ウマさ特盛り!まぜまぜごはん~おいしい日本 食紀行~

ライター&編集者&散歩の案内人・上村一真(カミムラカズマ)がいざなう、食をテーマに旅をする「食紀行」を綴るブログです。

魚どころの特上ごはん86…広島・呉 『磯亭』の、ウマヅラハギやトラハゼなど瀬戸内の地魚

2009年04月18日 | ◆ローカル魚でとれたてごはん

 呉の海軍ゆかりの見どころを巡る視察で、自衛隊の潜水艦を展示した「てつのくじら館」、戦艦大和を中心とした呉の海軍・造船の歴史を紹介した「大和ミュージアム」と見学。さらに郊外も巡った後、日が暮れてから市街を見下ろす灰ヶ峰より、明かりが「クレ」と読める夜景を眺めて、初日は無事、終了となった。
 視察の総仕上げには、お昼にいただいた「戦艦大和のオムライス」に続き、もうひとつ海軍グルメが味わえるそう。プラス、せっかく瀬戸内に面した街へやってきたのだから、地元で水揚げのローカル魚介を肴に、一日ご案内いただいたお二人の労もねぎらいつつ、お疲れ様会といきたい。
 呉名物の屋台街もひかれたが、案内人が常連のお勧めの店、とのことで、繁華街の中通にある『磯亭』へと落ち着くことに。5、6人のカウンターと、ちょっとした小上がりだえけのこぢんまりした店で、ご主人は某上方の有名落語家によく似ていらっしゃる。ご自身もそれには納得らしく、カメラを向けると丸眼鏡越しに、にこやかに目線をくれる様子が、ますますそっくりで吹き出しそうになる。

 小春日和の陽気の中、1日の渇きをまずはさっぱりと癒すべく、ビールで乾杯。ふたたびの「海軍グルメ」をお願いする前に、案内人に造りを適当におまかせしてもらった。すると、カワハギとタコが大皿に盛られて登場。カワハギは姿造りで、透明感のある身とともに、キモも盛られている。
 多島海の早い潮流でもまれ、身が締まったタコは、瀬戸内のローカル魚介として、よく知られているだろう。クキッと腰のある歯ごたえで、草のような青臭さに自然でほのかな甘みが、水揚げ地ならではのうまさだ。一方、カワハギが瀬戸内の名物とは、初めて聞いた。カワハギといっても、皿の上のはやや流線型の魚体のウマヅラハギ。「冬から春先の今頃がおいしいんです。そのへんでも結構よく釣れるんですよ」と、店のお姉さんが話すように、沿岸の底部の砂地が主な棲息場所という。

 

呉の繁華街に位置する「磯亭」。ご主人がどちらの落語家似かは、見てのとおり?

 桜のようにほんのり薄ピンクの身からいくと、これが瑞々しいこと。吸い付くようにしっとりとした舌触りのあと、ほのかで厚い甘みが口の中に控えめに広がっていく。一方、キモはピンク色がやや濃く、口に入れると体温で自然にとろけていく。鮮度がいいから、こってりしているが臭みはなく、まるで上質のレバーパテのような、澄んだコクのある旨みがたまらない。
 ウマヅラハギは一般的に、カワハギよりもランクが下に見られるが、瀬戸内から西日本では両者を区別せず、「ハゲ」「ハギ」とまとめて呼ぶことが多い。比べると、白身の味の良さはカワハギに譲るが、冬場のキモの大きさはウマヅラハギのほうが上なのだとか。
 そのキモの、地元流のうまい食べ方を案内人に勧められ、キモを醤油に溶いた「肝醤油」で白身をひときれ。するとさっぱりとこってりの相乗効果、対照的な味わいがお互いを引き立て合い、より広がりのあるうまさが楽しめる。

