T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

1330話 「 自分史「忘れゆく記憶」・幼児編 1/? 」 8/6・日曜(晴・曇)

2017-08-06 14:14:32 | 書籍概要

 

 「初めに」

 記憶は頭から消えていき忘れていくものだ。

 しかし、資料などをもう一度調べて、頭の中の記憶をよび起し、

それを何かに記録すると、その記憶は当分残るだろう。

 また、記録は半永久的に残るし、後日、それを見ることで、

さらに補正できるので、より正しいものを残すことができる。

 そう思って、当面、幼児編と小学生編そして旧制中学生編に分けて、

ブログにメモっておくことにした。

 「自分史」として残すことも  ありうると思う。                                                                                       

私の出生」

 幼児編は、まず私の出生から、記述したい。

 父は、山奥の農家の五男として、明治35年(1902)1月に生まれた。

 兄弟は、兄4人の他に姉と養子に出た弟2人がいた。

 村の尋常高等小学校卒業後、家の農業を手伝っていて、大正11年(1922)、徴兵令で20歳のときに、長崎県の佐世保海兵団に入団した。

 その後、昭和11年4月からの1年ほどの除隊期間を除き、昭和20年7月戦死するまで、いわゆる「職業軍人」だった。

 当時、丈夫な男の子は全員、徴兵令で軍人になっていたようだ。

 母は、農業を兼ねた薪炭問屋の長女(戸籍上)として、明治43年(1910)3月に生まれた。

 祖母は、祖父の2番目の妻(最初の妻は若くして病死)で、最初の妻に男子が2人と女子が1人いたので、母は、事実上は次女である。

 祖母の子は、母の他に兄と弟二人がいた。したがって、母の兄弟は7人いた。

 その他に母とは父親も違う兄弟も2人いた。だから正確には兄弟は9人なのだ。

 母は、村の尋常高等小学校を卒業して、数年、父親が違う兄(医者)の家に家事見習いに出ていたようだ。

 その後、4年ほど、大阪の遠戚の家で和裁を習って、結婚するときは、職人の腕前になっていた。

  (母の姉兄弟のことまで記述したのは、後述の参考のためである。父母の生家のことも同様である。)

 父母は、昭和5年(1930)4月、写真だけの見合い(父が軍艦に乗船していたとの記録からの想像である)で、28歳と20歳で結婚している。

 父の生家は、昔、庄屋であった分家で、母の生家は村で一二の資産家の分家で、そんなことから写真だけの見合いも安易にできたのだろう。

 結婚後は、父が佐世保海兵団の新兵教員勤務だったので、佐世保で新生活を送ることになったようである。

 私は、最初の子供の長男として昭和6年3月に出生した。

 その後、父が昭和8年11月、軍艦霧島の乗艦勤務となり、横須賀軍港が基地だったので、昭和9年に家族3人は横須賀に転居した。現在の転勤の多いサラリーマンの家族と同じである。

 したがって、私は3年ほど、出生した佐世保の住居に住んでいたようだ。

 私の家族は、後年、再度、佐世保に住んでいた。私が小学5年生ぐらいの時だったと思うが、母に連れられて、父母が新婚生活を送ったアパート(私が出生した住居)や、母が和裁の仕事をしていた呉服屋や寝具屋を案内してくれた。

 私が生まれた住居は、商店街から少し離れた名切町の坂道の裏通りに面した、外から階段を上がった二階の二間のアパートで、今でも急坂の道(佐世保は海岸を除いて坂道ばかりの町だった)に面した小さいアパートが私の記憶に残っている。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする