ウマさ特盛り!まぜまぜごはん~おいしい日本 食紀行~

ライター&編集者&散歩の案内人・上村一真(カミムラカズマ)がいざなう、食をテーマに旅をする「食紀行」を綴るブログです。

旅で出会ったローカルごはん107…高知 『ひろめ市場』の土佐の味覚と、桂浜界隈の龍馬の見どころ

2008年11月26日 | ◆旅で出会ったローカルごはん

 昨晩泊まった、高知県と愛媛県の県境に位置する天狗高原では、夜の気温が一ケタという冷え込みだったのに、ここ桂浜は秋晴れの下、Tシャツ1枚でも大丈夫なぐらいの強い日差しに汗ばむほどだ。改めて、東西に長く山も海も有する高知県の広さを実感してしまう。
 竜馬ゆかりの見どころを中心とした、幕末維新のコースをたどる「土佐であい博」モニターツアーの中でも、この日の午後のルートは桂浜に龍馬像に高知県立龍馬記念館と続くハイライトである。特に桂浜の龍馬像は、高知県で一番有名な坂本龍馬ゆかりのスポット、といっても異論のないところだろう。竜頭岬の高台に立つその姿は、あの有名な肖像写真の姿そのまま。片手を懐に入れて、足元はブーツといういでたちで、何を想いながらか遠く太平洋を望んでいるのだろうか。

 龍馬像はこれまで何度か訪れたことがあるけれど、この像が募金によって建てられたという話は、案内の「土佐観光ガイドボランティア協会」の方の説明で初めて知った。大正15年、高知出身の早稲田大学の学生が、郷土の偉人である龍馬の功績を残すべく、日本一の銅像を建てようと建造費の募金を募ったという。
 像の建造には、当時のお金で2万円が必要だったが、より多くの人に建造に協力してもらうことを主旨として、募金の額はひとりあたり20銭と安く設定したというのが興味深い。時の大財閥である岩崎家が、5000円もの大金を寄付する旨を申し出た際、この主旨に合致しないために断った、という逸話に、いごっそう(頑固で気骨ある)な土佐人気質が垣間見られる。

 
下から見上げる竜馬像。頭の高さだとこんな感じ(右)

 99年に大規模な改修が行われた際には、工事用の幕で覆われた像に隣接して、顔の高さまである展望台が設けられた。以後、毎年竜馬の命日である1115日前後に「龍馬に大接近!」と題して、展望台が特設されている。高さ13メートルある龍馬の顔の位置まで登ると、遠くに太平洋の水平線がぐるりと展開していて、雄大かつ爽快な眺め。とはいえパイプ組みの仮設の展望台は、多人数が登ると頼りなくゆらゆら揺れ、竜馬の目線を体感するには少々、スリルがある。
 ちなみにその改修時にも建造時と同様に、修繕費用は全国から募金で集めている。県内の小学生からは、ひとり100円で募金を集めたのだが、親からもらうのはダメ、あくまで自分のおこづかいから出すことが決まりだったとか。銅像を建造した当時の精神を、今の時代もなお伝えているのが分かるエピソードである。

 その桂浜の裏手の、山内氏の前に土佐藩を治めていた長宗我部氏の居城があった浦戸城跡に、高知県立坂本龍馬記念館の斬新なデザインの建物が位置している。高知市周辺に龍馬関連の展示施設がいくつかある中、ここは龍馬にまつわる様々な史実を特に深く掘り下げており、全国からの龍馬ファンが訪問する大変人気の高い施設である。
 入口から階下の展示室へと降りていき、まず目に入るのは2枚の写真である。1枚はさっきの龍馬像をはじめ、これまでに何度も見た、龍馬のあの立ち姿の基となった肖像写真だ。陶板画による名画の美術館、徳島の大塚国際美術館の技術協力により、陶板にカラーで焼かれたものが掲示してある。

 
いろいろな見方がある竜馬とお竜の写真。右は新婚旅行の手紙にあった絵図

 学芸員の方の解説によると、撮影されたのは長崎の上野彦馬のスタジオで、土佐藩の井上俊三が撮影したのが定説とされている。当時の写真は露光に時間を要し、龍馬のこの写真撮影では7~8秒ほど同じ姿で静止していたといわれている。
 そして話題はやはり、懐に入れた手に持っているものについてだ。高杉晋作にもらったスミス&ウエッソンのピストル、航海用の海図、国際法を解説した「万国公法」など諸説あるが、この館の見解としては、懐中時計とのことだった。ピストルは池田屋で襲撃された際に落としたとされること、袴からひもが出ていること、常々愛用していて肌身離さなかったこと、などから懐中時計の可能性が高いそうである。中にはお竜さん宛のラブレター、腹を掻いている、なんて俗説も言われており、見る人それぞれの竜馬観をもとに、楽しみながら想像するのがいいのかも知れない。

 さらにその隣には、竜馬の奥さんであるお竜さんの写真が掲示されている。お竜さんの写真は、神奈川県横須賀の信楽寺に所蔵されていた晩年のものしかなかったのだが、その後30代の頃と思われる、立ち姿といすに座った姿の写真が発見された。この若い頃の写真と晩年の写真を比べると、目がかたや二重、こちらは一重だったり、着物の着方が芸者の流儀だったりと、信憑性が疑われる要素がいくつかあったらしい。
 そこで館は、これらの写真が同一人物か鑑定することにしたのだが、依頼した先はなんと、科学警察研究所。事件捜査における鑑識のスペシャリストである。その結果、2枚の写真の人物の目の間や鼻、口の位置などの相似から、「ほぼ同一人物である」との鑑定結果が出たそうである。
 若い方の写真は、確かに芸者と見まごうほど美人で、いかにも気が強そうなきりっとした顔立ちだ。実際に向こうっ気が相当強かったらしく、だまされてヤクザに売られた妹を助け出しに、単身乗り込んでいったという武勇伝も残っているのだとか。

 そんな二人の写真にまつわる逸話を伺い、館内の展示へに目を向けると、書簡が実に多いのに驚く。竜馬は大変筆まめで、139通出したとされる手紙のうち、100通が現存しているという。この館はそれら手紙の展示と、文面の解釈の解説が、売りのひとつとなっている。
 自身の運の強さを「運のわるいものは風呂よりい出んとして、きんたまをつめわりて死ぬるものもあり」とユニークに表現したもの。長州藩に攻撃された外国船を、幕府が修理したとの話に憤慨、「日本を今一度せんたくいたし申候」と記したもの。時勢を読んでの行動を、おできの治療のタイミングに例えた「ねぶと(おでき)の手紙」など、ほとんどが乙女姉さんに綴った手紙で、どの手紙からもその時々の竜馬の心情がリアルに伝わってくる。
 中でも数人に宛てて出したお竜との新婚旅行の手紙は全長9メートル、うち乙女宛は1メートル70センチもの長編だ。旅行の直前に遭遇した池田屋事件の詳細が綴られているほか、旅行で訪れた韓国岳や高千穂岳の絵図も描かれているのが面白い。見かけた花や植物、道の歩きやすさなど、歩いた区間ごとの様子を記したコメントも入っていて、これは本職のガイドブック編集者もうなる出来かも?

