ウマさ特盛り!まぜまぜごはん~おいしい日本 食紀行~

ライター&編集者&散歩の案内人・上村一真(カミムラカズマ)がいざなう、食をテーマに旅をする「食紀行」を綴るブログです。

敦賀てくてくさんぽ7

2020年09月30日 | てくてくさんぽ・取材紀行
市街へと戻り、天満神社から先程の児屋ノ川を渡り、商人・職人町だった「川中」へ。相生町の敦賀博物館通りは、石畳沿いに歴史建築が点在しており、みなとつるが山車会館は氣比神宮例大祭で巡行する、山車の展示施設です。山車展示室には、大坂夏の陣が題材の鵜飼ヶ辻子山車や、賤ヶ岳の合戦の東町山車など、6基を収蔵展示。武者人形は本物の武具甲冑を身につけ、山崎の合戦では明智光秀の槍姿も。

別館は旧大和田銀行創業地の初代社屋で、北前船や敦賀城主大谷吉継にまつわる展示が。大和田銀行は明治25年に、北前船の船主だった敦賀の商人・大和田荘七が設立。敦賀港の利用促進による商業の発展を支えるが狙いで、港湾整備も手がけ国際港の指定に尽力するなど、港町敦賀の発展に寄与した人物です。江戸期には北前船の寄港地、敦賀湊として発展。建物の奥は和風の町家建築で、銀行創業時の面影を留めます。

隣接の敦賀市立博物館は昭和2年築、旧大和田銀行本店を利用した博物館。港町敦賀の交易の象徴として建てられ、大和田荘七の意向に合わせて市民に開放された公共スペースが特徴です。レストラン、迎賓館、集会場などを併設。北陸地方初のエレベーターも備えてました。1階の外観は西欧風古典建築。アーチの庇から入ると営業フロアで、昭和52年まで現役の銀行として使われました。大理石のカウンターは、真鍮のスクリーンなども当時の形。

大理石の階段は東西二つあり、カウンターの外からも登り口がありました。金庫室は営業フロアの奥にあり、壁紙と床を厚く補強してあり中に大金庫が。2階は銀行や敦賀への賓客をもてなすフロアで、貴賓室は当時の絨毯、家具、壁布を元に忠実に復元されています。貿易港の経済を支え、街の象徴でもあった施設です。

敦賀てくてくさんぽ6

2020年09月30日 | てくてくさんぽ・取材紀行
ランプ小屋のやや先が、金ヶ崎城跡への登り口です。かつての敦賀港駅跡を木立越しに見下ろして、城跡の中腹に建つ金崎宮を目指します。金崎宮は後醍醐天皇一の宮・尊良親王と皇太子・恒良親王が祭神。舞殿の奥に本殿が控えており、難関突破と縁結びにご利益があります。

金崎宮のある金ヶ崎城跡は、織田信長が朝倉・浅井軍に挟撃され寸前に逃れた「金ヶ崎の退き口」の舞台。浅井に嫁いだ妹のお市の方からの進物で、両端を閉じた袋入りの小豆から「袋の鼠」と察した逸話が。難関突破のお守りも小豆入りです。秀吉、光秀は退き陣で敵を食い止め、有力武将への足掛かりになりました。また縁結びは、桜の名所であるこの神社で、男女が桜の枝に思いを込めて交換し合う神事「花換まつり」が所以とされます。男女の出会いの場が限られていた明治期に始まり、縁を取り持つ場から現在は良縁祈願の場として知られます。

本殿の左手から海沿いを行く「花換の小道」を、さらに先へ。登るにつれ、敦賀港から市街を広く俯瞰できます。展望園地のある鴎ヶ崎の遊歩道が曲がる先端からは、敦賀新港の鞠山突堤越しに、敦賀半島の先の湾口を遠望。森の中に入ると登りが急になり、石段を登りきり、最後に左方向へひと登りすると金崎古戦場跡の碑が立ち、あたりが南北朝時代の本丸です。金ヶ崎城は南北朝時代に築城され、当時は新田義貞が居城。尊良親王と恒良親王を守護して足利尊氏と戦い、敗れた場です。戦国期は朝倉氏の出城となり、織田信長の朝倉攻めの際に落とされつつ、挟撃の舞台となりました。

奥の高台が城郭最高所の月見崎。通称「月見御殿」で、海抜86mの断崖からは敦賀湾が一望でき、右下は北陸電力敦賀火力発電所の貯炭所、正面奥にフェリー埠頭のある敦賀新港
対岸の敦賀半島まで見渡せます。戦国期の武将が月見を行った逸話もある景勝地です。

敦賀てくてくさんぽ5

2020年09月30日 | てくてくさんぽ・取材紀行
敦賀赤レンガ倉庫は、明治38年築の石油倉庫を利用した商業施設。アメリカ・ニューヨークスタンダード石油の建設で、館内には港湾と鉄道のジオラマ展示と、レストランがあります。レンガはオランダ製。壁が柱の内側で、中から柱が見えない造り。裏手に留置されているキハ28急行「わかさ」は、小浜線を走ったご当地急行です。

急行わかさの横を通り、かつての敦賀港駅方面へ。鋼材やクレーンが並ぶ鉄工所の建屋を抜けると、天筒山の麓に敷かれたレールに合流します。戦時中に欧亜国際連絡列車が廃止されてからは、敦賀〜敦賀港間は化学・食品関連の貨物列車のみが運行する支線に。2009年の貨物列車の廃止後は臨時の旅客列車のみ運行となり、2019年には路線自体も廃止になっています。南側は敦賀駅方面へ、北側のすぐ先は旧敦賀港駅。敷設位置は開通時のままです。旧敦賀港駅ランプ小屋は、列車の灯に使う燃料の保管庫。鉄道が開通した明治15年築で、当時のままの遺構です。

敦賀てくてくさんぽ4

2020年09月30日 | てくてくさんぽ・取材紀行
敦賀港沿岸の金ヶ崎緑地に入ったところにある旧敦賀港駅舎(敦賀鉄道資料館)は、「欧亜国際連絡列車」の発着駅を模した資料館。館内では敦賀の鉄道史にまつわる展示が揃い、線路、信号機、投光機などの実物が多数。かつての敦賀港駅や敦賀駅の閉塞機(通行票)に、北陸本線で活躍した機関車や車両の模型も。急峻な山を控え多数の機関車が配備され、街は鉄道員で賑わいました。

敦賀への鉄道は日本初の4路線の一つで、明治15年に一部が開通、22年に柳ヶ瀬トンネルが竣工して、米原駅〜金ヶ崎駅(後の敦賀港駅)が全通しました。開通は明治10年の日本初の新橋〜横浜から、わずか5年後のことでした。明治45年には新橋駅から敦賀港駅まで「欧亜国際連絡列車」が運行。ウラジオストクへの船便に接続してシベリア鉄道経由、パリまで17日で結びました。

金ヶ崎緑地のレンガ舗道とボードウォークからは、敦賀本港地区を一望。港は明治期に国際港の指定を受けてから、対外的な物流拠点として活況を呈し、町には銀行や貿易会社が設立され、輸入実績も増加していきました。明治35年にウラジオストクに定期航路が開設され、物流と人的交流の窓口にもなりました。現在は木材、石炭、コンテナ輸送が中心で、中国、韓国との間にコンテナ定期航路があります。園内には常夜燈を模した時計塔もあり、昔と今の港風景が交錯します。

敦賀てくてくさんぽ3

2020年09月30日 | てくてくさんぽ・取材紀行
氣比神宮を後に国道8号を先へ、氣比神宮の御神体で朝倉氏の出城もあった天筒山を見て、敦賀に縁の深い武将の菩提寺を、参拝しましょう。永賞寺は敦賀領主で城主だった、大谷吉継を祀る寺。曹洞宗の寺院のため禅寺らしく質素な造りで、本堂の右手に大谷吉継の供養塔が立ちます。大谷吉継は豊臣秀吉の家臣で、毛利の高松城攻めや北条の小田原征伐で活躍した知将。関ヶ原の合戦では、盟友の石田三成とともに西軍につき敗れ、自刃しました。真田幸村は義理の息子で、本人は秀吉の隠し子との説もあるとか。山門の下がり藤の紋は、長寿繁栄を意味しています。

寺の前を流れる児屋ノ川(こやのかわ)に沿って、敦賀港へと歩いてみましょう。真禅寺には河童が与えてくれた、水難避けの銅印を所蔵。かつては運河だった名残が右側に見られ、左は船溜まりで船小屋が設けられ、漁船の係留所になっています。かつては敦賀港の舟入場として、停泊する船で賑わいました。敦賀は小浜藩領時に、町立てを整備。市街を笙の川と児屋ノ川で、川東・川中・川西の三地区に分け、川東は漁師町と遊郭、川中は海運や商人・職人町、川西は奉行所など行政機関や問屋が置かれました。「川東」の右岸・栄新町はかつての遊郭街、河口寄りの港町は今も漁師町風情が漂います。