無意識日記
宇多田光 word:i_
 




日曜日夜のメッセで書かれていた2か所の「障害」の表記が
障がい」に改められている。

何故このような訂正が必要だったのか。

検索すれば幾らでも説明が出てくる。
詳しく知りたい方はキーワード“障碍者”でググればOKだ。


ここでは、私なりにそれらを斜め読みして理解したことをまとめておく。


「障がい」の“がい”は、漢字にすると“碍”なのだが、
常用外なので媒体や公文書で書かれるときにはひらがなになる。

実は、元々戦前までは「しょうがいしゃ」を「障碍者」と書いていたのだが、
戦後常用漢字が制定された後に、当て字として“碍”の代わりに
常用漢字である“害”があてられるようになり、
「障害者」という表記が主流となったんだそうな。

しかし、この当て字の字の当て方に問題があった、と。
“碍”の字と“害”の字では、意味が微妙に違うのである。

“碍”の字は、融通無碍という四字熟語からも察せられるように、
「自由を妨げる」「不自由である」という意味である。が、
“害”の字は、被害・損害という風に、
積極的に他者に“わざわい(禍・厄・災い)”を与える存在を指す。


差が微妙なのでわかりにくいか。
具体的に「身体障がい者」と書いたときの“がい”に
それぞれの漢字をあてはめて考えてみよう。

「身体障碍者」と書けば、「身体が不自由な者」のことであって、
これは我々に身近な「身体障がい者」の皆さんを指すことばに成り得る。しかし、
「身体障害者」と書くと、「身体に(身体で)わざわいをもたらす者」という
意味になってしまう。それは違う。彼らは別に我々に害を与える訳ではない。

だから、現在では「身体障がい者」或いは「身体障碍者」と書こう、
という風潮が、各自治体レベル等で広がり始めている、ということらしい。


恐らく、光の許にもそういった指摘が来たのだろう。
デリケートな問題に迅速に対応した点を評価したい。


実は、私が日曜深夜のエントリを書いた際も
その書き換えのことがアタマを過ぎったのだが、
他に“きちがい”だとか“メクラ”“チンバ”などの、
「放送禁止用語」とか「不適切表現」にあたる単語をたくさん使ったので、
敢えてそのままにしておいた。
「今迄の(時に誤謬や偏見に基づいた)慣習にしたがった表記」を
使用する態度で文章全体を統一する狙いがあったわけである。
したがって、それらの表記には障碍者の皆さんを貶める意図等は一切ないことを、
この場を借りて、強調しておきたい。よろしくお願いします。

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先週はニッケルバック&ガンズという両超大怪物の新譜を聴いていた。片や産業音楽史上最強プロデューサを擁したバンド最高傑作、片や14年14億を費やしたロックアイコン入魂の1作で、間違いなく世界中を震撼させているであろう前評判に違わぬ甲乙付け難い出来だったのだが、こと時代性市場性を離れた普遍的な楽曲の強さという点で比較した時、どちらのアルバムよりもHEART STATIONアルバムの方が曲が揃っていると感じた。ロックを聴いて育ってきた耳からすれば、もし贔屓目があるとするなら寧ろ両雄に対してになる筈なのに。思わず「思えば遠くへ来たもんだ」と呟いてしまったよ。

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やれやれこのコは。
元々私は思考回路に似たところがあるから
ココでこうやってblogを垂れ流し続けてもネタ切れの心配がないのだが、
勿論とても違うところも多くって(当たり前だ)、
それが、こうやって「思ったことをまっすぐに言う」態度だ。
メッセを読み始めて一番面食らったところはそこだ。

「もっと、思いやりのある世界になればいいな、と思う! 」


だなんて、よほどの勇気(言う気)と覚悟(書く語)がないと、
言えないし、書けない。とても敵わんと思ったよ(そりゃそーだ)。


まぁたまにはそういうのに脊髄反射してみるのもいいかな、と珍しく思った日曜の夜だ。


光はとても強いコだ。
そして、稀有な人生を送っている。
だから「自分らしさ」も自分の力で獲得してきたし、
それに対して称賛以外のことばは特に思い浮かばない。
でなくば、我々の人生もこうではなかったのだから。

しかし、多くの、大多数の“普通の人”たちにとって、
他者に対して誇らしく喧伝できる“自分らしさ”なんて、皆無だ。
寧ろ最も大きな希求は、何か既に確立した価値観の枠組の中に
自分の居場所を確保することだ。自分らしさは逆に邪魔だ、というか、
それを維持する為のコストは絶大なので、
大抵疲弊して、どこかに属して安寧を得る。

