ウマさ特盛り!まぜまぜごはん~おいしい日本 食紀行~

ライター&編集者&散歩の案内人・上村一真(カミムラカズマ)がいざなう、食をテーマに旅をする「食紀行」を綴るブログです。

ローカル魚でとれたてごはん…新潟・村上の、鮭にまつわる漁・文化・料理あれこれ

2012年01月15日 | ◆ローカル魚でとれたてごはん

味匠喜っ川の塩引きザケの干し場。11月終わりから12月にかけてが干し始め。

  

 生まれた川の匂いは、森や水にあり
 

サケが生まれた川に帰ってくるのは、川の「匂い」を記憶しているからだという。人間でも子供のころに遊んだ場所、大好きだった食べ物の味などが記憶に残り、望郷や回帰のきっかけとなっているのと同じなのだろう。

新潟県村上市にあるサケの資料館「イヨボヤ会館」の展示によると、サケはブナ林や海藻などの匂いで、生まれた川を見分けるとあった。朝日連峰を源とする三面川の源流はブナの森のため、水にはミネラルや鉄分が豊富に含まる。河口のタブノキの森は蓄えた水を川へ送り、魚付き保安林としてサケを守る。良質の水や餌に恵まれた豊かな環境が、回帰のカギとなる記憶を形成しているのだ。

村上は古くからサケに支えられてきた土地で、江戸期はサケ漁の運上金が藩の財政を賄っていた。支えられるのみならず、サケを守り増やすことにも古くから取り組んだのも、村上の特徴だ。江戸末期に不漁に見舞われた際、サケの回帰性に気付いた武士・青砥武平治の指揮のもと、三面川に「種川」という分流を整備。簀を設けてサケを留め、ここで産卵させる仕組みとした。31年を費やしたこの孵化事業は、サケ繁殖の本場、カナダの140年も前に行われた。

サケを大切にする志は次代に受け継がれるとともに、サケのもたらす恩恵は様々な形で村上へと還元される。明治期にはサケ漁の収入が教育に充てられ、それで学び社会に出た子供は「サケの子」などと呼ばれた。彼らはサケの恩恵に感謝の念を持ちつつ活躍し、中には故郷に戻り錦を飾る者も。サケの一生になぞらえてみれば、何とも感慨深い。

イヨボヤ会館はこの種川に接しており、地下の生態観察室では川の中をガラス越しに観察できる。ちょうどサケの遡上、産卵のシーズンで、運が良ければそのシーンが見られることも。オスとメスが寄り添って今か、と目を凝らしたが、別のオスが激しく横槍を入れてきた。サケはなわばり意識が強いため、お目当てのメスをとられないよう必死の攻防が展開されている。

  

 
 

サケの博物館、イヨボヤ会館。左下は日付順に孵化を待つ人工授精卵。

右下は生態観察室から見た、本物の種川の様子。

 

伝統のサケ漁は、人工増殖のため
 

このように、かつては種川での産卵の保護がサケ増殖の柱だったが、現在は遡上するサケを捕獲して採卵、人工授精の上、稚魚を育ててから放流するのが主流となっている。三面川の本流に仕掛けられた捕獲施設「ウライ」を見に行くと、両岸を結んで長い柵が渡されている。これでサケの遡上が止められ、両岸近くに開いた「落し柵」へと追い込まれて捕獲される。

とれたサケは隣接の孵化場へ運ばれ卵の採取、受精の処理がなされ、オスや卵を採取したメスのサケが販売されている。一尾数百円という破格で、故郷の川へ戻ったものの途中で留められこの値段。ちょっと気の毒だが、子孫が確実に残ると思えば。

ウライからは、河口方面を川舟で往復する伝統漁法「居繰り網漁」も操業しており、河岸を下ると小舟がふた組、上流へ向かってくるのに出くわした。漁は4艘の川舟をひし形に展開し、先行の2艘で網にサケを追い、後方の2艘でサケを網へ追い込む。舟は現在も昔と同じ幅が狭い木造船を使っており、立つだけでも大変な上に竿で川底を突いて漕ぐのが難しく、うまく操船できるまで10年かかるとも。

船はしばらく上るとまず2艘が回頭し、逆ハの字型の配置で間に網を渡して広がりながら、上ってくるサケを迎える形で河口向きにひいていく。次第に間を狭めると下流側からもう2艘が近づき、網が絞られる。引き上げると数匹のサケが、バタバタと網上げされた。1回の網でとれても十数匹程度と、ウライの漁獲量に比べればほんのわずかだが、これもれっきとした人工孵化用のサケである。