カワハギ(ウマヅラハギ)とタコのつくり。左手前がキモの刺身

 続々と運ばれてくる一品料理は、カキにアナゴにトラハゼと、瀬戸内ローカル魚介の定番ものに、このたび初体験ものと続く。
 
カキは酢ガキで、時期的にはそろそろ名残のカキだろうか。でもパンパンに丸くホクホク、滋味あふれる汁がたっぷりで、栄養分が体に染み入るようだ。呉の周辺のカキは、江田島や安浦のが有名で、2月のトップシーズンには、呉市ほか周辺でカキ祭りが続々開催されるという。
 アナゴも瀬戸内の有名なローカル魚だが、天ぷらではなくなんと刺身でいただくのが、鮮度が売りの水揚げ地ならではだ。薄造りにしてあり、フグ刺しの要領で2、3枚ガバッといくと、カワハギ同様にきゅっと締まった歯ごたえの後、ほんのり白身の旨みが漂う。淡さと瑞々しさがかもし出す、高貴な風味がいい。
 広島沿岸のアナゴは、広島湾の河口周辺や宮島周辺が、主な棲息場所である。カワハギと同様に、沿岸の砂泥の海底を好み、こぼれ落ちてくるゴカイなどの餌を狙って、カキ筏の下あたりにもひそんでいるらしい。土の香りがあまりしないのは、瀬戸内の潮流の速さのためだろうか、それともカキ筏のおこぼれの旨いものを喰っているからだろうか。

 トラハゼも、その名は初めて聞く瀬戸内のローカル魚である。名のとおり、体に虎のような縞模様があるそうで、体長は15センチはある中型のハゼ。東京湾の屋形船で、天ぷらで出される小振りのハゼとは、見た目も味も少々違うようだ。
 丸ごと揚げるためにやや時間がかかり、カキ酢とアナゴの造りを半分ほど平らげた頃に、ようやく姿そのままのから揚げがのった皿が運ばれてきた。さっそく、揚げたての熱々を丸ごとバリバリいくと、白身がスッキリ、舌にサラリと上品。東京湾のハゼとは違い、土の香りがあまりしない。頭と骨はしっかり揚げてあるので柔らかく、香ばしい風味が食欲をそそってくれる。
 お姉さんによるとこれもウマヅラハギと同様、「そのへんで釣れる」魚だそうで、ともに餌取り名人として釣り人の間では有名らしい。「意気込んで釣りにかかると、うまくかわされてしまう。無欲で竿を向けたほうが、結構釣れますよ」と、案内人が笑って話す。

 

左上が酢ガキ、右上が珍しいアナゴのつくり、下がトラハゼの唐揚げ。頭も骨も柔らかく揚げてある

 造りの数々に、呉に隣接する酒処・西条に蔵がある「賀茂鶴」を選んだところ、切れ味のいい辛口が生の魚介類にぴったり合う。さらにトラハゼのから揚げからは、呉に敬意を表して全国的に知られる地酒「千福」の冷酒にしたところ、これが揚げ物の力強さとの相性がバツグン。そのいい流れで、主役の海軍グルメの登場となった。運ばれてきた一品はなんと、カツ。トンカツ大のがドン、と、皿の上に豪快にのっている。
 揚げたてでシュワシュワいっているのをつまんでみると、肉の色がチョコレート色に近い赤茶色をしている。口に運ぶと肉は固からず柔らからずで、肉汁はないが凝縮した旨みが力強い。肉が薄めの分サクサクと軽い歯ごたえ、かみしめるたびに、味がグングンと染み出てくる。
 自分たちの世代では、学校給食の竜田揚げを思い出す懐かしい味の正体は、クジラ。近頃は一杯飲み屋でも肴で出される、鯨カツである。それがなぜ、海軍グルメなのだろう。呉は軍港の歴史はあるが捕鯨船の母港だったことはなく、海上自衛隊の潜水艦の資料館「てつのくじら館」にかけているのか。まさか戦勝祈願でカツ、という安直な理由ではないだろうが?

