30年以上前のことになりますが、多くの若者が就学も就労もせず、自宅に引きこもっていることが問題になりました。
この時はニートなる言葉が流行り、若者に特有の問題として扱われて、大人になって自覚を持てば社会に出るだろう、という雰囲気が漂っていました。
当時大学生だった私は、非常な違和感を覚えました。
中年になると突如として働きだすとでも?
これらの問題は必ず長引いて、いずれは親が亡くなり、ニートなる若者たちも年を取ってしまい、生きる術を失うだろうと予感しました。
その悪い予感は、当たってしまったようです。
最近、50代の子を80代の親が面倒をみるという現象が多発して、5080問題と呼ばれるようになりました。
これは時を経ずして6090問題になり、70100問題に進み、ついには孤独死の異常な増加という結果をもたらすでしょう。
私は精神的な問題を抱えながら、浪人も留年もせずに22歳で大学を卒業して、公務員になりました。
考えられるかぎり我が国においては最も堅実な道を歩んだと言ってもよいでしょう。
30代後半の頃に精神的な問題が顕在化し、長く病気休暇を取る羽目に陥りましたが、40歳以降、この問題は影をひそめることになりました。
そんなお堅い社会人生活を送っていますが、就職して5年間くらい、ニートを羨ましく思っていました。
仕事をせずに衣食住を親が提供してくれ、毎日が日曜日の生活を送れたら最高だと思ったのです。
しかしそれを実行に移すことは出来ませんでした。
就労年齢に至ってまで親に養ってもらうということが想像出来なかったからです。
ニートを指して、人生がもったいないと言った人がいます。
勤め人になって家族を持って、という生き方とニートという生き方、どちらがもったいないのかは分かりません。
隣の芝は青い、ではないですが、勤め人である私から見ると、有り余る時間を自由に使えるニートの人生がもったいないなんてことはあり得ないと思います。
それぞれの価値観によるわけですが。
一口にニートと言っても就労、就学の意欲がありながらそれが叶えられないという人もいるでしょうし、職業はニート、みたいな開き直った人もいるでしょう。
また、全く外出出来ない人もいれば、コンビニに行くくらいなら平気という人もいるでしょう。
そして、これらは現代特有の現象では無いように思います。
江戸時代にはぶらぶら患いと言う言葉があったそうです。
また、明治時代に書かれた夏目漱石の「それから」では、裕福な家庭で生まれ育ち、実家からもらう金銭だけで優雅に暮らす30歳くらいの、いわゆる高等遊民が描かれています。
おそらく数の多い少ないはあるにせよ、いつの時代もそういう人達がいたのだと思います。
しかし先人たちがそれを社会問題として解決しようとしたとは聞いたことがありません。
1970年代以降それらが社会問題になったのは、あまりにもたくさんの人々が家に引きこもるようになってしまったということが原因かと思います。
なぜそういうことになったのか分析することはあまり意味が無いように思います。
これは根本的解決は不可能であり、対症療法的な解決を模索することに傾注すべきでしょう。
つまり個別具体的な事案を一つ一つつぶしていくという方法です。
非常に面倒くさいことですが、引きこもりの事案はそれぞれに事情が異なるので、これが解決方法というものはありません。
理想は誰も働かずに生きていける世の中ですが、そんなものは世に成立した試しがありません。
30年以上に及ぶ年月が、ニートを若者の現象から初老までをも含む概念に変えました。
私はその30年を社会人として生きてきた者として、スネかじりで生きてこられた人々を羨ましく思います。