健康と病気、正常と異常、健全と障害、とかいう二項対立軸が
もたらすものは、多くの場合偏見や憐憫であるが、
しかしそれゆえに、その何かに属する安寧を得ることができる。
また、人と人との関係の中において、「自分はこういう人間だ」と
社会的に認知された枠組みの中で捉えてもらえることで、
個々の対応は常にスムーズになっていく。

非常に単純な話で、「花粉症」という病気がまだ認知されていなかった頃は
医者をたらいまわしにされた挙句確たる治療法も与えられず帰宅するしか
なかったが、「花粉症」という病気が認知され社会的な地位を
確立した今では発症してすぐ本人も周りの人もお医者さんに行っても
「花粉症ですね」のひとことで済み適切な処置を受けられる。

障害者もそうだ。もしそれが“単なる個性”ということであれば、
それに応じた責任をとるのが社会の建前上の基本だ。
実際はそうでなくても、個々人の選択によってその生き方を選んだかのような
扱いを受ける。しかし、障害者手帳ひとつを獲得することで、
自治体などから適切な援助補助を受けることができる。
それもこれも、“障害者”というレッテルが社会で流通しているからだ。

花粉症や身体的障害なら物的証拠の羅列で区別が出来る。
これが精神医学の分野となると話が一段難しくなる。
名前の通り、「精神論」が罷り通る分野であったからだ(今も多分ある程度そうだ)。

精神的な側面を原因として社会に対して不適応を示す事例に対しては
個々の努力の不足や精神力の弱さを糾弾し「排除」によって解決とする風潮が
恐らくずっと続いていた。それが徐々にではあっても
改善されてきた経緯を支えたのは、それらが次々と事細かに分類され整理され
物理的な基盤へと帰着させることにまで到達した、平たくいえば投薬による
治療が可能になり主流になっていく中で、それらは“市民権”を獲得していった。

一昔前なら「きちがい」といわれ隔離され断絶していた人々に対して、
例えば風邪や胃腸炎や感染症と同じように(とまではまだまだいかないかもしれないが)、
一種の“(治療可能な)病気”として認知されることで、また社会復帰への道がある、
いわば一時的な不調状態として寛容されていくようになった。
その、徐々に成立してきた“システム”が為した社会への貢献は計り知れないだろう。


要は、“病気”や“障害”や“異常”やらは、
特に社会的な認知に基づいた呼称であるということだ。
もっといえば、社会の中で、社会のシステムの中で居場所を見つけるとき、
病気や障害や異常のレッテルがシステムの中に既存していて、
それに自分をあてはめることができれば、それに応じた対処・療法を
適切なカタチで被ることができる、ということだ。

裏を返せば、病気や障害や異常とは物理的な現象、
身体における生物学的化学的イヴェントのことを直接には指さない。
社会による認知を受けて初めて、それは病気や障害や異常に、“成る”のである。

この点、光のいう

私には分からない。なにが「普通」なのか。なにが「正常」、「健康」なのか。なにが「異常」、「不健康」なのか。


というのは、的を射て得ている。
元々そんなものは、異常や不健康など“ない”のだから。
人間の、人間社会においての“認知・認識”を得て初めて姿を表す“概念的存在”、
もっといえば、“慣習的存在”でしかない。

ここでもまた裏を返せば、一昔前は異常なり障害なりになっていた現象や症状が、
社会の認知や認識やシステムや機構や技術などの発展によって、
わざわざそういう名称をつける必要がなくなっていく事態も、想定可能だ。
それが、光の言いたいことに繋がっていくと思う。

それが単なる“個性”にまで還元できる社会とは。

言うのは実に単純である。
例えば義眼や義足や人工心臓が、
今よりぐっと進歩し安価で誰にでも手に入るようになったら、
メクラやチンバといったことばが多分化石になっていくだろう。
目の見えない子供が生まれてくるとわかっても、
「じゃあ、生まれてきたら目が見えるように手術しますから。5分で済みますよ」
というだけの医術がその時点で出来ていれば、そんなものを障害だと
わざわざ名づけるひとは居なくなっていくだろう。
先天的な視覚機能と後天的な視覚機能に何ら差異がなくなっていけば、
それを取り上げて何かいうひとも居なくなる。
(例えばこの番組でそういうことに携わる人たちがたくさん取り上げられてるから一度見てみればいいと思うよ)