 川に入ったサケは遡上で体力を使うため、脂が落ちて身がやせ卵は皮が厚くなるといわれる。しかし「今年の新ハラコ」の貼紙に誘われ、漁の見学後に村上駅前の老舗旅館・石田屋で頂いた鮭はらこ丼は、ご飯が見えないほどのったはらこが皮が柔らかく、プチッ、ジュワッとはぜるのが心地よい。地元産の薄口醤油や清酒で作った薄味のタレが、新ハラコの瑞々しい旨みを際立たせている。村上のサケは岩船や瀬波など、沖合の定置網でも漁獲され、料理屋では身や卵の味がいい沖どりのサケを使うところもあるという。

 
 
 

左上がサケを捕獲するウライで、右の落とし柵にサケが追い込まれる仕組み。
左下は販売されている、遡上したオスザケ。右が居繰り網漁で、左側の河口へ向け
二艘の船の間に網を張って下っていく。
  

 

村上の風土が生む、熟成のサケの味

 とはいえ村上のサケの食文化は本来、遡上したサケをおいしく無駄なく食べるために発達したものだ。その恵みを粗末にせず、捨てる部分がないよう百種類以上の料理法が生み出された。内臓はナワタ、心臓はドンビコ、エラはカゲ、中骨はドンガラ、頭の軟骨は氷頭、背腸はメフンなど、アラやワタまで独特の呼ばれ方、料理法があることに、サケが当地で深く尊ばれたことがうかがえる。また代表的なサケ加工品の塩引きザケは、加工の際切腹はもってのほかと、腹の一部を残して切り開くのが伝統になっているとも。
 食後に訪れたサケ加工品の老舗「味匠喜っ川」で、ご主人に店舗の奥へと案内いただくと、天井からぶらさがるものすごい数の塩引きザケ。内臓を抜いたサケに塩をして寝かせ、塩出しして11月の終わりから3週間ほど干し上げるもので、軒先に頭を下にした塩引きザケが吊るされる光景は、晩秋からの村上の風物詩である。
 
塩引きザケはちょうど年末年始にできあがるため、村上では大晦日の晩や正月の料理にもなっている。さらに干し続け、薄切りにして酒に浸して味わうのが、サケの酒浸し。こちらは7月7日の村上大祭の際にも振舞われる、祭の味である。
 ご主人によると村上の地形は風を抑えるため、タンパク質やアミノ酸が程良く変化する、発酵に適した土地という。冬はマイナス2〜3度の風が吹き抜けるのが乾燥によい、梅雨が長いと旨味が落ち着く、夏は30度を越す暑さで旨味が出る、仕上げは秋晴れの風が向いている、など、四季にメリハリがある年が味がいいとか。いわば村上の風と塩がつくる風土の味。村上の家庭のおふくろの味だ、とご主人がしみじみ語る。

 
 
左上が石田屋の鮭はらこ丼。右上が味匠喜っ川の外観。
左下が塩引きサケを干す風景。右下が喜っ川のサケ加工品の数々。

 酒浸しは夏を超えて1年ほど寝かせるとさらに味が良くなり、村上大祭の頃に食べてしまう地元の人は完熟した味を知らないのでは、とご主人が笑う。店頭には村上産との表示がある、出回り始めたばかりの新物が並んでおり、これをみやげに村上のサケ探訪の締めくくりとした。帰宅後、地酒「大洋盛」の肴に堪能した熟成極まる深い味は、サケのごとく来秋の村上回帰の思いにつながりそうだ。(2011年9月食記)

 

 


旅で出会ったローカルごはん…横浜 『崎陽軒』の、シウマイ御弁当

2012年01月06日 | ◆旅で出会ったローカルごはん

 


 

 横浜の子供たちが、小学校の頃に頭に刷り込まれるご当地の歌が三つある。社会科の地元研究で覚えさせられる「横浜市歌」、ゴミ収集車が流す「横浜さわやかさん」、そしてテレビ神奈川の横浜大洋(時代的にベイスターズではなく)のナイター中継のCMで流れる、崎陽軒のシウマイソング。

 「旅に出るたび思いだす〜 あのシウマイは崎陽軒〜」 の歌詞が刷り込まれたからか、新横浜から新幹線に乗る際は、ほぼお世話になっている。夕方に乗る際は15個入りにビール、昼前ならシウマイ弁当。豚肉とホタテを使っているのは冷めても美味しいためで、はちきれそうな肉々しい食べ応えが、出張族の男飯? 

 この弁当、シウマイ以外にも唐揚げ、ブリ照焼、卵焼きと、ネーミングを超えたおかずの充実ぶりで、特に甘いタケノコ煮が飯の友に最高。おかずがほぼ昼ビールの肴になっても、これだけでご飯が平らげられる(笑)。また最近では珍しく、スチロールでない本物の経木の折のため、ご飯の水分が実に程よい。

 ホカ弁の「のり弁」は、ちくわ天やコロッケがつくからネーミングを内容が超えている、と食エッセイで読んだことがあるが、これもまさに「シウマイ」弁当を超えた充実ぶり。しかも750円と、ビールかお茶を合わせても1000円でお釣りがくるのも、ハマっ子人気のポイントだろう。

 あ、シューマイじゃなくてシウマイなので念のため。ここ、崎陽軒とハマっ子のこだわりです。

ポーラ美術館レオナール・フジタ展2

2012年01月03日 | てくてくさんぽ・取材紀行
ポーラ美術館のレオナール・フジタ企画展の続き。

 展示の後半は、先ほどの「乳白色」を用いた子供や少女の画が中心となる。ただ、最初に見た裸婦画が柔らかかったのに対し、子供たちの表情はどこか鋭角的に感じる。なんというか、笑顔がなく、無表情で能面的というか。希望や和みより、内面に抱えた虚無感のようなものが伺える。

 その、子供たちを様々な職種に描いた「小さな職人たちシリーズ」が、このたびの企画展での初公開も多い、主たる展示のひとつだ。正方形のタイル画にそれこそ様々な職に携わる少年少女を描いている。パン屋や魚屋、洋品店など商店主、左官や指物師、椅子職人といった技術者、さらに弁護士や医者、学者なども。旅人に写真家、印刷工など、我々に親しみ深い? 職種も。

 さらに、手品師に猛獣使い、心霊療士といったややオカルトチックな職種、さらにスリにどろぼう、浮浪者、守銭奴(!)なんて、もはや職業じゃないネガなのもあり、興味深いというか、絵の題材が子供だけに怖いというか。

 これらはほぼ「プティ・メティエ」と呼ばれる、下層民のしがない職業である一方、パリの街の象徴であり風物詩でもあったという。フジタ氏は第一次大戦後、国からの送金が断たれて困窮していた時期があり、こうした職種の人々に「友人」として親しみを持っていた、とも解説に記されていた。とはいえ、同情のような風刺のようなブラックなような、解釈の難しい画だ。前述のように、子供たちの表情が虚無的なので、なおのこと。

 写真はまた、閲覧用の公式図録から借用させていただきました。私の好みで、魚屋さんを選びました。

ポーラ美術館レオナール・フジタ展1

2012年01月03日 | てくてくさんぽ・取材紀行

昨日、ポーラ美術館に参観に行ったレオナール・フジタの企画展について、覚書的に鑑賞記を少々。

 氏の画風の大きな特徴は、「素晴らしき乳白色」と称される魅惑的な白。硫酸バリウム等と膠を加えた地の上にシルバーホワイト(鉛白)を塗り、その上に下書きする、という仕組みで、人物を表現することの難しさから独自の作風を突き詰めてのことだそうである。

 この白による肌と、面相筆での炭線による輪郭の描線の組み合わせが、女性や子供の独特ななまめかしさを描き出している。「タピスリーの裸婦」は、キスリングやモディリアニらエコール・ド・パリの他の画家とは異なる、いわば白ではない人肌の白さが魅惑的だ。一方で「パリの要塞」「巴里城門」といった風景画は、どこか重く暗いのが対照的。

 また氏は戦争に翻弄され、画家活動と金銭面ともに苦しんだ時期があるという。戦後に日本とフランスの間で揺れ動く心情を表わした作品は、動物を擬人化したものが中心となっていた。「犬の円舞」「ラ・フォンテーヌ頌」は、どこかシュールでブラックな印象が、裸婦や少女の絵と一線を画している。迷いというか、心の闇というかが、獣と人間を一体化させた虚偽の生き物を作り上げているようだ。

 また、この企画展は子供たちを描いたタイル画「小さな職人たちシリーズ」がメインだったが、これはまた別途。 ※写真は閲覧用図録より拝借しました。