ウマさ特盛り!まぜまぜごはん~おいしい日本 食紀行~

ライター&編集者&散歩の案内人・上村一真(カミムラカズマ)がいざなう、食をテーマに旅をする「食紀行」を綴るブログです。

カフェマーレライ@和歌浦

2021年01月30日 | 旅で出会った食メモ
あしべ橋の手前、アートキューブ2階にあるカフェで、野菜ソムリエがプロデュースする地産食材を使った健康的なランチがいただける。モーニングのプレートも、野菜をベースにした料理の数々。

根菜のスープはカブ,にんじん、ブロッコリー、エノキなどが細かくされて入り、コンソメの薄味なので野菜の味がいい。県産の玄米、彩りサラダに、サンドイッチの具は大豆ミートの健康カツ。さくさく感があり食べ応えありつつも、お腹に軽く負担がないのがいい。

角の二面が大きく窓がとられ、不老橋の石橋や妹背山の島、和歌川河口の干潟を一望。オーガニックコーヒーを食後にいただきながら、和歌浦の景勝を眺め一息におすすめだ。

カレーヤ食堂@和歌山市駅

2021年01月30日 | 旅で出会った食メモ
駅のそば、市堀川を渡ったところの大衆洋食屋。店内は広めで、こぢんまりした馬蹄形カウンターの一角のほか、4人がけのテーブル席が並ぶ。これがランチ時は、地元客でほぼ満席となる、普段使いの人気店なのである。

「カレーヤ食堂」との店名ながら、名物はカレーじゃなく、バラホル。甘辛いタレで肉を炒めたもので、その名ながら肉はホルモンでなく、ホルモン焼き用のタレでバラ肉を炒めたことからのネーミングとか。これが飯が進むこと、甘ったるいタレが、薄いながらドカ盛りのバラ肉にベストマッチで、肉をガツガツ、飯をワシワシのエンドレスループにはまる。和歌山では知られた、この店オリジナルのB級グルメらしく、店頭には幟まで掲げられていた。

単品で480円の値段も感涙もので、嬉しさのあまりメンチでなくミンチカツも追加。皿にゴロリ一つ、大きく厚い存在感で、ひき肉ベース玉ねぎ少々のみっちり詰んだ食べ応え。デミソースっぽいオリジナルソースが手間がかけられた味で、本格洋食らしい品が感じられる。愛想はないながら親切なおばちゃんもまた、いい味出しており、勢いで店名ゆかり?のカレーもつい、頼んでみたくなりそうな。

和歌山てくてくさんぽ7

2021年01月30日 | てくてくさんぽ・取材紀行
紀陽銀行の先、市街を東西に横切るアーケードのぶらくり丁は、1380(文政13)年に界隈の大火の後に生まれた歴史ある商店街。界隈に衣類や食料を扱う商人が集まり、店頭に商品をぶら下げたことが名の由来という。

現在は日用品の店舗が中心で、チェーン店は見られず個人商店が多いため、昔ながらのローカル商店街らしい素朴さが漂う。中程のぶらくりキッチンは、県産食材のランチとテイクアウトの店。こちらにも幟、屋根から提灯をモチーフにしたオブジェがかかるなど、観光のPRも行っている。通りは和歌川まで中ぶらくり丁が続き、築地通りを北へ行くと北ぶらくり丁も。衣類、洋品、呉服、時計貴金属が中心で、こちらの方が生活感にあふれている。

手書きで仕上げる和紙提灯が並ぶ店を見ながら本町通り北側を抜け、城北通りに出ると和歌山市駅まで10分ほど。お疲れ様でした。

和歌山てくてくさんぽ6

2021年01月30日 | てくてくさんぽ・取材紀行
和歌山城大手門からは本町通りを北へ、和歌山市街の繁華街を歩く。本町通りは大手門が一之橋口に移されてからの、大手筋にあたる。京橋までがかつての三ノ丸外曲輪で、あたりは水野土佐守などの武家屋敷街が続いていた。

市堀川にかかる京橋は、かつての和歌山城の玄関口として賑わった場所。ここを境にして、武家町と町人町とに分かれていた。橋の南には京橋御門が設けられ、門跡の碑が残っている。橋から川を見ると和歌山城寄りの方が地面が高くなっており、川岸に石垣も残るなどかつての城内側であったことを偲ばせる。北側にはかつて番所と火の見櫓が置かれ、人の出入りの警戒や城の守護にあたってていたという。

当時の市堀川はかつては川幅が36mほどあり、紀伊水道の海路とも繋がった物流の動脈。京橋の西側の荷上げ場は納屋河岸と呼ばれ、米や野菜・鮮魚・生活物資などが流通して賑わっていた。現在は橋の両側は広場になり、「鞠と殿様」が流れるからくり時計と、鞠のオブジェが配されている。

本町通りの沿道には、市の観光PRキャラの吉宗くんと和歌山城のイラストをあしらったフラッグが掲げられ、舗道も整備され歩きやすい。商業施設や銀行、ホテル、老舗の商店が並び、京橋の北側の紀陽銀行本店は昭和29年築の銀行建築。中央に4本の円柱が立ち、正面には和歌山県出身の彫刻家保田龍門氏による林業・漁業・柑橘・繊維の、和歌山県の主要産業を表すレリーフが配されている。

和歌山てくてくさんぽ5

2021年01月30日 | てくてくさんぽ・取材紀行
岡口門から再び、和歌山城の中へと入る。岡口門は羽柴秀長が城主の頃に設けられ、当時は南東側のこちらが、表門にあたる大手門だった。それが浅野幸長の時代に、大手門が一の橋口に移され、裏門の搦手門に改修。二階建ての櫓門形式で、かつては南側に二重櫓、北側に御蔵も備え、表門の体を成していたという。枡形を入って左側が、大手門から続く登城路の表坂。階段の幅が広く緩やかで、後の時代の主要登城路だったことが窺える。このあたりは、時代により石垣の3種の積み方が見られるのも興味深い。

豊臣秀長〜桑山重晴の頃は和歌浦などでとれる「紀州青石」を自然石のまま積んだ「野面積み」。やや不安定に見えちょっと強度が心配に見えなくもないが、古式の城郭らしい荒々しさがある。浅野幸長の時代の大改修では、友ヶ島の「和泉左石」を加工して積む「打込みハギ」。さらに徳川頼宣による増築時には、熊野の「花崗斑岩」も用いた、精密加工による「切込みハギ」という技法に。特に切込みハギは石と石と接触面がピタリと合っており、安定感かつ美しさも感じられる。

枡形を過ぎ、内堀にかかる大手門から城外へ。浅野幸長の時代にこの一之橋口を大手門とし、こちら側に大手筋と武家屋敷、町人町を整備して城下町の中心とした。太鼓橋の一の橋とともに再建され、高麗門形式に復元されている。