「あらすじ」
「ちぎりた鎖」
七 (動かなくなった闇の歯車。佐之助は小さい金でおくみと暮らすことに。二人に幸せが)
―――きえは、少し変わったな。
暗い町を歩きながら佐之助はさっき別れてきた女(きえ)のことを考えていた。もう、小心で怯えやすい女ではなかった。伊兵衛からきえをかばってやるつもりが、かばわれたのは佐之助のほうかも知れなかった。きえは、同心に佐之助のことを訊かれて、違うと答えたが、伊兵衛の前でそういうには勇気が必要だったはずだ。伊兵衛が、いやその男はあのときの相棒だと言えば、きえは一貫して伊兵衛の言い分を否定しなければならない。それだけの腹を決めなければ、あの答弁は出来なかったはずだと佐之助は思った。
―――近江屋の息子とうまくいっているのだ。
佐之助は、幾分妬ましい気分でそう思った。
―――さて、金はどうなる ?
佐之助は足を早めた。そのことを、おかめの親爺に確かめてみようと思ったのである。
おかめはがらんとして、親爺一人が所在なげに店に腰かけて、山芋の皮をむいていた。佐之助はいつもの隅の席に行った。
酒を運んできた親爺に、佐之助は低い声で言った。
「伊兵衛が捕まったぜ」
親爺は呆然と佐之助を見つめた。
「ほんとうだ。この眼で見てきた」
「………」
「ところで、金はどうなるんだね。あんた、あり場所を知らないか」
親爺は首を振った。
「知りませんな。あの人が言うはずがありませんよ。そういうことわかるでしょ」
そう言われると、親爺が言うとおりだという気がした。
「すると、ただ働きをしたというわけだ」
「でも、あんたは運がいいほうかもしれませんよ」
佐之助が差し出した銚子を受けて盃をなめながら親爺が言った。
「浪人さんは果たし合いをして、共に死んだそうですよ。そして、仙太郎といった若い衆は付き合っていた女に殺されたそうです。それと、あの白髪の爺さんは中風になり、ぼけてしまったようです。金のことは忘れちまったかもしれませんな」
「………」
すると、五人の男たちが、人の知らない闇の中で回し続けてきた歯車が、これでぴたりと止まったのだ。歯車は俺一人では動かない。佐之助は沈黙したが、次に不意に腹の底から笑いがつきあげてくるのを感じた。なんという運のない、情けない連中なのだと、昔の仲間の顔を一人一人思い浮かべながら、佐之助は笑った。
店を出てから佐之助はひどく酔っているのに気がついた。夜道を飲めるように歩いた。
あの連中と、二度と顔を合わせることはないのだと思った。すると、取り残されたような寂寥が胸を満たしてくるようだった。知っている奴がみんないなくなりやがった。連中も、きえも、おくみも、と思った。
黒江町の裏店の土間に、佐之助はのめり込んだ。すると障子が開いて、柔らかい手が佐之助を助け起こそうとした。
「おや、おめえは誰だい ? 」
佐之助は首をもたげた。すると暗い光の中に、女の姿が眼に入った。女は佐之助を引っ張りあげながら、くすくす笑った。
「上がってくださいな。そうすればわかりますから」
「おや、その声はおくみだな」
と佐之助は言った。女は佐之助があんなに探しても見つからなかったおくみだった。
「おめえ、いつ帰ってきたんだ」
「今日の昼」
佐之助は崩れるように畳に腰をおろした。
「いま、お茶出しますから」
「まあいい、坐れよ」
佐之助は女を見た。おくみは瞬きもしないで、佐之助を見つめている。佐之助は女の手を引き寄せた。すると小柄なおくみの身体は、畳をすべって佐之助に倒れかかってきた。女の頸に顔を埋めると、いい匂いがした。
「おめえ、ほんとにおくみか」
「ええ、そうよ」
「ほんとのおくみだったら、乳に触らせろ」
おくみは答えなかったが、黙って襟をくつろげると、佐之助の手を胸の奥にみちびいた。佐之助の手は、柔らかい隆起を掴んでいた。奥村を訪ねた朝、明け方の光の中に浮かんだ二つの乳房が眼の奥に浮かんだ。安堵感が佐之助の胸を満たした。
―――このあたたか味を頼りに、生きるのだ。
と思った。日雇いでも何でもいい。世間の表に出してもらって、まともに働き、小さな金をもらって暮らすのだ。
「もう、どこにも行くな」
佐之助が言うと、おくみは「ええ」と言い、佐之助の手を押さえて、重い乳房を押しつけてきた。
終