 龍馬記念館の見学後は、桂浜からいよいよ高知市街の中心部へと入る。路面電車の通りに面した竜馬の生誕地碑や、「龍馬の生まれた町記念館」がある上町界隈、鏡川沿いの石垣の町並みなどを散策したところで日没となった。今夜は市街のシティホテルに宿泊で、夕食は市街屈指の繁華街、帯屋町の「ひろめ市場」へと繰り出す予定だ。土佐の味覚をはじめ周辺の山海の幸、こだわりの酒と肴、さまざまな国の料理にテイクアウトなど、約60軒の店舗が軒を連ねる屋台村である。
 各店で好きなものをオーダーして、設けられた飲食スペースでいただく仕組みで、まずは場内を一巡してみることに。のれそれやどろめ、酒盗など珍味の肴を小鉢で売る店、ウツボ、クジラ、川エビなど土佐名物の品書きが短冊でずらり掲げられた店など、どこも魅力的だ。カツオはいたるところで扱っていて、普通のタタキに塩タタキ、トロカツオ、たたき丼もある。



ひろめ市場で見つけた、酒の肴の数々。ローカルなものからファストフードまで、幅広い

 結局、珍味の店でカツオの角煮とニンニク青唐辛子和えを買い、これとほかの誰かが頼んだ料理もご相伴に預かりながらビールをあおる。四万十川産の青さのりの天ぷらは磯の香プンプンで、中身がねっとり。じゃこ天は骨や頭も一緒にすり身にする宇和島のに対し、高知のは身だけ使うため甘く上品な味わい。このあたりの川に生息しているという川エビはパリパリ香ばしく、長いハサミが特に香りがいい。
 2回戦は日本酒でいこう、と再びオーダーに出ると、店頭に地酒の一升瓶がずらり並ぶ店に遭遇。ワンショット100円で売っており、5種適当にお願いして利き酒に挑戦だ。「司牡丹」「土佐鶴」の有名どころに加え、選んでもらったのは四万十町・無手無冠の「千代登」、絵金ゆかりの赤岡町・高木酒造の「豊の梅」、お隣は土佐市の「亀泉」。酒処・土佐の酒らしく、全体的に淡麗辛口のとんがった口当たりで、タタキやどろめ、ちゃんばら貝といった土佐の魚介との相性はさすがに抜群である。

 とくれば、土佐を代表する酒肴・酒盗ははずせない。酒盗はカツオの内臓の塩辛のことで、さっきの珍味の店で買ってつまむと、カツオの香りが凝縮、本場らしくカツオの鮮度がいいのか生臭みはまったくない。ザクザクとした食感にしょっぱいぐらい濃い味のおかげで、これは酒が進む。
 地元の方お勧めの四万十町・文本酒造の「桃太郎」をお代わりすると、こちらはしっかりと厚みがある味わいで、さっきの5種に比べるとどっしり飲みごたえがある。酒盗をちょっとつまんで、5種を順に利き酒して、とやってると、まさに盗まれるがごとくどんどん空になっていってしまっていけない。

 
江ノ口川畔の道路にある安兵衛の屋台。名物の餃子は小振りでどんどん食べられる

 中岡新太郎ゆかりの北川村、岩崎弥太郎出身の安芸市とまだ明日も残っているけれど、とりあえずこれにて竜馬ゆかりの地をたどる一連の視察はひと段落、といった感じ。そのバイタリティーに感銘を受け、人間味に魅了され、幅広い角度から竜馬の魅力に触れられた、そんな2日間だった。また視察先の各地ではであい博のテーマであるおもてなしを通じて、いろいろな人との出会いも体感。さらにであい博から再来年の「龍馬伝」へと向けて、引き続き高知の観光の動向に注目していきたい。
 もっとも、「出会い」のおかげで意気投合した皆さんとの、土佐の酒宴はまだまだ終わらなそうだ。2次会は高知の名物屋台の「安兵衛」へと河岸を移し、小振りでジューシーな評判の餃子を肴に、さらに熱く盛り上がるとしようか。(20081114日食記)


旅で出会ったローカルごはん106…高知・天狗高原 『天狗荘』の、てっぺん天狗のセラピー弁当

2008年11月24日 | ◆旅で出会ったローカルごはん

 朝、目覚めて窓からの景色を見下ろすと、天狗高原には一面の霧が広がっている。四国屈指の高所ならではの、輝くような日の出を期待したのだが、朝日はもちろん、日本三大カルストに挙げられる四国カルストの景観も、残念ながら望むことができない。
 昨夜の深酒の影響が少々残っているため、食欲がいまひとつな感じで食堂へ。朝食は定番の和洋の定食か、それともバイキングかと思っていたら、たっぷりの野菜に果物、ヨーグルト、そしてパンは何と、おからで作ってあるヘルシーメニューと、なかなか考えられている。ずっしり詰まったおからパンが重そうだったけれど、瑞々しい野菜のおかげで胃がすっきりと動き出し、気がつくとすっきりと平らげていた。

 土佐であい博モニターツアーで訪れた、高知の視察2日目の朝は、高知と愛媛の県境、標高1400メートルの天狗高原に建つ「高原ふれあいの家天狗荘」で迎えた。この日の午前中は、「森林セラピー」なる体験メニューにチャレンジの予定である。
 天狗荘と周辺の森林は、林野庁制定の森林セラピー基地に認定されており、宿泊とアロマセラピーやヨガ、セラピー料理、さらに森林散策をとりいれた、セラピーメニューが用意されている。先ほどの朝食の献立もメニューの一環で、すでにメニューがスタートしているらしい。
 体験メニューに入る前にストレスチェックを受け、終了後にどれほどストレスが減っているか確認するという。チェッカーを舌の裏にくわえ、アミラーゼの量で判断するそうで、数値が0から30以内だとストレスなし、30を超えるとややストレスあり、とのこと。
 昨夜は高原の宿でうまい酒をしこたま飲んで、ワイワイと盛り上がって、と発散したから、大して数値は上がらないだろうと思ったら、自分の測定値は33と、ややストレスありな数値。二日酔い気味のせいか、それとも測定直前にかけた、仕事がらみの電話がいけなかったのだろうか? ちなみに参加者の最低値は7、最高値は何と300! 

 各自、ストレスの度合いが判明したところで、最初のセラピーメニューはアロマテラピー。指導員のもとで、アロママッサージと手入浴を体感することとなった。手入浴は、自家製の無農薬緑茶と牛乳を加えた湯の中へ、手のひらを浸すもので、手から成分がしみこみ、血行がよくなる効能があるそうである。
 温浴中に流す香りは効能別に用意され、頭がスッキリするレモンとローズマリー、リフレッシュできるラベンダー、エネルギー不足に聞くゼラニウムとオレンジなど。この後の視察へのエネルギー補給のために、ゼラニウムとオレンジの香りを選び、湯に手を浸して、ゆっくりと開いたり閉じたりしていると、手だけ湯につけているのに全身が温まり、次第に汗が吹き出てくる。終わると肩や目が楽になりで、かなり上体が軽くなったような気分。これは全身浴に近い効果があるかも。

 

緑茶と牛乳の湯に手を浸す、手入浴。香料は左の3種から選べる

 体が温まったところで、続いては自身で施術するアロママッサージ。植物オイルをぬり、足裏から指、甲、ふくらはぎ、すねの順に、足先から体液を戻す要領で、力を入れずにゆっくりと押し上げていく。オイルのおかげですべりがいいものの、施術する手のほうが、結構くたびれてきて大変だ。
 「やっているのではなく、やってもらっている意識が大切」と話す、指導員の方に手伝っていただくと、やはり何もせずやってもらうほうが楽は楽? 仕上げに膝の両側にアロマオイルを塗ってもらうと、足のむくみがとれて軽くなった感じがする。視察では連日、丸一日歩き回ることが多いので、中日にこうしたケアはかなりありがたい。

 万全のフットケアが施されたところで、メインメニューである森林セラピーへといざ、出発だ。林野庁認定の天狗高原セラピーロードのうち、往復2キロのカラマツ林ロードをゆっくりと散策して、セラピーメニューの仕上げである。
 このコース、歩道にヒノキのチップが敷いてあり、クッションが柔らかく実に足腰にやさしい。入口のところにはこのチップが山積みになっていて、傍らにかけてある網袋に詰めて持参、コースに撒きながら散策することで、歩行者自ら歩道をケアする仕組みなのが面白い。
 歩いていると、ヒノキのチップと落ち葉の香りがむせ返るようで、まさに森林浴、といった感じ。沿道の林はブナやモミ、ヒメシャラなど、この季節はアザミやコマユミの可憐な花も見かけられる。カルストらしく、たまにに石灰岩が露出しているところも。
 途中に設けられているベンチはビューポイントで、天気がいいと連なる山々、その向こうに太平洋もちらりと望めるのだそう。この日はあいにくの霧で、山肌を沿うように湧き登ってくるのが圧巻である。時折、霧が切れて日が差し、山肌の早い紅葉がくっきり、鮮やかに浮かび上がってくる。

 

ヒノキのチップが敷かれたセラピーロード。森林浴気分を満喫できる

 「これぐらいの霧のほうが、このコースはいい雰囲気なんですよね」と、先達で案内する天狗荘の方によると、このコースはただ歩くのではなく、自然とのふれあいを肌で感じながら散策するのが楽しいという。チップや落ち葉に座ってみたり、寝転んでみたり。苔蒸した木肌やヒメシャラのツルツルの木肌に触れて、温かさを比べてみたり。途中の谷筋を境に、風の冷たさが変わるのを感じてみたり。熊笹の丈の変化など、植生が変わるポイントに注目してみたり。云々。
 プログラムでは、折り返し地点の小広場で、特別メニューの「セラピー弁当」を食べたり、ヨガを体験したりするらしい。ハンモックを吊る構想もあるそうで、ここで陽だまりの下、揺られながら読書などしていたら、日頃のストレスなど跡形もなく吹っ飛んでいくだろう。

 アロママッサージと森林セラピーのおかげで、体験メニュー終了後に行ったストレス値の再チェックでは、見事5ポイントダウン。数値28の、ストレスなし状態となったところで、お世話になった天狗荘を後にする。カルストの高原から再び、里へと下り、竜馬や志士の足跡をたどる視察メニューに戻ることに。
 天狗荘のある津野町は、昨日訪れた梼原町に並び、幕末の志士を多く輩出した地である。土佐勤皇党からの最初の脱藩者である志士、吉村虎太郎が生まれた村でもあり、現在も生家の門が残り、津野町西庁舎のそばには彼の銅像が、町の中心部を見下ろす高台に立っている。
 像のそばには、四万十川の「裏源流」と呼ばれる北川が流れており、天然のアユが大きく生育することで知られるとか。昨日は昼食も夕食も、アメゴやニジマスといった川魚料理が出てきたのを思い出し、そろそろ昼時とあれば、今日の昼食の山里料理も気になってくる。

 

四万十川「裏源流」の町、津野町。セラピー弁当は竹の折入り

 その昼食は、セラピーメニューの仕上げにもなっており、津野町西庁舎の会議室にて、お弁当をいただくことになった。竹製の折に入った、見るからに田舎風の弁当は、その名も「てっぺん天狗のセラピー弁当」なるネーミング。天狗荘で調整している弁当で、ふたを開けると、雑穀米のおにぎりが3つに、山菜の膾、ナスの煮浸し、梅干に梅豆腐など、近隣の山の味覚盛りだくさんのおかずが、見るからに優しそうだ。
 おにぎりは塩を軽めにしてあり、梅干や梅豆腐と頂くと食が進むこと。膾はキクラゲ、ダイコンに、ネマガリタケで、これもしっかり酢がきいているため、おにぎりのおかずにピッタリだ。この日の川魚はマスの天ぷら。つくねともども、野菜中心のおかずの中でしっかり食べごたえがあるのがうれしい。本来は、先ほど歩いたセラピーロードで頂くそうで、おにぎり3つは女性には多いように思えるけれど、あの環境の中だと食が進むらしく、結構平らげてしまうのだとか。