 海軍グルメマップによると、鯨カツはその名も「戦艦霧島の鯨肉カツレツ」と紹介されていた。戦艦霧島は、戦艦大和建造のベースとなった大型戦艦で、昭和初期に呉海軍工廠で改装工事を施した縁がある。その霧島をはじめ当時の軍の艦艇で、鯨肉は乗組員の食材として用いられていたという。
 当時、鯨肉は国策で食べることが奨励されていたが、冷蔵技術や流通システムが現在ほど発達していなかったため、粗悪品が多く国民からは敬遠されていた。戦時中や戦後期に鯨肉を食べていた世代が、鯨肉にあまりいい印象を持たない理由は、このあたりにあるのだろう。
 そのため海軍用の食材として回ってきた鯨肉を、艦艇の料理人がおいしく食べられるように工夫、レシピの出来を艦艇同士で競っていたという。戦艦霧島のこの料理は、鯨独特のくせがないので乗組員に大変好評で、中には鯨肉と気づかずに食べていた乗組員もいたほどだったとか。

 海軍グルメマップには、呉市街で鯨カツレツを出す店が6軒紹介されいて、居酒屋であるこの店のほかにも鯨料理を看板にした店、とんかつ屋、カフェなど、スタイルは様々。戦艦霧島で出していた当時と比べ、鯨肉の質は格段に良くなったため、シンプルなカツでもくせがなくおいしく味わえるのがいい。
 鯨カツレツを肴に、「千福」の冷酒のビンをいくつも空け、海軍尽くしだった呉の一日は更けていく。この後は、呉市公認の屋台街である蔵本通りではしご酒のつもりだったが、大変充実した視察スケジュールのおかげで、眠くなるのが少々早い。酔ったノリで、呉の街おこしに関する画期的? な意見を交わしながらも、頭の中ではもうトテトテと、就寝ラッパがなっているような(それは陸軍?)。(2009326日食記)


旅で出会ったローカルごはん111…呉 『大和ミュージアム』ほか、海軍ゆかりの見どころ

2009年04月13日 | ◆旅で出会ったローカルごはん

 海軍ゆかりの見どころで人気の呉市を訪れ、まずは実物の潜水艦を展示した「てつのくじら館」を見学した。ひき続き、通りを隔てて向かいにある「大和ミュージアム」へ。名の通り、戦艦大和を中心に、造船と軍港として栄えた呉の歴史と背景を紹介する施設で、平成17年のオープン以来入館者数は400万人に迫るという、呉の海軍ゆかりの見どころの中でも、ナンバーワンの人気施設である。
 エントランスをくぐると、ボランティアガイドの方から、まずは施設の概要についてお話を伺った。呉は明治期には呉鎮守府、後に呉海軍工廠が設置され、古くから日本一かつ世界屈指の軍港であり、造船が盛んな街だったという。その象徴といえるのが、呉で建造された戦艦大和。ゲートを抜けてすぐの大和ひろばには、ドーンとそびえる戦艦大和の巨大な模型が圧巻だ。
 ぐるりと一周見渡すと、主砲に副砲をはじめ、たくさんの高射砲に艦橋の細部、さらに甲板の手すりや柵にワイヤーの1本1本まで、細部も精密に再現されている。自分たちの世代なら、小学校の頃に戦艦大和のプラモデルを作った人もいるだろうが、これはスケールが違う。何と実物の10分の1、全長23メートルというから、模型とはいえ小型船舶ぐらいはある。

