T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

1351話「自分史「忘れゆく記憶」・旧制中学生編7/?」8/31・木曜(晴)

2017-08-31 12:23:22 | 日記・エッセイ・コラム

「父の戦死」

 父は昭和20年(1945)7月8日(時刻不詳)、韓国・済州海峡沖で乗船の第85号(第一号型)駆潜特務艇が米国潜水艦に魚雷で撃沈されて戦死した。終戦の1か月ほど前で、しかも43歳という若さである。

             (機雷の掃海に活躍した32人乗員の艦艇)                   

 戦死の知らせが母の元に届いたのは、12月1日差出の公報でした。

 父からの最後の軍事郵便は、6月10日発のもので、母の元に届いたのは6月15日頃だったであろう。その後、終戦になっても何の通知もなく、戦死の公報が届いたであろう12月5日頃まで父の生死も分からず、母はどんなにか心配したことであろう。

 母は、戦死公報を受けて後、数日泣きぬれていた。

 私は小学生になった昭和12年から、父は殆ど戦地に行っていたので、母子家庭と同様な生活でしたために、悲しみや特別な寂しさは感じなかった。

 白絹で包まれた遺骨箱が、いつ頃届いたかは覚えていない。

 遺骨箱の中には、何も入ってなく空であった。母は、家に残っていた遺品の中から、海兵団の教員時代に使っていた軍用笛を入れてお墓に入れた。

 葬儀をした記憶は全くなく、住職に位牌だけ書いてもらい、お経をあげてもらっただけである。

 その後、早い時期に、母の伯母の家から使っていない小さな仏壇を貰い、私が背中に背負って8kmほどの田舎道を歩き持ち帰ったことを覚えている。

 仏壇は整えたが、親戚を呼んでの法要をする場所もなかったので、ようやく家を建てることができた昭和30年代になって、親戚も来てもらっての17回忌を行うことができた。 

コメント
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