 デザートの柿と柚子羊羹を頂くと、程良い満腹感が心地よい。このあとは一路、高知市へと向かい、桂浜に竜馬記念館、上町の竜馬生誕の地など、夕方まで竜馬ゆかりの見どころ目白押しの視察が続いていく。
 そして今度は四国山地から土佐湾へ向けて、西から東への大移動だ。山間を揺られ、高速道路を走るバスの車中では、セラピーの効能とこの満腹感のおかげで、再び午睡してしまうこと間違いなし、か? (20081114日食記)


旅で出会ったローカルごはん105…高知・天狗高原 『天狗荘』の山の味覚と、梼原町脱藩の道散歩

2008年11月23日 | ◆旅で出会ったローカルごはん

 土佐山田駅前の酒造レストラン「文蔵」で、土佐であい博モニターツアー最初の食事をいただいてから、午後の視察先に向けて一路、梼原村を目指す。昼食をとった香美市が、高知市のやや東に位置するのに対し、梼原村は高知県の西北端、愛媛県境に近いところに位置するため、ここから一気に西へ向かって大移動である。
 酒造レストランで期待していた試飲は、この後の視察があるためにお預けだったけれど、酒が入っていないにも関わらず、バスが高知自動車道に入ってしばらくしたら、心地よい揺れについ、午睡。再び目覚めると車窓の風景は一変、のどかな田園地帯だったのが、緑に包まれた深い山間を縫うように、バスは走っていく。黒潮に面した南国風景のイメージが強い高知だが、北部の県境あたりは四国山地であり、高知の「山」を実感する風景が続いていく。

 そんな山間風景がやや開けたところで、梼原町の中心地が見えてきた。四国カルストも有する高原の町で、「高知の中でも秘境と呼ばれるところなんですよ」と笑う役場の方。町は地図で見ると、ちょうど愛媛県側に張り出すように位置している。町の面積の9割を山林が占めるという林業の町で、役場の庁舎も木材を多用した立派な建物だ。
 そしてこの村は、坂本龍馬の足跡をたどる上で、重要な場所でもある。強い尊皇攘夷思想を掲げる土佐勤皇党との思想のずれを感じた竜馬は、1862(文久2)年に土佐藩を脱藩するのだが、その時にこの梼原町を経て、伊予国(愛媛県)の大洲へと無事、脱藩を果たしている。町ではその「脱藩の道」を中心に、町に残る竜馬の足跡や、町ゆかりの志士たちの史跡を巡るプログラムを用意。案内人が先達をつとめてくれるというから、これまた自分ぐらいの竜馬の知識でも、分かりやすく楽しめるらしい。

 役場のエントランスホールで案内人の到着を待っていると、しばらくして3人の侍が登場した。うちふたりは長髪を後ろで束ねており、これは言うまでもなく竜馬だ。もうひとりは角刈りのやや強面(?)で、さっき竜馬歴史館で見た岡田以蔵風。土佐勤皇党に関わり、要人の暗殺に暗躍したとされる「人斬り以蔵」は、マンガ・ゴルゴ13のようなスナイパーといった役割で、幕末の歴史ファンには人気のある人物である。
 このお三方が本日の案内人とのことで、竜馬ファンにとってこのゴージャスなメンバーと脱藩の道を歩くのは、感動モノの体験だろう。役場に近い、昭和23年築の芝居小屋・ゆすはら座を見学して、里山のはずれをゆるゆると登り、茅葺の小さなお堂のような場所でひと息。「茶堂」というこの建物、仏が祀られた信仰の場であるとともに、地元の人たちの社交場でもあったという。名のとおり、昭和30年代頃までは、地区の人たちが交代で茶菓子による接待を行っていたとか。

 

茶堂の縁側に腰掛ける、ガイドの3人。右の掛橋邸は、吉村虎太郎の屋敷跡に建つ

 趣のある茶堂の縁側に、3人の侍に腰掛けてもらうと、これが絵になること。実はお三方とも、「土佐であい博」公式ガイドブックの、脱藩の道コース掲載の写真のモデルでもあり、誌面を見ると峠道にたたずむ3人の後姿の写真が、なかなかさまになっている。
 「後姿だとかっこいいんだけどね」と笑っているおひとりの本職は、地元で建設業を営んでいるとのこと。竜馬も以蔵も30才そこそこで逝去したが、こちらの志士の方々は子だくさんの方、孫がいらっしゃる方と、バラエティに富んでいる。強面以蔵が、地元のおばちゃんとすれちがう際にニコニコ愛想よく挨拶していくのが、なんだか可笑しい。とはいえ、このいでたちによれよれの着物で「…ぜよ」「…じゃきに」と土佐弁で語られれば、脱藩の志士の風格は存分に感じられる。

 茶堂から下ったところにある六志士の墓には、土佐脱藩第一号の吉村虎太郎、槍の使い手である那須俊平、脱藩者を経済的に支えた掛橋和泉など、梼原ゆかりの志士が眠っている。竜馬が脱藩の際にこのルートをとったのも、彼らの支援により安全に脱藩できることを期待したからといわれている。
 志士のひとり、掛橋和泉の邸では当時、この土地の志士たちが集っては、囲炉裏を囲んで議論したといわれる。現在はもと吉村虎太郎宅があった場所に、旧掛橋邸の茅葺の庄屋屋敷が移築されていて、囲炉裏もちゃんと残っていた。現在は集会所として貸し出されているそうだが、案内人の3人と囲炉裏を囲んで、茶碗酒を酌み交わすようなプランがオプションにあると、さらに人気が出るかも。
 そして、このガイドウォークのハイライトといえるのが、三嶋神社だ。町内産の木材をふんだんに使った、屋根つきの神幸橋を渡った境内には、樹齢400年のハリモミの木がそびえている。「この木は、脱藩する竜馬の姿を見下ろしてたかもね。今から140年前だから、今より低かったろうけれど」と語る以蔵氏の言葉に、時を越えたリアリティが感じられてならない。竜馬はあの樹の幹にも触れただろうか、その辺にあった切り株に腰掛けて、ひと息ついたのだろうか。
 三嶋神社の裏手の山道が、であい博のガイドの写真の撮影ポイントなので、せっかくだからお三方に歩いてもらって撮影タイムを設けてもらうことに。逆光の中、山道を登っていく3人の侍の後姿は、故郷を捨てて「日本の夜明け」に向けて歩みを進める覚悟、といった趣がある。
 が、逆に坂の上から登ってくる様子を3人の正面からカメラを向けると、みな意識してどうしても笑ってしまっている。撮った画像をチェックしたら、緊迫した脱藩シーンというより、侍コスプレで里山ハイキング、といった風情だ。先ほどどなたかが話していた、「後姿のほうがさまになる」というのも、ごもっともか?

