ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

それにつけても金の欲しさよ

2015年06月24日 | その他

 それにつけても金のほしさよ、とはよく言ったものです。 

 お金というのは大体どんな社会にもありますね。
 物々交換では経済が発展しませんから、お金が発明されたわけですが、昔は金貨や銀貨だったものが、いつの間にやら紙切れに代わってしまいました。

 紙切れが欲しくて欲しくて仕方ないのが凡人というもの。
 しかしそれも当然で、紙切れがなければ寝るところにも食べる物にも不自由し、下手をすれば死んでしまうわけですから。 

 そういう私も平日の大半を紙切れを手に入れるために浪費し、時には宝くじなどを購入して一攫千金を夢見る守銭奴です。

 世の中には金で買えない物もある、という言い様をする人がいますが、裏を返せば金で買えない物はほとんど無い、という意味でしょうね。
 うなるほど大金を持つ必要はありませんが、まぁまぁお金の心配をしなくても人並みに暮らせるだけの収入が無ければ、人は幸福にはなれないでしょう。

 貧乏はそれだけで不幸だろうと思います。
 貧乏ながら楽しく生活、なんて言ったって、それは生活できる程度の貧乏であって、食うや食わずの極貧であれば、心は荒むに違いありません。 

 私は心が荒むほどの貧乏はさすがに経験したことがありませんが、かといって人並み外れた裕福な生活というのも経験ありません。
 どこまで行っても人並みか、ちょっとマシと言う程度ですかねぇ。

 で、私はやむなくそれで満足しているわけですが、職場には信じられないようなケチな人がいます。 

 京都に出張した際、夜行バスを使って旅費を浮かせ、浮いた分は懐に入れてしまったり、兼業農家の職員が自宅で採れた果物を格安で職場で販売したり、昼飯代を浮かすために毎日お昼は抜きだったり。
 犯罪的行為か、健康を害する行為と言わざるを得ません。

 終戦直後、闇米を食うことを断固拒否して餓死した裁判官がいたと聞きます。
 職業的倫理観は見上げたものですが、何も命まで賭けなくてもねぇ。
 裁判官ですから、闇米を買う金くらいはあったのでしょうが、倫理観がそれを許さなかったのですね。

 これはケチとかいう次元の問題ではなく、善悪の程度の問題でしょうねぇ。
 厳密に言えば犯罪なのでしょうが、職場の鉛筆を胸ポケットに入れて気付かず帰宅してしまい、そのまま家で使っている、程度のことは見逃されるのが普通でしょう。 

 闇米を食うのもその程度だと思いますが。

 私がケチれないのは、交通費ですねぇ。
 精神障害の後遺症か、狭い場所に長くいるのがどうしても苦手。
 そのため電車はグリーン車、2~3万円くらいで行ける所にはタクシーを使うのを常としています。 

 あと、飯代。
 立ち食い蕎麦とか回転ずしとかマクドナルドとかチェーンの居酒屋とかは、どうしても行く気が起きません。 

 もう少し色々な面でケチることができれば、今頃は小金がたまっていたかもしれませんねぇ。

 それにつけても金の欲しさよ。

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国家の悪

2015年06月24日 | 社会・政治

 戦後に生まれ育った圧倒的多数の現代日本人は、ともすると、大日本帝國と日本国が断絶しているかのような錯覚に陥っているかのごとくです。 

 しかし私は、このブログで何度か指摘しているとおり、戦前も戦後も、あるいは江戸時代も平安時代も、日本人の本質は全く変わっていないと思っています。 

 敗戦ショックからか、明治維新に始まった帝国主義時代の日本を、暗黒の時代のようにとらえる見方が現れ、一時それはそれなりの支持を得ていたようですが、全く馬鹿げた考えだとしか言い様がありません。
  その当時は、植民地を持つ帝国主義国家として自立するか、あるいは植民地支配を甘んじて受けるか、どちらかしかなかったわけで、賢明な国民なら、前者を目指すのが当然です。
 大日本帝國は白人の帝国主義国家群をお手本として軍備を整え、植民地獲得のための戦いを繰り広げました。

 言わば白人帝国主義国家群の優秀な生徒だったわけです。 

 そしてわが国は有色人種の国家として初めてその偉業に成功し、それかあらぬか第一次大戦後の講和会議では、人種差別撤廃の文言を入れることを主張するも、白人国家群の反対にあって断念せざるを得ませんでした。
 大日本帝國のこの正当な主張に対し、少なくとも欧米のマスコミは高く評価したと伝えられます。

  そして太平洋を挟んで反対側の大国、米国と対立することになりました。
 太平洋の利益を求める両国が対立するのは必然だったと言えましょう。

   奇しくも昨日は沖縄戦が終結した日。
 沖縄の守備隊も県民も、よく戦いましたが、日本軍守備隊8万に対し、米軍は50万以上。
 端から勝てるはずがありません。 

 しかしこの戦いで、米軍は本土決戦での米側の戦死者を100万人以上と試算。
 勇猛で鳴る米海兵隊を震え上がらせたと伝えられます。 

 大日本帝國は誠に残念ながら武運つたなく敗れましたが、その奮戦ぶりは世界に轟いたと言って良いでしょう。
 第3帝国が敗れた後は、ただ一国で、世界を相手に3か月も戦ったのですから。 

 大日本帝國の悪は、悪辣ぶりが中途半端だったことでしょう。
 より多く破壊し、より多く殺戮し、悪逆非道の限りを尽くした国が勝利するのですから。
 そして敗れた側が、いつの時代も悪の汚名を着せられるのです。 
 
   敗軍の将だから裁く、と言うのならまだ理解できます。
 しかし悪だから負けた、悪だから裁くというのは、茶番以外の何物でもありません。
 
 それは現代社会でも変わりません。

 米国をはじめとしてロシアや中国など、軍事力の強い国は、今なお自分勝手な理屈を振り回し、正義面して非道を繰り返しているのです。 

 それが猿より毛が3本多いだけのヒトという種の限界なのでしょうか? 

 現代日本人は、大日本帝國臣民として激動の時代を生きた先輩方の、きわめて近い子孫です。
 ごく近いご先祖様を、軍国主義だの野蛮だのと言って非難することは、天に唾するものだと思います。
 先輩方は時代のスタンダードにのっとって行動しただけのことです。
 後世の価値観で過去の行動を批判するのは唇寒いというものです。

 むしろ、今日の日本国を作る礎となった尊い神々であるに違いありません。 

 英霊という言葉は好みませんが、少なくとも、国の将来のために心ならずも戦火に倒れた先輩を貶めるような物言いは、私には我慢なりません。

 私はただ、自然な感情で、祖先を敬い、その子孫たる己を誇ることが当然視されるような雰囲気が、現代日本を覆ってほしいものだと思います。 

 そうでなければ、先輩方は死んでも死にきれないと思うのです。

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