前橋競輪場で争われた昨日の第26回寛仁親王牌の決勝。並びは新田‐渡辺‐成田の福島,深谷‐吉田‐金子の愛知,浅井‐椎木尾の中部近畿で岡村は単騎。
渡辺がスタートを取って新田の前受け。4番手に岡村,5番手に浅井,7番手に深谷で周回。残り3周のホームから深谷が動いていくとこれに合わせて岡村が出ていき,岡村が新田を叩きました。バックで深谷が岡村を抑えにいくと岡村は引かずに吉田の横でイン粘り。後方になった浅井がコーナーで動くと新田も続き,深谷は6番手に。このままバックを通過して浅井の成り行き先行になりました。打鐘から深谷が発進していきましたが新田が併せるように出ていくと深谷は一杯。新田がバックで浅井をあっさりと捲り切り先頭。しかし直線で渡辺が新田を差して優勝。新田が4分の3車身差で2着。成田も4分の3車身差の3着に続いて福島の上位独占。
優勝した福島の渡辺一成選手は8月のオールスター競輪に続いてGⅠ連覇。ビッグは4勝目。GⅠは3勝目。寛仁親王牌は初優勝。僕はこのレースは深谷の先行で,浅井が愛知の邪魔をすることは考えにくいので中団を取りやすく,新田が後方からの捲りになるのではないかと想定していました。ところが吉田が岡村に絡まれたからなのかもしれませんが,浅井が上昇してきたときに深谷が突っ張らなかったために,新田の方が深谷より前に位置することに。浅井は先行して持ち味を出すタイプでもないので,この時点で福島勢の優位は動かし難くなりました。岡村が先に動いたのであれば,そのときに浅井も上がっていき,深谷より先に岡村を叩くべきで,そういう展開になればまた違った結果になったのではないでしょうか。逆にいえば深谷は浅井の動きを待った方がよかったのではないかと思います。
スピノザは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で,聖書と理性は異なることを教えると主張しています。すなわち聖書は服従obedientia,obsequium,obtemperantiaを教え,理性ratioは真理veritasを教えるのです。しかし結果的に聖書,この場合には新約聖書といった方がいいかもしれませんが,聖書も理性も人間を敬虔pietasにするという結果を齎すことは同じであるといっています。そして重要なのは,スピノザはこの意味においては聖書を全面的に肯定しているという点です。すなわち同じように敬虔という結果が得られるのであれば,聖書による受動passioであろうと理性による能動actioであろうと構わないと考えているのです。当然ながらこれと同じことが,社会契約の場合にも成立するのでなければなりません。すなわち,少なくとも人に敬虔になることを強いるような社会契約があったとすれば,スピノザはその社会契約を全面的に肯定するでしょう。したがって,ヒュームDavid Humeが理性と対立させている自然とか慣習によって成立する社会契約についても,それが人を敬虔にさせるような社会契約であったなら,スピノザはそれをおそらく肯定的に評価するのです。そしてヒュームが主張している社会契約説は,人を敬虔にさせることを排除する要素を何ももっていません。ですから実際にはヒュームがあるいは矢島が解しているような意味では,ヒュームの社会契約説とスピノザの社会契約説は対立し得ないだろうと僕は考えるのです。
実際,新約聖書の教義というのは,理性の有entia rationisとしてみるなら,キリスト教徒の共同体とか国家Imperiumの社会契約であるとみることも可能です。ですからスピノザが聖書の教義としての神Deusへの服従を肯定しているということは,その共同体や国家の社会契約を肯定しているとみることが可能なのです。ですから,社会契約が何によって決定されるべきであるかということは,スピノザの社会契約論においては二の次なのであって,その社会契約を結んでいるとみられる人びとに対して,社会契約が何を強いるのかということが重要であり,それがスピノザの社会契約論の肝心な部分を構成しているのだと僕は考えるのです。
『スピノザ―ナ15号』については今はこれだけです。読了したもう1冊の方について記述していきます。
渡辺がスタートを取って新田の前受け。4番手に岡村,5番手に浅井,7番手に深谷で周回。残り3周のホームから深谷が動いていくとこれに合わせて岡村が出ていき,岡村が新田を叩きました。バックで深谷が岡村を抑えにいくと岡村は引かずに吉田の横でイン粘り。後方になった浅井がコーナーで動くと新田も続き,深谷は6番手に。このままバックを通過して浅井の成り行き先行になりました。打鐘から深谷が発進していきましたが新田が併せるように出ていくと深谷は一杯。新田がバックで浅井をあっさりと捲り切り先頭。しかし直線で渡辺が新田を差して優勝。新田が4分の3車身差で2着。成田も4分の3車身差の3着に続いて福島の上位独占。
優勝した福島の渡辺一成選手は8月のオールスター競輪に続いてGⅠ連覇。ビッグは4勝目。GⅠは3勝目。寛仁親王牌は初優勝。僕はこのレースは深谷の先行で,浅井が愛知の邪魔をすることは考えにくいので中団を取りやすく,新田が後方からの捲りになるのではないかと想定していました。ところが吉田が岡村に絡まれたからなのかもしれませんが,浅井が上昇してきたときに深谷が突っ張らなかったために,新田の方が深谷より前に位置することに。浅井は先行して持ち味を出すタイプでもないので,この時点で福島勢の優位は動かし難くなりました。岡村が先に動いたのであれば,そのときに浅井も上がっていき,深谷より先に岡村を叩くべきで,そういう展開になればまた違った結果になったのではないでしょうか。逆にいえば深谷は浅井の動きを待った方がよかったのではないかと思います。
スピノザは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で,聖書と理性は異なることを教えると主張しています。すなわち聖書は服従obedientia,obsequium,obtemperantiaを教え,理性ratioは真理veritasを教えるのです。しかし結果的に聖書,この場合には新約聖書といった方がいいかもしれませんが,聖書も理性も人間を敬虔pietasにするという結果を齎すことは同じであるといっています。そして重要なのは,スピノザはこの意味においては聖書を全面的に肯定しているという点です。すなわち同じように敬虔という結果が得られるのであれば,聖書による受動passioであろうと理性による能動actioであろうと構わないと考えているのです。当然ながらこれと同じことが,社会契約の場合にも成立するのでなければなりません。すなわち,少なくとも人に敬虔になることを強いるような社会契約があったとすれば,スピノザはその社会契約を全面的に肯定するでしょう。したがって,ヒュームDavid Humeが理性と対立させている自然とか慣習によって成立する社会契約についても,それが人を敬虔にさせるような社会契約であったなら,スピノザはそれをおそらく肯定的に評価するのです。そしてヒュームが主張している社会契約説は,人を敬虔にさせることを排除する要素を何ももっていません。ですから実際にはヒュームがあるいは矢島が解しているような意味では,ヒュームの社会契約説とスピノザの社会契約説は対立し得ないだろうと僕は考えるのです。
実際,新約聖書の教義というのは,理性の有entia rationisとしてみるなら,キリスト教徒の共同体とか国家Imperiumの社会契約であるとみることも可能です。ですからスピノザが聖書の教義としての神Deusへの服従を肯定しているということは,その共同体や国家の社会契約を肯定しているとみることが可能なのです。ですから,社会契約が何によって決定されるべきであるかということは,スピノザの社会契約論においては二の次なのであって,その社会契約を結んでいるとみられる人びとに対して,社会契約が何を強いるのかということが重要であり,それがスピノザの社会契約論の肝心な部分を構成しているのだと僕は考えるのです。
『スピノザ―ナ15号』については今はこれだけです。読了したもう1冊の方について記述していきます。