 

三嶋神社境内裏手の山道を、脱藩の志士が登っていく。右がこの日のガイドさんで、
左から川上さん、下元さん、西村さん。

 脱藩の道を歩む竜馬と那須俊平、戦装束の吉村虎太郎ら梼原ゆかりの志士たち、それを見守るように後方に立つ掛橋和泉と、志士オールスターの銅像が並ぶ広場「維新の門」の前で、ガイドツアーは無事、終了となった。お三方とはこのままのいでたちで、夜の宴席にご参加いただくと盛り上がるところだが、名残惜しいがここでお別れである。
 今宵の宿泊先に向けで、バスは山峡をさらに奥へと走る。険しい斜面を九十九折で登り続け、地芳峠を経て四国カルストの高原地帯へと入った。すでに日は暮れており、緑の山腹に白い石灰柱がボコボコと顔を出した独特の景観は見られないのが残念。このあたりは、高知と愛媛の県境が錯綜しており、走っている道路も両県を行ったりきたりしているよう。
 この日宿泊する、天狗高原の「ふれあいの家天狗荘」は、標高1400メートルの高所に位置し、四国カルストはもちろん、遠く石鎚山、さらに太平洋まで一望の、眺望抜群の宿である。建物は両県にまたがって建っており、館内の全フロアに、高知と愛媛の県境のラインがひいてあるのが面白い。

 夕食もお昼と同様、里と山の味覚盛りだくさんの料理がズラリ並んだ。三種盛りには、切干よりも風味が強烈な干しダイコンに、ねっとりと濃厚な今年とれたサトイモ、肉厚で山の芳香プンプンのシイタケフライ。煮物はゼンマイにシイタケ、カボチャに、お昼の田舎寿司でもいただいたタケノコ、こんにゃくも盛ってある。山菜はシャッキリ、クキッとした歯ごたえで、酢の物のミョウガ、ウドとともに、こちらも香りが鮮烈だ。
 これは酒が進むいい肴、ということで、お昼にお預けとなった、土佐山田・アリサワ酒造の「文佳人」が、ようやくここで登場である。土佐の酒は俗に「淡麗辛口」とくくられるように、魚介に合うさっぱりと切れのいい印象だが、これは口当たりが甘くボディがどっしり、なのに後味はキリッとした、実に飲みごたえのある酒だ。さらに出された栗焼酎は、トロリとなめらかな甘みがまるで高級ブランデーのよう。
 
酒が入っていくにつれ座が盛り上がり、宿の事務局長さんも宴席に参入してきた。上方漫才のかつての重鎮的コンビの、破天荒なあの方にそっくりの風貌だと思っていたら、お約束らしくメガネ探しのパフォーマンスを披露していただくなど(笑)、サービス精神旺盛だ。天狗高原の話になると、全国の天狗ゆかりの地に声をかけての「天狗サミット」の開催、四国カルストから天狗高原への自転車レース「ツール・ド天狗」など、同席者からもいろいろな面白いアイデアが飛び出してくる。中には夫婦和合や子宝のご利益で売ってみては、など、酒の勢いもあってちょっと危ない提案も?

館内を貫く県境をまたいで立ってみる。料理は中央がニジマス、右がシイタケのフライなど。

 四万十源流育ちというアメゴのあんかけ、ニジマスの刺身、雉鍋と、魚も肉も山の味覚を堪能、締めの棚田米のご飯をいただくと、かなり満腹となった。腹ごなしと酔い覚ましを兼ねて、屋外で満天の星空をスターウォッチング、の予定が、今日は見事な満月。残念ながら一等星や二等星、金星、カシオペヤぐらいしか判別できなかった。晴れていれば四国最高峰の石鎚山や、遠く土佐湾も望めるそうで、目を凝らすと室戸岬灯台の赤い灯が、時折点滅しているのが分かる。
 星は眺められなくても、見上げた満月は空気が澄んでいるからか、それとも高所だからか、まばゆいばかりの輝き。都会で見る月よりもやや大きく見えるようで、餅をつくウサギの影も、くっきりと肉眼で拝めるほどだ。月明かりは脱藩する者にとっては、闇の中行き先を照らすありがたい存在だったのか、それとも追っ手を逃れるにはやっかいな存在だったのだろうか。ウサギを眺めつつ、竜馬も梼原のどこぞの峠か山道で見上げていただろう、140年前の月明かりを想像してみた。(20081113日食記)


旅で出会ったローカルごはん104…高知・土佐山田 『文蔵』の田舎寿司と、龍馬記念館

2008年11月23日 | ◆旅で出会ったローカルごはん

 ことしの6月、NHK2010年の大河ドラマの製作発表が行われ、坂本竜馬の生涯を綴った「龍馬伝」が放映されることになった。竜馬を演じるのはキムタクか、はたまた織田裕二か、と話題を呼んだが、先日福山雅治に決定した、とのニュースを目にした。これからしばらくの間、竜馬の出身地でもありドラマの舞台にもなる高知は、全国的な注目を浴び、竜馬ファンと福山ファンで賑わうこと間違いなしだろう。
 それに先駆けて、竜馬の足跡を中心とした、幕末維新のコースをたどるモニターツアーが催され、3日ほど高知を巡ることになった。このツアーで視察する対象は同時に、高知県全域で催されている「花・人・土佐であい博」のイベントでもある。「であい博」は博覧会と称しているけれど、パビリオンが並ぶ会場が設けられているのではない。県内各地の食べ物や豊かな自然、歴史・文化などとの「であい」を体感してもらうことを趣旨とした、地域イベントの集合体である。
 行きの飛行機の中で、竜馬がらみの史実を頭の中で予習しておくつもりが、改めて思い出そうとすると竜馬の生涯って、意外に断片的にしか知らないことに気づく。薩長同盟と勝海舟との会談の前後関係はどうだったか、攘夷派から開国派に変わった転機はどこだったか、さらに竜馬が暗殺されたのが、池田屋だったか寺田屋だったかすらも怪しい。