呉港に隣接する大和ミュージアム。いまでは呉の一大観光名所

 「大和の進水式は昭和15年8月8日で、翌161216日に完成しました。呉海軍工廠の技術を結集して造られた、世界最大級の戦艦です」と、ガイドの方が熱弁を振るう。話によると、戦艦大和の建造で培われた技術は、日本の製造業に伝えられ、現在でも様々な分野に生かされているという。
 たとえば、50キロ先を探知できる測距儀は日本工学の製作で、現在ではニコンのカメラの距離計にその技術が伝えられている。ほか偵察機を射出するカタパルトは新幹線の台車に、さらに主砲を回転させるノウハウは、プリンスホテルの回転展望レストランに生かされているのだとか。
 その大和の砲塔は、砲身20メートルで口径は46センチ、射程距離は42キロで、徳山で撃った弾が呉までとどいたという。「この規模の主砲を装備する場合、船幅が40メートル近くないと、発射の際の衝撃で艦の安定が損なわれるのです。大和は船幅が38.9メートルでしたからね」とのガイドの話。
 アメリカの戦艦でも、技術的にはこの規模の砲塔が装備できたのだが、アメリカの艦船は各地への移動にパナマ運河を通らねばならず、運河の幅に合わせて船幅33メートルが限界だったという。名実ともに当時世界一だった、大和の主砲の技術の利用先が回転展望レストランとは、のどかというか。

 

細部にわたってリアルに再現された、戦艦大和の10分の1の模型。甲板に乗組員まで立っている

 隣接する展示室「呉の歴史1」へ足を向けると、海軍工廠の設置により隆盛を極めた呉の、当時の様子が伝えられている。大正11年のワシントン海軍軍縮条約の影響で、呉は一時は不況に陥ってしまうが、新造船の数が制約された分、アメリカの物量に対し「造るなら大きく、良質なものを効率的に」と方向転換。これが、後の大和建造の理念へとつながっていく。
 「呉の歴史2」のコーナーでは、大和の建造に関する経緯や技術を紹介している。起工は1937114日で、条約が切れたのを期に建造計画がスタート。東京帝国大学工学部教授の松本喜太郎らを中心に、当時の最新鋭の造船技術が随所に用いられたという。船体の両舷は数重になっており、厚さ最大65センチの鋼板を用いた、簡単には沈まない構造。さらに構築には電気溶接とリベットを組み合わせるなど、特に船体強度を上げるための技術は惜しまなかったとされる。
 そして大和の建造は、極秘裏のうちに進められていった。建造現場である呉海軍工廠の造船ドックは、周囲に目隠がされ、造船も部分ごとに製造する「ブロック工法」により、関係者にも全貌が分からないようにした。まさに当時の日本の最終兵器、国防の最後の切り札的な艦船だったといえる。

 しかし大和の戦歴で最も知られているのは、皮肉にも撃沈された沖縄特攻だろう。展示によると、大和率いる第二艦隊第二水雷戦隊は、4月6日に徳山を出発したが、太平洋へ出た時点で連合艦隊の潜水艦に尾行されていた。天候を調査の上、雲が出るタイミングを見計らって総攻撃が開始。戦闘機180機、爆撃機75機、雷撃機131機の計386機もの攻撃に加え、魚雷を左舷中央に12本受けた。左舷を集中攻撃されたのは、武器庫があったためで、左へ10度傾いた時点で有賀艦長が退艦命令を出す。
 3332名の乗組員のうち、生還したのは273名のみ。ほとんどが右舷へ飛び込んだ者で、左舷へ飛び込んだ者の多くは、船の傾斜の関係でスクリューに巻き込まれたり、武器庫の爆発に巻き込まれてしまったという。艦隊も9隻のうち、大和を含む5隻が撃沈され、無事だった駆逐艦ゆきかぜが生存者を収容、佐世保へと帰港した。
 生存者のうち今も30名が存命で、そのひとりの話によると、当時、特攻時の乗組員の多くは、江田島の兵学校を卒業したばかりの新卒兵で、みんな海軍を志す以上は大和への乗船をあこがれていたという。展示には乗組員の遺品や遺書、さらに録音された肉声の別れの言葉が生々しい。


左上から時計回りに、映画「男たちのYAMATO」ロケセットで使われた大和の副砲、
アレイカラスこじまの潜水艦桟橋、入船山記念館の海軍長官の官舎、石川島播磨重工の造船どっく

