数日前に、夫婦同姓を定めた憲法の規定は合憲である、との判例が示されました。
解せません。
明治3年まで、庶民に名字はありませんでした。
要するに熊さん八っつぁんだったわけです。
明治3年には名字を持っても良いとしただけで、名字を名乗らなければいけない、というわけではありませんでした。
明治8年に名字を名乗ることが義務付けられました。
で、明治8年から夫婦同姓だったかというと、そうではありません。
明治31年まで、結婚しても夫婦はそれぞれ元の姓を名乗ることとされていました。
つまり現在と逆で、選択の余地なく、夫婦別姓が強制されていたわけです。
明治31年に至って、庶民の間にも家を重んじる風潮が高まり、ドイツの民法などを参考にして、基本的に妻が夫の家に入り、夫の姓を名乗ることが強制されることとなりました。
もちろん、婿の場合はこの逆ですね。
終戦直後、結婚したなら夫婦はどちちらかの姓を名乗ることとされ、家意識はやや薄まったものの、家族は全て同じ姓を名乗る、という法律は残りました。
よく自民党などの政治家や保守派の学者が、夫婦別姓にすると家族の絆が崩壊する、などと言いつのりますが、過去の経緯を考えると、夫婦同姓はわが国に定着してからそれほど古い制度ではありません。
もちろん、わが国の美風を表す伝統などであるはずがありません。
むしろ長い歴史のなかでは、ほんの短い期間施行された変な制度と言うべきでしょう。
何しろ私が不思議に思うのは、野党などが導入を目指す選択的夫婦別姓制度は、同姓を禁じるものではなく、別姓でも同姓でも、その夫婦の意思によって選択できるのに、まるで夫婦別姓が強制されるかのごとき論調が見られることです。
同姓でなければ家族の絆が保てないと思う夫婦は、同姓にすればよろしいでしょうし、そうでない夫婦は夫婦別姓を選択すればよいでしょう。
現在の夫婦同姓を強制する制度よりも選択的夫婦別姓が優れている点は、選択できる、ということです。
夫婦同姓が短い間に定着して、夫婦同姓に慣れきってしまったがゆえの誤解を、選択的夫婦別姓に反対する人々は抱いているのではないかと想像します。
親や子供の名字が異なるからといって、それで崩壊する程度の絆なら、夫婦同姓でも崩れてしまうに違いありません。
家族といえども一人一人は違う人間。
個人の小さな集まりが家族です。
それを姓を一緒にする程度のことで、無理やり絆が保てると考えるのは、いささか子供っぽいと言うか、人間というものが持つ強烈な個の恐ろしさに気づいていないように感じます。
強烈な個の集まりである家族が絆を保つ所以のものは、姓などではないし、浅はかな愛情や思いやりでもありません。
おそらくは、社会的な生き物である人間が持つ、どこかに帰属したい、という本能的な欲求であろうと思います。
選択的夫婦別姓が認められたとしても、帰属意識を高めるために同姓が必要と考える夫婦が現時点では圧倒的に多いだろうと予測しています。
ざっくり8割くらいは、夫婦同姓を選択するだろうと思います。
それはそれで良かろうと思います。
同姓であれ別姓であれ、自らが選択したという事実が、何よりも夫婦や家族の絆を強めるに違いないと、私は思っています。