 高知龍馬空港から最初に向かったのは、野市町にある龍馬歴史館である。高知市をはじめとする周辺には、坂本龍馬を紹介する箱物施設がいくつかある中、ここは竜馬の生涯を出生から順を追って解説・展示しており、竜馬の足跡をたどる際に最初に訪れるのにおすすめだ。自分のように、龍馬についての知識が曖昧な人にもピッタリの施設である。
 入口を入ったところには、ブーツを履いて懐に片手を入れた、かの有名な写真そのままの竜馬の像がお出迎え。この施設、展示には精巧に作られた蝋人形を用いているのが特徴で、竜馬の生涯の代表的なシーンがリアルに再現されているのが見ものであるという。
 髪型を竜馬のように長髪にした館長さんの案内によると、人形の竜馬は自分と丈がほぼ同じぐらい、当時の記録では身の丈五尺八寸というから、176センチぐらいだろうか。当時の人にしては結構大柄な部類に入る。現代では成人男子の標準的な身長だが、福山雅治は181センチもあるというから、ドラマでも竜馬の大柄さは伝わりそうだ。


凛々しい姿の竜馬だが、幼少期は姉の乙女に鍛えられていたとも


 懐中の手に持っているのはピストルか、羅針盤か、懐中時計か。ブーツの左右が逆なのは足を組んでいるからか、履きなれないので間違えたからか。など、この竜馬の写真について必ず出るトリビアもひと通り説明いただき、展示に入るとまずは竜馬出生のシーンから始まりである。
 竜馬は高知城の近くの上町で質屋を営む豪商、才谷屋の五男として生まれた。兄弟とは年が離れている中、3歳年上と年が近い乙女姉さんにはよく面倒を見てもらい、竜馬も後々まで慕い続けたという。母親に抱かれた赤子の竜馬を、母の後ろから覗き込む乙女の姿が、愛らしく再現されてほほえましい。
 などと感心していたら、次のシーンはなんと、ひもつきの竿を持つ乙女姉さん、その紐には吊るされて川で泳ぎを教えられている竜馬が。この姉さん、かなりの女傑と伝えられており、体格は竜馬と同じ五尺八寸、しかも体重は100キロあったとも。「龍馬伝」のキャスティングでも、乙女姉さんを誰に演じてもらうかが、争点になっているとかいないとか。

 ひき続きシーンをたどると、竜馬は上級武士の子との騒動で寺子屋をやめたのをきっかけに家を出て、武術研鑽の道を進み、東京・京橋の北辰一刀流千葉道場の世話になる。ちょうどこの頃に黒船来襲に遭遇、沿岸警備に携わった影響もあり、開国に反対、外国を排他する「尊皇攘夷」の思想が根づいていった。それが、帰高した際に会談した河田小龍から、ジョン万次郎が見聞した諸外国の先進性を伝えられ、開国こそが日本のため、との考えへと傾いていく。
 開国論者となることが決定づけられた、勝海舟との会談のシーンは、竜馬の生涯の中でもキーポイントとなる場面のひとつだろう。会談は竜馬が脱藩した後に催されたが、最初は勝に対し「よからぬ考えの者なら話次第で斬る」と息巻いていたのに、会談後は勝に心酔、その場で弟子になってしまった。このとき、竜馬は29才、勝海舟は40才。勝に「肝の据わった落ち着いた男」と評された竜馬も、年齢にしては大したものだが、その竜馬に影響を与えたキーマンである勝海舟が自分と同い年、というのも驚きである。

 鎖国を主張する幕府を武力制圧するための大同団結、薩長同盟の締結シーンの隣には、その翌日に勃発した「寺田屋事件」の騒動のシーンが再現されていた。目をひくのは何といっても、はだけた着物をひっかけて、半裸の状態で階段を駆け上がる女性。後に竜馬の奥さんになるお竜で、彼女が入浴していた際に賊の気配を察知して、とるもとりあえず竜馬に知らせる、といった場面だ。実は、風呂から全裸で駆けつけた、というのが真相らしいが、「さすがにそれは蝋人形では再現できないので…」と館長が苦笑する。
 竜馬はこのときに襲われて指を深く怪我してしまい、例の長崎で撮った写真では、その怪我を隠すために片手を懐に入れていたとの説もある。ちなみにこの事件の後、怪我を治療するためにお竜さんと霧島~高千穂と療養に行ったのが、日本初の新婚旅行といわれているのだとか。


竜馬へ危険を知らせるお竜。後に西郷隆盛に絶賛されたとか


 さらに海援隊の結成、大政奉還と、いよいよ開国が間近に迫りながら、新撰組の定宿である近江屋に滞在している折に、竜馬は幕府側の刺客・見回組により暗殺される。当日、竜馬は風邪気味で、鍋が食べたくて買出しに行かせているため、警備が手薄になっている隙を狙われたという。
 シーンでは1階でボディガード役の相撲取り、藤吉がすでに斬られて倒れており、2階でまだ議論している竜馬と慎太郎を狙い、階段を賊が昇っていくところ。来てる、来てるよと声をかけたくなってしまうシーンだ。この後、足音を聞いた竜馬が部屋の戸越しに「吼たえな!」と一喝するものの、押し入られて刀をとる間もなく斬られてしまう。
 時は慶応3年1115日、奇しくも竜馬33才の誕生日の日だったという。勝海舟と会談したときから数えると、竜馬が活躍したのは5年程と、実は意外に短い。しかしそのバイタリティーとヒューマンパワー、そして人間味が、日本人の心に深く焼きつき、多くの人を魅了するのだろう。

 竜馬は土佐を脱藩し、今回のツアーでも脱藩ゆかりの地を訪れるそうだが、せっかくうまいもの処の土佐にやってきて、初日の昼食から土佐を脱してしまう訳にはいかない。向かったのは土佐山田駅前にある食事処『文蔵』である。土佐山田に蔵を構えるアリサワ酒造に隣接した、酒蔵レストランで、昨冬のオープン以来、地元客や酒蔵巡りのお客を中心に、好評を博しているという。
 明治10年に創業した際の土蔵を改装した、築100年の年季ある建物は、広々として木調を生かした落ち着ける内装。冬は隣接の蔵から、仕込みのいい香りが漂ってくるという。料理は扱っている酒「文佳人」に合うことをコンセプトとしている、とくれば試飲のひとつも期待したいところだが、まだ視察初日の昼なので料理のみで我慢。運ばれてきたには盆、ではなく大振りの木箱で、酒の仕込みで糀を広げる「もろぶた」を盆代わりにしているのが、酒蔵の料理らしさを演出している。
 その箱の中には、里山料理といった感じの素朴な品がぎっしり並ぶ。天ぷらはエリンギに大葉、モミジなど。焼き魚は近隣の東川で釣れたアメゴ。高知特産のナスはそぼろあんかけ仕立て。アメゴは頭からいける柔らかさで、たっぷりついた白身が上品。天ぷらの種も、あんかけのナスも瑞々しく、野菜の滋味が身にしみるよう。野菜は自給自足が多い土地柄、すべて土佐山田産のもので揃えているという。


