ウマさ特盛り!まぜまぜごはん~おいしい日本 食紀行~

ライター&編集者&散歩の案内人・上村一真(カミムラカズマ)がいざなう、食をテーマに旅をする「食紀行」を綴るブログです。

ローカル魚でとれたてごはん…八戸 『サバの駅』の、八戸前沖サバ料理

2013年09月28日 | ◆ローカル魚でとれたてごはん
今回のきた東北行で、八戸で決め打ちでの訪問を狙った店がある。その名もズバリ「サバの駅」。日本で唯一のサバ専門料理店で、大衆派ローカル魚ハンターとしては至高の目的駅、いや目的店である。にしても日本で指折りの水揚げ高を誇り、魚種も豊富な八戸にあり、なぜ全国的な大衆魚を看板にしたのかも気になるところだ。

店は繁華街の六日町にあり、カウンターに付いたらサバ料理のコースをオーダー。定番の献立に加えオリジナルメニューもあり、サバナイトにはもってこいである。最初のしめサバは絹のようなふわふわの舌触りで、ホロホロとほどけていく。脂の甘さが自然に引き出され、サバの持ち味を丸裸にした一品。続く味噌煮はトマトも加えてあり、とんがった酸味が身の旨味をひっぱりあげている。和惣菜のサバ味噌というよりイタリアンのトマトソース煮風で、青魚のくせを抑え実力を立てるベストな料理法かも。

二品をじっくり味わっていると、「熱いうちにどうぞ」と店のお姉さんが串焼きを運んできた。つくねはいわば、青魚の身の旨味の集合体。ホッコリ膨らみがあり、かみしめると次第にサバの全貌が浮かんでくる。つなぎは鶏肉だけ、軟骨風の食感にゴマを加えているのが、料理人の遊び心とか。もうひとつの身の焼き物は、かじればジュッと芳醇な脂がしたたるのが、焼きサバ好きには涙モノ。腹身や背、頭側、尾側など、部位により食感も脂ののりも違うため、食べ進めるとシコシコ、ホクホク、さっぱりとひと切れずつ違う。

お姉さんによると、店で料理に使うのは「八戸前沖サバ」と称されるブランドサバという。漁場の八戸沖北緯40度30分は水温が低く、脂肪の蓄積が促進されるそうである。サバは北から南へ回遊するため、八戸沖での漁期は初秋から晩秋と短く、今が走りであり最盛期。漁場は日本で最北、脂肪含有量も日本一と、八戸のサバは大衆魚ながら当地の顔といえる実力派だった訳だ。

熱々の品でお腹が落ち着いたところで、酒の進む珍味2品盛りがありがたい。ヅケはゴマとネギの薬味と一緒にいくと、シャッキリシコシコとカルパッチョ仕立て。しっとりした食感に、青魚の独特な香りがいい。味噌締めはおろした身を、特製の味噌に漬けただけ。麹の香ばしさが、身の旨味と相乗効果を醸し出す。若狭のへしこを思い出し、日本酒かご飯が欲しくなる、日本人の魂を揺さぶる味である。

圧倒されるような八戸前沖サバの旨さに押されっぱなしで、怒涛のごとく締めのご飯ものと汁物へ。サバの棒鮨は、サバの身ががさくりトロリと酢飯を包み込む一体感。京都名物のより、サバの存在感がストロングな押し寿司だ。汁はサバだしのせんべい汁。刻んだサバの身が強烈なダシとなり、せんべいにヒタヒタに染みたサバ味の濃縮がすごいこと。サバづくしの留めを、ずっしりと厚くまとめてくれる。

八戸沖のサバがうまいのは、回遊ルート上の絶妙な立地が大きいという。サバは北の海域では脂がきつ過ぎ、八戸から下ると産卵を控えて脂が落ちていく。魚は水揚げ地で食えとは、全国区の大衆魚もまた同じ。サバ好きの自分にとって、住んでしまいたい港町がまた増えてしまったようだ。

下北てくてくさんぽ1

2013年09月28日 | てくてくさんぽ・取材紀行
この世の果て。世界の終わり。彼岸の入口。様々な形容がどれもピッタリくる。石積みの丘を越え、硫黄の小川を渡り、白砂の湖岸を踏みしめて。ジリジリ焼かれるように照りつけられながら、一歩一歩進める自分は、未だ現世に留められた修行者か、次なる来世から声がかかりつつある伝道者か、はたまた共に追われることとなる餓鬼か亡者となるのか。

北限の霊場にて、死生感が重く問われているような思いがする。

大洋食堂の焼きサバ定食@陸奥湊

2013年09月28日 | 旅で出会った食メモ
「あまちゃん」最終回を見ながらの「旅先グルメをリフト撮り」は、八戸・陸奥湊魚菜市場近くの「大洋食堂」にて、焼きサバ定食。超場末感漂う店だが、これで1000円オーバーと割といい値段。

市場では、一人前200円ぐらいの刺身とご飯、味噌汁を組み合わせ、場内のテーブルで食べるのもあった。観光客向けっぽかったのでこの食堂にしたが、市場のかっちゃ(母ちゃん)に囲まれての朝ごはんもよかったかな。

宮古てくてくさんぽ9

2013年09月28日 | てくてくさんぽ・取材紀行

きた東北行のこぼれネタより。被災地の定点比較は、続いて宮古市街。こちらは震災の年の6月訪問だから、変化がより大きい。

市役所は、目の前の歩道橋に船が乗ったままの映像を、当時各所で見た。閉伊川に面しての立地ながら3階までやられたということは、港湾部の市街は壊滅を意味する。

その鍬が崎・蛸の浜地区は、当時浄土ヶ浜大橋から見下ろした眺めに、言葉を失ったものだった。田老と同様、こちらも更地に草が萌え始めていた。

まだまだ2年、まだまだこれから。