 沖縄特攻の話のように、戦争にまつわる話は悲劇なのは認識しているけれど、呉の海軍ゆかりの見どころを見て回ると、不謹慎な表現かもしれないが活気や力強さを感じてしまう。てつのくじら館の潜水艦や大和ミュージアムの、巨大な模型。ミュージアム隣接の駐車場にある、映画「男たちのYAMATO」ロケセットの、天井を砲塔が突き抜けるほど巨大な実物大の副砲。自衛隊の潜水艦桟橋「アレイカラスこじま」で見られる、巡洋艦の前に停泊する潜水艦隊。戦艦大和を建造した石川島播磨のドックを始め、巨大なクレーンと造船所群を見下ろす「歴史の丘」。鎮守府長官の官舎である和洋折衷の瀟洒な邸宅が建つ「入船山記念館」など。考えてみれば、日本を代表する戦争教育の場である広島の近隣なのだから、広島とは別の視点で戦争を伝えていくのも、呉の目指すべき道かもしれない。

 日が暮れてから、市街を見下ろす灰ヶ峰より「クレ」と読める夜景を眺めて、本日の行程は無事、終了。仕上げはふたたび海軍グルメプラス瀬戸内の魚介で、お疲れ様会といきたい… というところで、呉の夜編は次回にて。(2009年3月26日食記)


旅で出会ったローカルごはん110…広島・呉 『むっしゅーおおはし』の、戦艦大和のオムライス

2009年04月04日 | ◆旅で出会ったローカルごはん

 山陽路の旅といえば、まずは広島で原爆ドームにお好み焼き、そこから厳島神社の宮島へ、余裕があれば帰りに大林映画の尾道を散歩して、というあたりが基本だろう。そんな定番モデルコースに最近、割って入ってきた話題の街が呉。映画「男たちの大和」で注目された、戦艦大和ゆかりの港町で、それを起爆剤に海軍ゆかりの観光資源をPR。広島から近い恵まれた立地もあり、近頃は広島と合わせて巡る観光客が増加中なのだそうである。
 そんな呉の見どころを中心に、周辺を現地の方にご案内いただくことになり、桜の開花にはやや早い3月の中旬に、新幹線で一路、広島へと向かった。迎えに来ていただいた方のクルマで、呉までは30分と近い。メインの見どころである、呉の海軍ゆかりの人気施設を案内してもらうまえに、まずは昼食だ。クルマは市街の中心部へと入り、繁華街にある『むっしゅーおおはし』という店へとやってきた。

 店の外観はレンガ造りで、街の洋食屋風の落ち着いたたたずまいである。案内の方によると、店の自慢のオムライスは、いま呉で売り出し中の「海軍グルメ」のひとつという。海軍グルメとは名のとおり、戦艦大和をはじめとする、軍港・呉ゆかりの料理のことで、街では海軍グルメマップを用意したり、これらを出す店の店頭にペナントを掲げたりと、呉の名物グルメとすべくPRに力を入れている。
 海軍参謀長だった東郷平八郎が、イギリスで食べたビーフシチューを再現させたのが起源の肉じゃが。明治海軍の料理書に載っていた、創成期の洋食を伝えるチキンライス。呉近海でとれる小鯛を蒸した和風フランス料理のけんちん蒸しなど。料理はいずれも、当時は先進の西洋料理を取り入れていることに加え、長期の航海で体調を崩さないための健康食であることが、海軍の食文化らしい特徴だろう。
 中でもオムライスは、「戦艦大和のオムライス」と称するように、大和の沖縄特攻から生還した人の証言を元に再現された、こだわりの一品だ。当時は士官向けの高級料理だったそうで、運ばれてきたオムライスは、卵を3つ使っていて見るからに大振りで贅沢。ソースは士官の好みでオーダーできたらしく、この店では定番のケチャップのほか、オリジナルのデミソースもかかっている。上に3つ載ったグリーンピースと合わせて、赤、黄、緑の鮮やかな原色が、実に食欲をそそる。

