもちと極端だけど。次はまぁ、だからだいたいまっさらなスタートを切る事だろう。

そうなった時に…という話は長くなるな。続きはまた機会が合いましたら。

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12月は熊淡7とインフレ発売が控えてる…予定なのだが、はてさて、どちらが先になるんだろうか。発売日が早めに決まっていないと、ラジオの収録に影響が出るような。ただ、番組のスポンサーにユニバーサルが居る訳ではなさそうなので、特に触れなくてもいいのかもしれない。そうなるとファンとして複雑な気分だが。

放送は再来週の火曜日、12月17日、あと半月である。繰り返しになるが、配信販売はもう何の準備も要らない(マスターは仕上がってる)、法的な問題がクリアされればすぐにでも発売できる。デジタルブックレット等が存在してクレジットを変更する必要があったりしない限りは。ああそうなると、そうだな、"エンドロール"も大丈夫なのかな。心配し始めるとキリがないが、「発売日決定!明日です!」みたいなノリも有り得る訳だ。

これを気にしていたら、ラジオの収録なんか出来ない。かといって、17日までに発売が決まってた場合、何も触れないというのも勿体無いし、不自然だし、素っ気ない。一方、納品日までに発売が決まらなければ何の告知も出来ないだろう。ツイートと異なり、ラジオでの告知は基本的に「絶対確実」なものに限られる。発売日が決まるのが下旬までズレ込むようだと、またもや何も触れない放送になる…

…ったく、あの父娘はどこまで頻繁に連絡とってるんだかまるでわかりゃしない。このままラジオの告知なしでインフレ発売しちゃうんだろうか。CMまで打てとは言わんし、人間活動中だから商売っ気からはひとつ距離を置くというのもわからぬではないが、なんというか、もどかしい。それだけ、あのツアーのLIVEが素晴らしかっという事がただただ言いたい、行かなかった人たち、行けなかった人たちを激しく後悔させる事間違い無しという確信があるから、どうにもやりきれない。まぁここまで来たら待つだけなんだけど、折角なのでラジオで存分に触れてから発売して欲しいんだな。うん…。

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