T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

1341話 「自分史「忘れゆく記憶」・小学生編 3/?」 8/20・日曜(晴・曇)

2017-08-19 15:55:57 | 日記・エッセイ・コラム

                                                                                        

「転校」

 昭和15年の1月頃だろう、父が支那の厦門島から内地に帰還し、佐世保市内に我々家族の借家を見つけてくれた。

 石積みの段々畑の様な山手の住宅地。その中ほどにある大家さんのお宅と棟続きの2Kの家に、小学3年を終えて転居した。

 そして、小学4年の初めから佐世保山手小学校に転校した。

 私は内気で恥ずかしがり屋だったので、教室で先生から分かる人と言われても分かっていながら手をあげることができず、当てられると顔を赤くして答えるといった子供だった。

 何かずば抜けたところでもあれば、自信ができて少しは積極性が出るのだろうけど、運動会の100mでも、背が低いせいもあって良くて3番ぐらいだった。

 そんなこともあってか、小学校での出来事は何も記憶していない。

 家の近くに高学年の小学生の子供もいたが、なぜか自分で遊びに行くことは、あまりなかったように思う。だから自分一人で家の前の石垣を登るなどして遊んでいると、友達が来て、その子供の家に誘ってくれるといった様子だった。

 父の内地勤務は短期間で、初春には、支那の南にある海南島に海軍陸戦隊として戦に向かっていた。

 下の写真は、小学4年の2学期半ばの10月末頃写したものであろう。

                           

 今も手元に残っている、昭和15年11月20日差出の海南島の父からの軍事郵便の中に、上掲の写真のことについて、

「本日、11日差出の写真受け取った。半年ぶりに妻子に面会できたようだ。

 お前の言うとおり頬が痩せて写っているが、気が若々しければ案ずることもなく結構だ。

 ◇◇が一番引きしまっているように、「気を付け」の姿勢で、なかなか兄さんぶって澄ましこんでいる。

 〇〇は相変わらず力んで膨れているようだ。

 △△はぼんやりとしていて気が抜けたようで、父として笑いたくなる。……」

 と、書かれていた。

 少しは性格のせいだろうが、転校が私を一層弱々しくしたのだろう。

 下の写真は、徳山にいた頃の小学2年の時のもの。元気そうな子供だったのに。

                                

 私の子供にも、私の勤務の都合で転校させた。

 長男が小学5年の時、長女は中学2年の時。

 その時の状況を、いつか子供に聞いてみたいと思う。多分、辛い目にあった事だろうと思う。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする