(9)マンジロウ、本船の上から「バナナ」の屋台が目に留まる
1841(天保12)年11月20日、午前11時。ハナロロ(ホノルル)港
ジョン・ハウランド号はオアフ島のハナロロ港に入港した。
あの店で待っているぞと、レイに言い残して乗組員は下船した。船の甲板に残っているのは、船員手帳を持っていないマンジロウやデロたち5人と残されたその5人が不安だろうと志願して残った通訳のレイである。
本船の正面彼方に幾つもの物売り屋台が並んでいた。マンジロウは、レイから画板と鉛筆を借りて黄色の房が積んである屋台をスケッチし、What?と聞くと、レイが「バナナ」と教えてくれた。
マンジロウが何だと聞こうとしたら、タラップ下に戻ってきたボースンが、レイに、5人を連れて入国管理事務所に来るようにと、船長が言っておいでだと告げた。
(10) マンジロウ一行はハナロロでの自由行動を許される
マンジロウ一行は、入国管理事務所の官吏と船長の折衝で上陸は許され、しかもドーナミトリー(施設)外での自由行動も許された。
(11)マンジロウは始めて自分で物(バナナ)を購入する
1841(天保12)年11月21日、午前10時。ハナロロ(ホノルル)港
マンジロウたちは、他の水夫と同じ宿泊所に泊り、宿泊代の半分もする高い5セントの朝食をとる。
朝食を終えたマンジロウとダイモは、ハナロロ港の物売り屋台で食べ物だろうと確信して3房3セントの「バナナ」を買った。食べ方を屋台の娘から教わって、1房12本をその場で2人で食べてしまい、残りの2房を土産に仲間に持ち帰った。
歩きながら、2人は同時に「高岡の大網引きの縁日」と同じだなと宇佐浦を思い出した。
(13)絵描き通訳のレイからカレンダーの仕組みを教わる
1842(天保13)年3月13日、日曜、午前9時。ギューアン(グアム)島沖
マンジロウは、バウスプリット(船首から前に向かって突き出している棒)の根元に立って、ギューアン島を探して前方の海を見張っていた。
ハナロロを出港してから、2日が過ぎた昼下がり、レイから教わったカレンダーの仕組みを思い返していた。11月は30日のショート・マンス、12月は31日のロング・マンスと教わり、土佐の暦の「小の月」「大の月」と同じだと思った。
(14)生まれて初めて娼館に上がった
ジョン・ハウランド号はアガニアの港に接岸されて、マンジロウも丸1日の上陸が許されて、アルデードに誘われ、生まれて初めて娼館に上がった。
(15)ウマタック村で船に必要な水と薪を購入する
1842(天保13)年4月2日、土曜、午後2時。ギューアン(グアム)島ウマタック湾
ギューアン島には港が2つあり、アガニアは町で、鯨油を売り、ウマタックは村で、長持ちする水と脂をたっぷり含んだ薪を購入ことにしている。
(16)土佐国室戸岬の鯨組の組織
天保13年3月15日、室戸岬津呂組(1842年4月25日、月曜)
土佐国室戸岬には津呂組と浮津組の2つの鯨組があった。
鯨を取るための3種の漁船、勢子組・網組・持双組を備え、配下に400人の鯨漁師を抱え持つのが鯨組だ。
太平洋に突き出した室戸岬を境目として、岬の東側、西側をそれぞれの鯨組が漁場としていた。
津呂組の山見(見張り役)二番手の徳蔵は、山見頭の常太郎に、昨日、来ていた役人は何を言っていたのかと尋ねると、常太郎が、最近、異国船が何杯も足摺岬の沖を通り過ぎるらしいので、異国船を見たら室戸市庁に届けるようにとのことだと答える。それを聞いて、徳蔵はマッコウクジラの見張りで手一杯だと語気を強めた。
(17)マンジロウは涙でどんこを濡らし室戸岬を眺めていた
1842(天保13)年4月26日、火曜、午前9時。室戸岬の沖合40海里
ジョン・ハウランド号の左舷に寄りかかったマンジロウは、長そでのシャツの上にはどんこを羽織って、海面を見つめていた。頭に被っているのは、ウマタック村の雑貨屋で買ったつばの広い帽子で、麦わら帽子によく似た帽子で、宇佐浦を思い立たさせた。