街の小さな洋食屋風の外観。紅茶は注ぐ量まで、戦艦大和で出していたのを忠実に再現している

 いただきます、とスプーンをかけると、卵は中がとろけない程度に、うまく熱が加えられている。口に運ぶとやわやわの舌触りが心地よく、砂糖は使っておらず甘さはない。その分、ケチャップとデミソースが酸味爽やか。ソースと合えたごはんも控えめな味付けで、海軍グルメらしく質実剛健、シンプルな味わいなのがいい。ちなみに、グリーンピースは日本古来の縁起を担ぎ、奇数個載せるのが慣わしだそうである。
 食後に出された、なみなみ注いだ紅茶もデフォルトで、まるで上級士官の気分で優雅にごちそう様。呉の海軍グルメといえば、かつては肉じゃがが代表的で、同じく肉じゃがで売り出した舞鶴との元祖論争が、当時は話題になったものだ。今は舞鶴とは「休戦中」だそうで、ほかの料理も肉じゃがの勢いに追いつけ、追い越せが目標らしい。
 案内の方によると、呉は海軍グルメ以外にも、二つ折りで仕上げるのが特徴のお好み焼き、平打ち麺を使用した冷麺など、当地ならではのB級グルメも隠れた人気という。また海軍グルメの中でも、ボツとなった料理があり、例を挙げてもらうと「クラムチャウダーそうめん」。これは確かに没になりそうな、でもちょっと食べてみたいような。

 店を後に、市街から港方面へやや走ると、すぐに正面に巨大な潜水艦が見えてきた。「てつのくじら館」という名のとおり、陸に打ち上げられた巨大な鯨のように見える。この館の目玉である、実物の潜水艦「あきしお」の展示で、全長75メートル、重さ2250トンの潜水艦が、陸上に鎮座している様は圧巻だ。
 「海上自衛隊で実際に就航していた潜水艦を、退役後に呉の石川島播磨重工のドックで展示用に整備、それを超大型クレーンで吊り上げて陸に揚げ、巨大トレーラーに乗せて200メートルほど陸送したんです」と、館内を案内していただく方が話す。この「あきしお」の内部に実際に入って見学できるのだが、なんと入館は無料。この施設、海上自衛隊の広報活動を目的とした、自衛隊所有の施設で、案内の方も自衛隊の関係者だった。

後ろのショッピングセンターと比べると、潜水艦の大きさがよく分かる。
機雷は沈底機雷や浮遊機雷など、様々なタイプが展示されている

 さっそく、潜水艦に隣接する展示館から見学のスタートだ。1階は海上自衛隊の歴史、3階が潜水艦関連となっており、興味深かったのが2階の機雷掃海についての展示である。
 日本各地には第二次大戦中、およそ1万発の機雷が仕掛けられ、うち7000発ぐらいが、軍港など軍事拠点が集まる瀬戸内海に集中していた。深部に仕掛けられたものはおおよそ除去されたが、浅部を中心に今なお350発ぐらいが残り、年間5発程度のペースで除去作業が進んでいるという。
 瀬戸内に仕掛けられた機雷は、B29により投下された、MK25と呼ばれる沈底機雷。磁気反応式で、船の鋼材に反応して爆発するタイプである。海上交通が込み入った瀬戸内の海底に、今も不発の機雷が残っているとは物騒極まりないが、磁気探知のための電池はもう切れているため、単に近くを通るだけでは爆発はしないらしい。

