ウマさ特盛り!まぜまぜごはん~おいしい日本 食紀行~

ライター&編集者&散歩の案内人・上村一真(カミムラカズマ)がいざなう、食をテーマに旅をする「食紀行」を綴るブログです。

岸和田てくてくさんぽ8

2021年01月31日 | てくてくさんぽ・取材紀行
府道との交点に建つ、成協信用組合岸和田支店は旧四十三銀行の建物で、赤煉瓦と花崗岩で縦のラインを強調した、辰野金吾の建築の雰囲気がある。府道を渡ったところに、暗渠になった古城川の上に残る欄干橋は、かつてこの地方の道路元標があった場所。だんじりのやりまわしポイントとしても人気だ。渡ってさらに紀州街道を行ったところ、右に分岐するかじや町商店街へ寄り道してみる。折れ曲がった路地に囲まれ、大正から昭和に主産業だった織物工場で働く女工の娯楽の場として、賑わった歴史がある。

かつてはアーケードがあったが撤去され、沿道には鉄製の支柱が残る。古梅園や亀の子束子のレトロ看板を並べたショーケース、かつて藩の鉄砲鍛冶屋町だったことを示す看板など、街角博物館的な雰囲気も。洋品や衣類、着物に呉服、人形、時計にカメラなど、こぢんまりした一般商店が並び、書道具の「染道楽」は陶器や雑貨など店頭に並ぶ小物が楽しげだ。

岸和田てくてくさんぽ7

2021年01月31日 | てくてくさんぽ・取材紀行
紀州街道を先へ、明治35年創業で「玉時雨」の岸和田凮月堂と、天保10年創業で「梅花むらさめ」の小山梅花堂の、2軒の和菓子屋が向かい合うあたりの奥からが、だんじりが曳行されてくるルートになる。市役所別館前は紀州街道からだんじりが左・左・右と折れて、岸和田城に向けてこなから坂を登っていくポイント。宮入前のハイライトだが、左右の角折れが連続したのちに登り坂と、大工方も梃子も息つく間がない。だんじりに使う提灯も作る藤川商店と、大正5年創業時の建物の元・西出書店の建物を過ぎた先は、ゆるいS字カーブ。かつては堀が渡され、こなから坂の麓には城郭へ至る北大手門、外廓の堺町を隔てる堀には内町門が設けてあった。

昭和初期築の寺田銀行の建物を利用したきしわだ自然資料館の先、堺町の地車小屋の前は、直角のクランクになっている。地車小屋の向かいあたりにはかつて堺口門が設けられていて、紀州街道は外廓の北側の堀を渡り古城川にかかる欄干橋へ続いていた。Sカーブ部とともに城郭の枡形で敵の侵入を防ぐものだったが、だんじりにとってはともに難所。堺町の方はそれぞれの角に古い黒壁銅板の商家と惣菜を扱う商店があり、曲がり損ねただんじりに突っ込まれないか気になる。

岸和田てくてくさんぽ6

2021年01月31日 | てくてくさんぽ・取材紀行
だんじり会館そばの紀州街道は、かつて大阪高麗橋から和歌山まで、住吉や堺、岸和田など湾岸の町々を結んでいた。当時は和歌山方面へは、熊野街道が主要な通りだったが、海沿いの町が発展するにつれて物流などが盛んになり、主要街道となった。紀州徳川家の六代宗直以降は参勤交代にも用いられ、さらに整備が進んでいった。岸和田は城下を通る幹線街道で、交通量の多い府道の一つ裏ながら、なまこ壁の土蔵、千本格子に竹矢来の民家、黒壁や虫籠窓やうだつの商家などが建ち並び、古風なたたずまいを見せている。

古い町家は、岸城町交差点を入ったあたりから市役所別館の間に集中。岸城町交差点側から、八百屋の卸をやっていた角地の川崎邸、大正初期の二階建築の虎野邸、魚問屋の店舗で表に蔵を置く金納邸、表半分に土間を設けた両替商の久住邸など、どれも現在も人が住んでいながら、それぞれの前に案内板が置かれている。史跡的見どころとしては、本町の地車(だんじり)小屋がある紀州街道本町一里塚、観光物産販売や休憩施設のまちづくりの館、信濃国の武士・加藤主計が建立した真宗大谷派の念仏道場の円成寺などが続いている。