4月3日、ギューアンを離れたジョン・ハウランド号は、マッコウクジラを追って、いまより本船は北上すると船長の命令があった。
琉球手前のフォルモサ(台湾)で、水、食料、薪の補給を済ませて、琉球諸島のわきを通り過ぎたのは、4月23日の昼過ぎだった。船長は士官とボースンに、ジャパンは今も「サコク」を続けているそうだ。安全確保のため、ジャパンの島影が見えている海での捕鯨は一切行わないと告げた。
ボースンはレイを伴って、マンジロウに、あと2日ほどのうちに、本船はジャパンに大きく近寄る。今見えている島と同じ隔たりで通り過ぎることになるが、「サコク」をしているのでお前を送り返すことはできない、辛いだろうが我慢してくれと、肩に手を載せた。レイは、ボースンが告げたことを正しく伝えた。マンジロウはボースンを見上げて敬礼をした。
室戸岬に違いないと分かる陸地が見えてきた。マンジロウは、どんこを脱いで強く抱きしめ陸地を眺めて涙でどんこを濡らしていた。
(18)マッコウクジラを追う津呂組の漁師
天保13年3月16日、室戸岬津呂組(1842年4月26日、火曜)
常太郎が支庁に出張ったので、徳蔵が見張りをしていると、遠眼鏡の中に外国帆船を見つけた。支庁に知らせるべきか判断がつかぬまま、もう一度、帆船と浜の距離を測るため遠眼鏡を見ると帆船の後に水平線が見え、遠眼鏡を浜のほうにずらすとマッコウクジラが潮吹きをしていた。
徳蔵は一瞬もためらわず、小屋の半鐘を叩いた。半鐘の種類は、クジラがすぐ近くにいる報せの槌で半鐘の内側をこする擂半(スリバン)である。真っ先に船を出したのは、クジラに銛を打ち込む何杯もの勢子船である。舳先に銛を手にした羽指(ハザシ)が乗り込み漕ぎ手8人の勢子船がクジラ目がけて走り始めた。続いてクジラを取り囲み浅瀬のほうへ追い込む何杯もの網船が走る。網船も八丁櫓の快速船だ。最後にクジラを浜まで運ぶ持双船が2杯である。
徳蔵は孟宗竹を振り続けてクジラの居場所を知らせていた。
(19)マンジロウの前で津呂組の漁師がマッコウクジラを仕留める
マッコウクジラに襲いかかる漁船の群れから半海里(926m)離れた場所でホイットフィールド船長は減速を命じて、副長に近くに軍艦や砲台がないか確かめろと指示した。
船長は安全を確認して漁船の群れまで70ヤード(64m)のところで停船を命じた。
津呂組の羽指は銛をクジラに向かって投げず、空に向けて放り投げる。頂点に達した後は弧を描いてクジラに突き刺さる。捕鯨船の水夫たちは、始めてみる光景に驚き声が上がる。その銛も既に20本を越えて突き刺さっている。さらに6本の銛が突き刺さったときにマッコウクジラの動きが止まった。しかし、クジラが息絶えていないのはマンジロウにも判っていた。
その時、腰に包丁を差した羽指の2人が、海に飛び込みマッコウクジラ目がけて近寄っていき、突き刺した銛を手掛かりにクジラの背中に登っていった。瀕死のマッコウクジラの凶暴さを知っている水夫たちは誰ひとり考えたことはなかった光景に目を瞠っていた。漁船の漁師たちが「じょうらく、じょうらく、……」と合掌して唱え始め、背中の羽指は頃合いを見てクジラの頭部の噴気孔わきの急所へ両手で掴んだ包丁を突き刺した。
後日、マンジロウは、水夫たちから「じょうらく」の意味を聞かれ答えられなかったが、水夫たちは、「あれは息絶えるまで死闘を繰り広げたクジラへの、尊敬の表現に違いない」と言っていると、レイの通訳にマンジロウはその通りだと思った。
全速前進、船長の指図にボースンが号令した。どの水夫の顔も気を昂ぶらせて上気していた。ボースンの指図で水夫たちは鯨組漁師に敬礼をしていた。
マンジロウは本船の艫に移って、勢子船を見つめていた。勢子船まで1町(109m)泳ぐだけでよいのだ。在所につながっている海である。が、マンジロウは飛びこまなかった。ハワイのハナロロには約束した4人の仲間がいるのだ。
(次章に続く)