勿論、現実はもっと複雑だ。
今述べた「目が見える」という非常にわかりやすい基準ですら、
では全世界の盲目者の人口をゼロにすることが今現在できているかと
いわれたら、それはまず間違いなく違うだろう。
これが、上述の精神的と称される領域の“異常・病気・障害”になったら、
それらにたいする研究や技術が発展すれば、“解決”となるかは、わからない。

我々は、果てしない夢を見る必要があると思う。
もし、もし、世界中の盲目者が居なくなる日が来るとして、
それを示唆する象徴的な出来事は何になるだろうかといえば、
私は、「別に見えなくてもいいんだけど」と言う人が出てくることだと思うのだ。
もし、誰かが盲目であっても何不自由なく生活できるだけの
社会的基盤が構築されたなら、もはや盲目自体が障害ではなくなっているだろう。
そのような社会の構築の方が、義眼を究極にまで高める技術の成立より
更に遥かに難しそうだ、というのが素直な直感的意見だが、まぁこればっかりはわからない。

しかし、そこまで世界が優しくなれるか。思いやりで満たせるか。
先ほど述べた様に、それは「果てしない夢」に過ぎないだろう。
実際には、我々は、自分のことで精一杯でしかない。
光だって、恐らく何億何十億という資産がありながら、
彼女の毎日は、「このドのシャープの音のところに載せるべき母音が何かわからない」
とかいう、恐ろしくミニマルな悩みで埋め尽くされている。
そんな果てしない夢なんか、宇宙の彼方の向こう側、という風に。

だから私が言いたいことは、果てしない夢は託しながら前に進むものであるから、
叶うとか叶わないとか野暮いってんじゃなくて、それに心を満たされながら、
足りないものを現実の中に想像していけばいいだろう、ということ。

私は、今これを読んでいる貴方を適切に説得することすらできやしない。
ココに書いてあることを事細かに理解してもらうことすらできやしない。
それどころか、今自分が自分で書いていることが何であるかすらよくわからん。

世の中出来ないことだらけだ。それが現実なんだから、
出来もしないことについて夢を見るのなんて普通である。でも、
その夢を謗る人がいるのであれば、そのひとは普通じゃない、なんていう言い方を
したら、今度は僕らが同じ隘路に陥る。先述通り、
異常とか普通とか、そういうのは、僕らの社会のシステムの中に、
ひとりひとりの心の中に常識と認識として幻影のように在るものだから。

難しいでしょう? でも、それを楽しむこと。
何も成せなくって当たり前なんだ、僕らが出来ることなんて石の礫にもなりゃしない、
そう思えば、逆に、できることなんて限られてるんだから、
何をすべきかの選択は、ラクになるんだよ。
どれがどの道へのプラスになるかも、そんなにわかったことじゃあないんだけどね。

大抵のひとが、「できもしないことだったら、やるだけムダ」と考える。
僕だってそう。でも、その人が一番やりたいことをやっていれば、
「果てしない夢」を心に抱いていた方が、いい。とても心がラクになる。
できることなんて僅かだからね。


うーん、、、

、、、、なんで、漢字が満載の箇所よりひらがなが増えた箇所の方が内容が難解なんだ私。(汗)



あ、最後にひとつ。
光が、

病気を乗り越えた子も、亡くなっていった子たちも、私は毎日彼女たちに思いを馳せる

っていってるけど、「毎日」ってのは誇張じゃないよ。
僕ですら毎日食事をするたびに必ず
「これが食べれずに餓死してくコがたくさんいるんだなぁ」
って思いながら手を合わせてるくらいなんだからw
(オフで会ったことのある人なら知ってるかもしれないが、私はモノを食べるとき必ず手を合わせて目を瞑る。一瞬だけども。)
実際にメールをもらって死を目の当たりにしてきて、
精神的なショックを受け止め続けてきた光が、その“彼女たち”のことを
忘れるはずはない。光が「毎日」って書いたら、本当に毎日なんだ。


もう一度書いとく。「誰を信じるか、それだけは確かめておけ」



あわやグレンラガンの某名台詞かー、とアタマをよぎったのは私だけか。(笑)




追伸:久しぶりに勢いで書いた。今は反省と後悔をしている(苦笑)。それもまた人生。

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