「教練と裸足通学と勤労奉仕」
私が生まれた昭和6年(1931)に満州事変が起こり、小学1年のときに日中戦争、5年のとき太平洋戦争がはじまり、中学3年(1945)の夏に無条件降伏をして、日本の戦争がようやく終わった。
このように戦時に少年期を過ごした私は、中学生になると、ゲートルを巻いて通学し、教科に必須科目として軍事教練と武道(剣道または柔道)が入り、2年になると裸足で通学、夏休みの一時期を返上して砲台づくりの勤労奉仕、2年の3学期からは学校は行かずに佐世保海軍工廠への学徒動員といった中学生生活を送った。
これらのことについて、時には辛いと思っても、これが当たり前のことだと自覚し、中学生が何故こんな事をしなければならないのかといった疑問を持ったり、意見を言い合うことはなかった。
中学生になると、1年生からゲートルを巻いて通学するのだが、ゲートルを巻くのは、最初の内は難しく時間がかかった。下手に巻くと、学校に着くまでにずれ落ちるのだ。
中学では、1年から陸軍の将校が先生の「教練」という科目があって、1年のときは、整列や行進など木銃を持った軍事教練があり、2年からは、小銃(長さ128cm、重さ3.45kgの三八式歩兵銃)の撃ち方、射撃方法(立討・膝討・伏討など)、着剣の仕方、小銃を担いでの行軍など本格的な軍事教練が行われた。
今、私の身長は165cmですが、中学2年ころの身長は150cmぐらいだったと思う。手も短い私にとっては、銃がだいぶん長く、膝をつき手をついて伏せてから討つ「伏討」の訓練では、ときには、小銃の先が土に着くのだ。
その度に教官から、こぴっどく叱られ、それを繰り返すとビンタを貰うこともあった。
冬の行軍では、銃床部の鉄が冷たく手が痛いほどであった。しかし、手を緩めることはできない。銃を落としたら、それこそ大変なことだ。
もう一つしっかり覚えていることは、「体育」の後に「教練」がある時間割のときは、大変だった。
「体育」が終わると駆け足で教室に帰り、体操服を脱いで、制服を着てゲートルを巻き兵器庫まで走る。兵器庫で剣を腰につけ、銃を持って運動場まで走り、所定の位置に整列する。「体育」の終わりが遅れると、「教練」のための整列が遅れる。教官の罵声が響き、時にその後、大変なことになる。銃を担いでの駆け足だ。
週2回は、そんな時間割があったのではないかと思う。
教練の教科のなかに「銃剣術」があった。
銃剣術で使う木銃は、三八式歩兵銃に着剣した長さがあり、166cmあった。当然、私の身長より高い。銃剣術に使う防具は、剣道をやっていた私には2倍ほどの重さが感じられた。
写真はゲートルを巻いていないが、我々は歩兵訓練の延長線だから、ゲートルを巻いてこのように防具をつけて広場に整列して始まるのです。
だから、「体育」のあとの銃剣術は、小銃を持っての歩兵の基礎訓練以上に時間に追われていたし、柔剣道のように試合だけでなく、最初は、戦場の野原を走って突撃することを想定して、防具をつけて障害物競走をするように、一定の高さを跳んだり走ったりして最後に突きをするのだ。
試合形式の訓練もしたが、身長が低い瘦せっぽっちの私は、教官や背の高い生徒に斜め上から胸を突かれると、いっぺんに倒され、防具の大きさや重さで容易なことでは起きれないのだ。
「教練」は苦痛だった。当然、成績は丙だったように覚えている。
それよりも苦痛だったのは、2年生になった時から、裸足で通学することになったことだ。
通学路は、佐世保駅の少し上にあった佐世保第二中学校まで、山手町から山手を4kmほどあったが、今のように舗装されているところは少なく小石交じりの道が殆どだったように記憶している。
しかし、通学路が同じ道筋だった北佐世保から通っていた親友の同級生二人との通学は苦痛の中にも楽しいものだったので、いまでも姓だけを覚えている。カナの頭文字はコとサである。
氷が張った冬も裸足の通学だったかどうかは覚えていない。
もう一つ記憶にあるのは、2年生の夏休みの一定の期間、休みを返上しての勤労奉仕を行った事である。
佐世保市の烏帽子岳(568cm)の頂上に、高射砲台を造るためのセメントや砂や石を「もっこ」に入れて、炎天下の中を、二人で担いで下から頂上まで運んだことだ。
楽をしたいため、砂は少しこぼしながら登ったことを思い出す。