今日は長崎に原爆が投下され、さらにはソ連が参戦した日。
どうにもならなくなって、翌日御前会議が開催され、ポツダム宣言を受諾することを決定し、大日本帝國はついに無条件降伏となりました。
当時の大日本帝國臣民にとってはこれ以上ないほどの屈辱を味あわされた日です。
私の母は幼い頃長崎で被爆しましたが、今も元気です。
義母は東京大空襲を生き抜きましたが、母親と妹を失っています。
私たちの親世代は幼い頃戦争を体験しています。
私たちにとっては、教科書の中の出来事です。
しかし親が実際に体験したのだと考えると、遠い昔に感じられる第二次世界大戦も、そう古くは無いのかもしれません。
幸いにして私たちの世代は戦争を体験せずに50代を迎え、もはや戦争が始まっても徴兵に取られることは無いでしょう。
50過ぎの男を徴兵で取るなんてことになったら、その戦争は惨敗だということですから。
第二次大戦後、大国同士のガチンコ対決は今のところ起きていません。
核兵器の登場が、戦争を始めることを躊躇させていることが大きな要因でしょう。
しかしロシアはウクライナを侵略し、今もその戦いは続いています。
当初は数か月でロシアがウクライナを飲み込むのだろうと思っていましたが、西側諸国の武器供与もあり、今にいたるも戦争の終わりは見えてきません。
人間というもの、本当に愚かです。
政治家は大臣や首相になりたがり、安いサラリーマンでさえ、小さな世界で出世したがります。
他人と比較し、少しでも優位に立とうとするのは人間の本能なのでしょうか。
人間が内部から進化し、愚かな争いをやめ、静かに暮らせる日が来るのでしょうか。
恒久平和は全人類にとって叶わぬ夢なのでしょうか。
この世に生を受けて、生きて居られるのは100年が精いっぱい。
たった100年を争いに費やして生きなければならないとは因業なものです。
近頃、死ということをよく考えます。
身近な人が亡くなった時はもちろんのこと、有名人の死や、近所にある葬儀場に明かりが灯っているのを見るだけでも、死がいかにも近しい存在であると感じ、慄然とします。
死刑囚の死への恐怖、犯罪被害による死、病死、老衰、自殺、色々な死があります。
私も含め、150年後には現在生きている人は全員死んでいるのだと思うと、この世の儚さを感じます。
自らの手を見、鏡で顔を見ると、これらすべてが朽ち、焼かれてしまうのだと、恐怖に震えます。
第二次大戦時、戦死した人や空襲で亡くなった人々は何を思ったのでしょうか。
静かに、敵味方すべての冥福を祈るとともに、いずれ死に行く全人類を愛おしく感じずにはいられない日です。