(左)文蔵の概観。100年前の酒蔵を利用している。(右)田舎寿司の盛り合わせ。ネタはほとんどが山の幸


 そして箱に入りきらない別添えの皿は、土佐の郷土の味、田舎寿司だ。薄焼き卵で巻いた太巻きに、こんにゃくや揚げをかぶせた稲荷風の寿司、マダケ(タケノコ)をタネにした握り、さらに締めたサバをのせて押した棒寿司と、寿司といってもマグロやカツオなど鮮魚は使っておらず、タネはほとんどが山の幸なのがユニークである。
 こんにゃくと揚げからいただくと、ともにしっかりと味が染みており、酢飯とよくまとまっている。マダケはサクサクと歯ごたえが軽やか、そしてサバは唯一の魚ネタだけに、脂が乗りコクがある身の味がうれしい。酢が米酢ではなく柑橘酢なのが独特で、このあたりでは柚子酢を使っているという。また飯にはゴマが混ぜ込んであり、果物のスキッとした酸味とほのかな甘み、ゴマのプチプチの食感がまとまり、優しい味わい。生魚の生(き)の強い寿司と対照的な、丸く柔らかい寿司である。

 竜馬の生涯をひととおりさらい、加えて土佐の郷土の素朴な味にも触れることができたところで、次に目指すは竜馬脱藩の道。ここで脱藩がらみの思わぬ「であい」に遭遇することに。続きは次回にて。(20081113日食記)


魚どころの特上ごはん82…千葉・千倉 『高家神社』の包丁式と、古式料理など

2008年11月03日 | ◆ローカル魚でとれたてごはん


 寿司職人を志す少年が主人公のグルメ漫画で、房総半島の先端の町にある小さな神社が、寿司職人コンクールの会場として出てきたことがある。全国から集まった腕っこきの若手寿司職人が、ここを舞台に包丁勝負を繰り広げるのだが、その中で房総で揚がる珍魚・マンダイ(赤マンボウというマンボウの仲間)をおろす、という項が印象に残っている。脂が強烈にのっているため、普通の柳刃包丁の刃は脂ではじかれてしまう。主人公の少年は考えた上、なんと包丁を境内の玉砂利に突っ込んで、刃をこぼれさせてかかりを良くして見事におろし、好成績でこの課題を突破する。
 いかにも対決モノグルメ漫画らしい、ホント? って感じの展開だが、そんなギミック的包丁技も、会場である神社の由緒を聞けばリアリティが出てくる。高家神社という名のこの神社、実は日本で唯一の、料理の祖神を祀る神社なのだ。ここで行われる、料理にまつわる珍しい年中行事を見学しに、10月の終わりのとある週末、南房総市の千倉町へとやってきた。
 その行事とはもちろん寿司職人コンクール、ではなく「包丁式」という神事。この神社の代表的な年中行事で、年に3回開催日が決まっているところを、この日特別に見せていただくことになった。

 鳥居から延びる石畳の参道を進み、まずは石段を登ったところの社殿に参拝する。神社の歴史は古く、祭神である磐鹿六雁命が、第12代景行天皇にカツオとハマグリを膾にして献上した、と日本書紀に記されている。さらに味噌、醤油、漬物にもゆかりがあり、料理人の祖と醸造・調味料の神ともに祀られた、いわば日本料理の祖の本宮、といった神社といえる。
 平成10年に落成したばかりの立派な茅葺の建物は、味の素やヒゲタ醤油の寄進により造られたのが、醸造や調味料の神様らしい。調理師が多数供養に訪れる包丁塚を眺めてから、絵馬の奉納所も見てみると、調理師免許への合格祈願が多いのがさすが、といった感じ。料理や食にまつわることなら、幅広くご利益があるらしく、中には「家族のみんなにおいしい料理が作れますように」とか、「ダイエットが成功しますように」など、ほのぼのした願かけもちらほら。

 包丁式は、参道の左手にある包丁殿で行われるため、本殿を参拝した後に向かってみると、舞台のような建物の前に見学用のいす席が並べられていた。どこかで見覚えがあると思ったら、例の漫画でコンクールの包丁勝負が行われていた場所だ。席に着いて足元を見てみると、少年が包丁を突っ込んだ玉砂利がきれいに敷かれている。
 いやがおうにも、漫画さながらに勝負のムードが高まってくるけれど、包丁式は包丁技を競うのではない。宮中行事として奉納される儀式で、烏帽子に直垂の刀主と介添により、古式にのっとった所作で魚をさばいていくものである。包丁を振るう刀主は何と、魚にまったく手を触れずに、右手に包丁、左手にまな箸を使って調理をするのだとか。天皇に献上する食物に、不浄の手で触れてはいけない、という故事に基づいてのことで、漫画に出てきた料理人の奇想天外な包丁技を、思わず想像してしまう。
 刀主は日頃から、このために鍛錬した選任の神官かと思いきや、刀主をはじめとする包丁式を執り行う「たかべ包丁会」の会員は、地元の旅館や民宿の調理師という。この日の刀主の青木九二雄氏も、由緒ある四条流石井派の流れをくむ一方で、千倉の旅館青倉亭のご主人でもある。普段は宿泊客のために振るう料理の腕を生かして、厳粛な儀式を後世に伝えている、という訳なのだ。

 雅楽「越天楽」の調べが響きはじめると、いよいよ包丁式の始まりである。最初の儀式「まな板開き」「まな板清め」は、名の通り調理を行うまな板を用意、清める儀式である。まな板にかぶせられた、四季をイメージした4色の紙で包まれたハマグリが四隅に置かれた白い布を開いて、まな板を塩と水で清め、竹に巻いた布で拭いていく。
 続く「献魚の儀」では、袖をたすきがけした介添が、包丁とまな箸で挟んだ魚をまな板へと運んでいく。包丁式でさばかれる魚は鯉、真鯛、マナガツオが中心で、この日は地元で水揚げされたイナダ。これを菊の花びらを模った「菊花のイナダ」に仕上げるという。
 魚の霊を慰めるために花を捧げる「献花の儀」、包丁を用意する「献刀の儀」と進み、ここで刀主が入場してきた。まな板の前につくと、切る前に魚を紙で清めた後、刀身が長めの包丁とこれまた長めのまな箸をかざし、イナダを箸で押さえ、頭が落とされた後に尾に向けて包丁を入れられていく。切り方は中骨ごと輪切りにする、いわゆる「筒切り」で、漫画のような神業的包丁技ではないものの、入れられていく一刀一刀ごとに、えも言われぬ厳かさが醸し出されるのが感じられる。


