「あらすじ」
「誘う男」
六 (おりえとの結婚を前に、別れてくれないおきぬに困っている仙太郎)
「まだ、離れちゃ、だめ」
仙太郎が身動きすると、女(おきぬ)は囁いて、きつくしがみ付いてきた。仕方なしに仙太郎はまた女の背に手を回したが、汗ばんだ裸の身体をくっつけ合っているのが気味悪いだけで、何の感興も残っていなかった。
―――おりえとは雲泥の差だ。月とすっぽんだ。
仙太郎は、まだ二度しか寝ていない許嫁の輝くようだった裸身を思い出し、腕の中にどたりと横たわっている女に、心の中で呪詛の言葉を投げつけた。汗と入りまじった女の白粉の香が、軽い吐気を誘う。
………。
―――とにかく、こういうことを繰り返してちゃ埒があかない。
仙太郎の心の中に、またいつもの焦燥が戻ってきている。何しろ秋には祝言があるのだ。親も先方も、仙太郎にこんな女がくっついているとは夢にも思っていない。もしも、このことがばれたらと考えると、仙太郎は背筋に悪寒が走る。
もう少し早く別れ話を切り出すべきだった。秋といえば、もう眼の前である。そう思いながら、まだ言い出せないのは、いまうしろで化粧をなおしている女がこわいからだった。
女はおきぬという名前で、仙太郎より三っつ年上である。門前仲町にある料理茶屋で知り合って深い仲になった。そういう仲になって、あらまし三年経っている。仙太郎は初めから今のように別れる気があったわけではなく、一時はのぼせてこの女を女房にしてもいいと思ったぐらいである。
だが、少しのぼせが覚めると、それが無理なことはすぐにわかってきた。仙太郎の家は、夜具を商っている老舗の兵庫屋である。仙太郎は後とりだった。三つも年上で子供まで産んだことがある女を、口やかましい父親が兵庫屋の嫁として迎えるはずがなかった。
いかい、そういうことでは、女のほうが仙太郎より分別があった。女は最初から仙太郎と一緒になることを諦めていて、望みもしなかった。嫁をもらうのは仕方ないし、そうなっても、今までとおり来てくれればそれでいい、と言った。
仙太郎は、女の諦めのよさに安堵し、そんなことでいいならお安いご用だと、むしろ女に同情したほどである。その頃は、まだ見事な乳房と厚い腰を持つ女に未練が残っていた。
「それでも別れたいと言ったら、どうする ? 」
女と話しているとき、そう聞いたのは、たしか一年ほど前である。ちょうど、おりえとの縁談が持ち上がった頃でおりえに心を動かされていたし、そのぶん、おきぬに倦(あ)いていた。
「あたしは別れないよ。別れるなんて言ったら、あんたを殺してやるから」
おきぬは無表情に言った。冷たい突き刺すような眼だった。
仙太郎は、女と別れて元気なく歩いた。女と寝てしまった後悔が、また重苦しく胸を押さえつけてきた。賭場に行こうか、と半ば自棄気味に思った。だが、すぐに木場にあるその賭場に、三十両の借りがあることを思い出し、八方塞がりだと仙太郎は思った。
七 (伊兵衛に、百両になる押し込みを誘われる仙太郎)
「おや、これから、また蜆川ですか。あの店でちょいちょいお目にかかりますなあ」
ぶつかりそうになった相手(伊兵衛)は、仙太郎を見ると馴れなれしく声をかけてきた。
だが、仙太郎の記憶にはない男だった。
「さっきね。橋の向こうで、あんたのレコに逢いました。惜しいことに年増だが、別嬪さんですな」
「………」
仙太郎は眼を瞠った。
「しかし大変でしょうなあ。ああいう人がいて、片一方には砂田屋のお嬢さんと縁談がまとまっている。それで片方が身を引いてくれれでなんちゅうことはないわけだが、そこはそれ、女というもものは一筋縄でいかんものですからなあ」
「あなた、どなたですか」
「なんちゅうのか、ま、飲み仲間として、見るに見かねてとでも言いますか。力はないが、智恵なら少々持ち合わせがありますから、相談に乗ってあげましょうと思いましてな」
「それなら、お気遣い頂かなくとも結構です。自分のことですから、自分で何とかします」
「なんとかなんか、なりませんよ、若旦那」
「でしたら、どうしたらいんですか」
「金ですな。そう、金をやるしかありませんな。それも五両や十両だったら、あの女は投げ返しますよ。しかし、百両、耳をそろえて出したなら、別れるかもしれないね。あたしが女だったらそうする」
この男は、おきぬとぐるになって、金をゆすろうとしているかもしれないという気がちらりとした。
「そんな金が、あたしに作れるわけはありませんよ。そんな話でしたら、これで失礼します」
「ちょっと、仙太郎さん」
男は仙太郎の袖を掴んだ。ちゃんと名前も知っていた。
「その金は、あたしがあんばいしてやっていいと、そういう話ですよ」
「あんばいするって ? 」
「百両あげましょうという話です。むろん、ただというわけにはいきませんよ。ちょっと仕事を手伝ってもらいますがね」
「何を手伝えばいいんです ? まるで夢のような話ですが」
「ま、それは蜆川へ行って、少し飲みながら話しませんか」
男は無造作に先に立って歩き出した。曳(ひ)かれるように、仙太郎も後から歩いた。
「酒亭おかめ」へ続く