 また朝鮮戦争の際、朝鮮半島沿岸に仕掛けられた機雷が、朝鮮戦争直後の頃に日本海沿岸に漂着、被害をもたらしていたという。浮遊機雷と呼ばれるこの機雷は、海底のアンカーから伸びるワイヤにつながれて海面近くに浮く仕組みで、航行する船の船底が機雷の角部に接触すると爆発する。朝鮮戦争直後の当時、このワイヤが切れて日本海沿岸に漂着した機雷に、見つけた人が誤って触れたりして、爆発事故が起こっていたそうである。
 展示の一部には、掃海船「ははじま丸」の甲板を復元、音響反応式機雷の除去機や無人の掃海艇など、海上自衛隊の様々な掃海装備が展示されている。東南アジアなどで地雷の除去活動の話題をニュースで見ることがあるが、自国にも未だに同様な状況下の地域があるとは知らなかった。原爆や空襲といった戦争の悲劇的記録の伝承も大切だが、あまり表に出ないこれら未完の戦後処理にも、もうすこし目を向ける必要があるかもしれない。

 3階の展示室は、本施設のメインである潜水艦関連の展示である。まずは昭和30年の、日本初の潜水艦「くろしお」の模型を見物。普通の軍艦を改造した程度の外観で、砲塔も設置されている。この頃の潜水艦は海上航行が主で、いざというときに潜る程度だったという。魚雷も今のように高性能の追尾システムなどなく、ひたすら直進するだけなので、敵に背後をとられることを想定して、艦首と艦尾の両方に魚雷発射口が設置されているのが面白い。
 艦内の断面模型を眺め、ざっと設備を把握したら、いよいよこの施設の目玉である、「あきしお」の艦内の見学だ。艦は3階建てで、1階はバッテリー室、2階の前部が魚雷倉庫と発射室、3階の前部が発令所となっている。見学がしやすいように通路を広げたり、一部の設備を撤去しているが、内部はかなり狭く、この中で数ヶ月ものミッションをこなすのは、かなりのストレスだろう。海中で生活していると昼夜がわからなくなるため、艦内の明かりを昼は白、夜は暗い赤にして認識するそうで、薄暗く赤い光の下、せめてものストレス解消と、夕食は結構豪華に楽しんでいるそうである。
 居住区には狭い空間に3段ベッドが整然と並んでおり、上の段との間が体を入れる厚みプラスほんのわずかしかなく、動くと周囲のパイプやバルブに頭をぶつけてしまいそうだ。乗組員唯一のプライベートスペースで、士官と下士官に設備に差がないのは、狭さゆえ仕方ないのだろう。

   
 

狭いながらも、様々な設備が機能的に納められている「あきしお」の艦内

 先頭部の発令所は、いわば本艦の中枢部。最前部は機器に囲まれた操舵室で、中央には潜望鏡が設置されている。今も使えるそうで、覗いてみると呉港を往来するフェリーが間近に見えた。さらに、床部に開いた窓からは、階下の魚雷発射室が眺められる。
 案内人の方によると、艦の機密に関わる点については、改修の際にかなり手を入れているという。メーター類は数値が消してあり、装甲の厚さで性能がばれないよう、本来の入口である艦橋のハッチも非公開。魚雷発射室も、真上から窓越しで見せるのが精一杯という。「一回の潜行で何日ぐらい航海できますか?」「どれぐらい深くまで潜れますか?」「魚雷は何本ぐらい積めるんですか?」などの質問も、それはちょっとご勘弁、と苦笑の連続だ。
 中でもトップシークレットは、スクリューに関すること。展示されている艦の外部には、桜の花びらのような5枚羽根のスクリューが設置されているが、現在運用されている艦とは違う形状、枚数なのだという。潜水艦は敵に発見されるとアウトなので、とにかく音を出さずにスピードを出す技術が最重要機密。案内人にちょっと聞いたら、最新型のスクリューは羽根がバナナ型らしい。調子に乗って何枚羽根なんですか、の質問には「それもちょっと…」。

 今回はここまで、続きの「大和ミュージアム」や、郊外の海軍がらみの見どころは、次回にて。(2009年3月26日食記)