岸和田てくてくさんぽ5

2021年01月31日 | てくてくさんぽ・取材紀行
城外へ出てすぐの高台に、紀州街道方面の展望所が設けられている。連なる瓦屋根がかつての城下町で、かつては紀州街道沿いの本町と中町のやや先に防潮石垣が設けられ、その浜側の石垣筋から海寄りにも大工町、紺屋町、大手町などの城下町が形成された。岸和田城から建物の裏手を下ったところに、祭りに関する展示のだんじり会館がある。祭り提灯に山車蔵をモチーフにした建物で、2階のイベント広場にはかつて祭りで引かれていた、だんじりの現物が展示されている。

ホールに入ると、艶やかな提灯が目を惹くだんじりが、堂々と鎮座。この紙屋町だんじりは、江戸期以前の体裁を残した、古いタイプの代表的なだんじりである。胴部の土呂幕(どろまく)に施された彫り物は、源平合戦や三国志がモチーフとか。岸和田のだんじりの彫刻は木目を生かすのが特徴で、近寄ってみると騎乗で躍動する武者をはじめ細密な装飾が施されている。ほか明治34年制作で100年曳行された、近代だんじりの代表的な沼町だんじりに、文化文政機関に建造された、からくりを備えた現存最古の五軒屋町だんじりも並び、年代によって彫り物の題材や技巧、表現が異なるのがわかる。

上の階には、だんじりのひな型として本物と同じ檜材などで作られるミニチュア「ミニだんじり」のギャラリー、町名や町の特徴をデザインした各町ごとの法被、だんじり曳行の先頭で町を記した纏など。関連する展示の中で面白いのが、模擬だんじりの屋根に登る体験。曳行を指揮する大工方が走るだんじりの大屋根にのり、地上4mの高さで派手な跳躍や踊りで導く様は、だんじり祭りの華と言える。登ると屋根が曲面で、意外と安定しない。滑りやすくもあり、花形ながら命がけの役目でもある。

そしてもうひとつの見ものは、27面マルチスクリーンによる祭りの大画面映像で、注目はだんじりを旋回させる「やりまわし」。前側の衆がグッと引くとだんじりが大きくコーナー外側に振られ、後方の衆が放射状の縄で放り出されないよう抑えると、だんじりがズッとドリフトして向きを変える。だんじりを旋回させるには、屋根にのった「大工方」が方向を指示し、直前直後を引く「前梃子」「後梃子」が梃子を押し引きして旋回させる。

と書けば簡単だが、前梃子はブレーキでピンポイントで減速させたり、後梃子は数本の綱(ドンス)をタイミング合わせて引いたりしないとならない。息が合わないと、きれいに旋回させることはできないのだ。

岸和田てくてくさんぽ4

2021年01月31日 | てくてくさんぽ・取材紀行
再び内堀端の遊歩道へ降り、水鳥が憩うのを見ながら、御殿があった二ノ丸に復元の多聞櫓を見て櫓門から城内へ入る。岸和田城は楠木正成の一族・和田高家が築いた城で、そもそも「岸」という地名の場所を「和田」氏が治めたことが、地名の由来という。戦国時代〜桃山時代には、豊臣秀吉が紀州征伐の際に入城。家臣の小出秀政が5重天守の本格的城郭とし、城下町も整えた。江戸時代は静岡県岡部町が発祥の武将・岡部宣勝以降、13代に渡り岡部家が城主を務めた。別名の千亀利(ちきり)城は、機織りに使う同名の道具と、城の縄張りの形が似ていることからついたとか。

櫓門から石段を上り、本丸に入ると枯山水庭園「八陣の庭」が広がる。天守が再建された昭和28年に、作庭家の重森三玲により作庭。中央の「大将」の石組を囲むように、天陣・地陣・竜神・虎陣・風陣・雲陣・鳥陣・蛇陣が配した造作は、諸葛孔明の「八陣法」をモチーフにしている。天守閣から俯瞰して見るのを意識した、立体的な庭園だ。天守は当時は5層だったが、江戸時代末期の1827年に落雷で焼失、再建され現在は3層になっている。

天守閣の周囲を一周すると、白亜の天守は壁面が眩しく、屋根まわりの装飾もきらびやか。塀には鉄砲狭間が再現され、石垣の古いものには刻印も。地元の泉州砂岩は剥離するため、当時の刻印は残っていないのだとか。小天守も鯱鉾や屋根部の装飾などが施され、多聞櫓と角櫓とともに、往時の本丸の様子が伝わるよう復元されている。