見事に菊花の形にさばかれたイナダ。儀式の後、奉納される

 おろされたイナダの身は、まな板の上で花の形に並べられ、献花の花びらを散らして彩りを加えたら、見事な「菊花のイナダ」のできあがりとなった。調理されたイナダは奉納されるため、残念ながら味見することはできないらしい。ちょうど昼時で、ここでたかべ包丁会会員の旅館のひとつ、『銀鱗荘ことぶき』へと移動して、古式にのっとった料理「たかべ御膳」で昼食となった。
 たかべ御膳も包丁式と同様、当時の食文化を後世に受け継がせることを目的に、たかべ包丁会会員により考案、会員が経営する宿泊施設で供される料理である。古代米やハマグリ酒蒸し、梅ゴボウなど、当地ゆかりの古式料理が並ぶ中でも、醸造の神・高家神社にちなみ、醤(ひしお)を使った料理が特徴だ。
 八寸には房州アワビのひしお漬け、つくりはカツオのひしお醤油が並び、アワビからいただくとひしおの発酵香がかなり強く、糀の風味が香ばしい。ひしおの香りは、どこか懐かしさを感じる素朴な香りで、カツオもヅケのようにコクがあり、赤身の魚独特のくせがなく食べやすい。
 先ほどの包丁式にも参加したというご主人によると、本来の古式料理はもっと味が薄いそうで、現代の嗜好に合わせてやや濃い目の味付けにしているそうである。特別に、包丁式で使用する包丁を見せてもらったら、刃の長さは柳刃ほどあり、厚みは出刃ぐらいあるどっしりしたもの。玉砂利に突っ込んだぐらいでは、ビクともしなさそうだ。


は古式料理の八寸。盆の左上が房州アワビのひしお漬け。右はカツオのひしお醤油

 伝統の古式料理もいいが、南房総といえばやはり、水揚げされたばかりの鮮度抜群の地魚にも注目したいところだ。近海は黒潮と親潮がぶつかる優良な漁場のため、アジ、サバ、サンマにカツオ、カンパチ、キンメダイ、さらに包丁式で奉納されたイナダ、冬は漫画でも登場したマンボウなどが、千倉港や鴨川港で水揚げされる。加えてサザエやトコブシ、房州アワビ、千葉県が全国随一の水揚げを誇る伊勢エビといった磯の幸、さらに近隣には日本で小型沿岸捕鯨が認められている数少ない港、和田浦港も有するなど、種々様々な魚介に恵まれた立地なのである。
 特にアワビと伊勢エビは、千倉町の旅館組合・民宿組合で、地産地消ならぬ「千(倉)産千(倉)消」を合言葉に、宿泊プランの目玉として提供している。その名も何と「メガ伊勢えび・メガあわび」プラン。牛丼やハンバーガーで最近流行のネーミングだが、伊勢エビもアワビも300グラム以上の大型サイズのものを、刺身や焼き物など希望の調理法で料理してもらえるというから、ファーストフードとは桁違いの豪華版だ。伊勢エビはさらに、150グラムの伊勢エビ2本がつく「ダブル伊勢エビプラン」というのもあり、メガとダブルとくれば、今後はギガプランも期待したいところ?

 そんな南房総の地魚料理と聞いて、真っ先に名前があがる一品といえば、なめろうだろう。アジやイワシといった青魚を三枚におろして、味噌とネギなどの薬味を加えて包丁でたたいただけのシンプルな料理で、漁師が船上で食べていたまかない料理でもある。
 そのまま食べても、火を通して「さんが焼き」という魚ハンバーグにして食べてもうまいが、ビワの葉の上にのせて軽くあぶっていただくのが、ここならでは。しっかりあぶり、レモンを軽く絞ってつまむと、青魚ならではの風味が倍増。さらにビワの葉のおかげで昆布のような芳香が加わり、これはご飯が進む味だ。房州ビワは市内の富浦町の特産でもあり、海産物と農産物の南房総名産コラボ、といった感じだろうか。


左は鯨の竜田揚げ。右のなめろうは、ビワの葉にのせてコンロであぶっていただく

 もう一品、懐かしさで目をひく料理といえは、鯨の竜田揚げだ。自分が小学生だったのは、商業捕鯨が全面禁止になる1986年のやや前で、学校給食で鯨料理が出されていたギリギリの世代かも知れない。現在、国内で正式に出回っている鯨肉は、北太平洋や南氷洋の調査捕鯨で捕獲したミンク鯨のほかに、IWC(国際捕鯨委員会)の管轄外である小型鯨類があり、和田浦漁港はこの小型鯨類にあたるツチクジラを、6月から8月にかけて年間26頭の枠で捕獲しているそうである。
 醤油ベースのつけ汁に漬け込んで干した名物「クジラのタレ」をはじめ、しぐれ煮、鯨ベーコンなど加工品も様々。また界隈には鯨料理を看板にした店も多く、和田浦くじら食文化研究会によるガイドブックも発行されている。国際世論的には厳しい逆風にさらされている鯨だが、南房総では歴史と伝統ある「地魚」として、しっかりと浸透しているようである。

 鯨が希少なのは認める一方、味のほうはやや獣肉ならではのくせが強く、究極の美味、というほど珍重されるほどではない、というのが自分の評価である。ところがここの竜田揚げはその気になるくせがなく、肉汁がたっぷりで旨みがあふれんばかり。魚料理が並ぶ中で、肉料理らしいどっしりした食べ応えがあるのがうれしい。きっと水揚げ後の処理が適切なのに加え、水揚げ地という土地柄、古くから熟達した料理法が伝承されていることも、関係あるのかもしれない。
 焼いたアジの身をまぜこんだアジご飯をかき込み、伊勢エビの味噌汁をすすり、と、まだまだ千倉の魚介を用いた料理が目白押し。おいしさを伝えようにも表現が底をついてしまうほどで、「言葉にならない」「絶品の味わい」と、もはや定番の文句しか出てこない。これは食後にもう一度、高家神社を参拝して、料理の神様に「グルメガイドの文章が上手になりますように」なんて願をかけていかなくては?(20081027日食記)