22日の午前に鶴林寺で指された第7回加古川青流戦決勝三番勝負第二局。
西田拓也四段の先手でノーマル三間飛車。後手の井出隼平四段が左美濃から銀冠に組み替えようとしたところで先手が仕掛けました。派手な応酬になりましたが,後手が互角を維持するのはちょっとしたミスも許されないような展開だったので,仕掛けが機敏だったといえるのではないでしょうか。
現状は銀損になっている先手が歩を打った局面。ここでの正しい手順は☖7四銀☗8二飛成☖6一飛と,駒得を維持して飛車を成り込ませる順であったようです。しかし☖同銀☗同飛☖8九角成という別の駒得の順に進めたため,これ以降は先手が有利になりました。
露骨に☗6二銀と打って☖7二飛に☗7一銀不成の両取り。そこで☖4五馬と飛車にヒモをつけましたが☗7二銀不成☖同馬に☗6一角が厳しい手。☖4五馬と元の位置に戻りましたが☗5二角成☖同金☗6一飛成と先手で龍を作ることができました。
局面自体は難しかったのかもしれませんが,仕掛けられてミスが許されなかったということは,銀冠に組み替えようとしたのが危険だったということではないでしょうか。
西田四段が勝って1勝1敗。第三局は22日の午後に指されました。
『ゲーテとスピノザ主義』の第4章の2節で,ゲーテJohann Wolfgang von Goetheの小説である『若きウェルテルの悩み』が引用されています。大槻はこの小説の主人公の名前をヴェールターと表記していて,ドイツ語の読みとしてはそれが正しいと思われますが,僕はこの小説は学生の頃から『若きウェルテルの悩み』として知っているので,ここではウェルテルの方を用います。ウェルテルが書いた手紙を,ウェルテルの死後に別の人が編集したという体裁の小説です。
引用は多岐にわたっているのですが,その中のひとつに1771年5月10日,これは通算で2通目の手紙ですから小説でいえば冒頭に近い部分ですが,そこからの引用があります。その部分を引用した後で大槻は,ウェルテルが惑溺している自然の描写の中に,スピノザ的な汎神論が看取されるといっています。なお,論考の中ではこの自然というのがやや特殊な意味に用いられているのですが,この点は今は考慮の外に置きます。僕が考えたいのは,その引用部の中にスピノザの思想の影響があるのかどうかということだからです。
まず最初に確認しておかなければならないのは,スピノザの哲学が汎神論といわれるときに,スピノザの哲学はどのような意味で汎神論であるといい得るのかということと,それとは別にどのような意味から汎神論といわれるようになったのかということです。少なくともスピノザが生きていた時代に,他の思想家からスピノザの哲学が汎神論といわれるとき,そこには否定的なニュアンスが大でした。これはスピノザが神Deusを自然と同一視していること,いい換えれば必然的necessariusである筈の自然に神を貶めたということへの批判が込められた,神学的な視点が含まれていたといえるでしょう。第四部序言にみられるように,確かにスピノザの哲学のうちに,そういう批判を招く要素が含まれていたことは確かだと僕は考えます。
汎神論論争と名付けられているように,ゲーテの時代にもこの種の否定的意味が汎神論の中にあったことは確かだと思います。ヤコービFriedrich Heinrich Jaobiは神学的な観点からスピノザを批判する立場に回ったということからみても,そこに否定的意味があったことは確かではないでしょうか。
西田拓也四段の先手でノーマル三間飛車。後手の井出隼平四段が左美濃から銀冠に組み替えようとしたところで先手が仕掛けました。派手な応酬になりましたが,後手が互角を維持するのはちょっとしたミスも許されないような展開だったので,仕掛けが機敏だったといえるのではないでしょうか。
現状は銀損になっている先手が歩を打った局面。ここでの正しい手順は☖7四銀☗8二飛成☖6一飛と,駒得を維持して飛車を成り込ませる順であったようです。しかし☖同銀☗同飛☖8九角成という別の駒得の順に進めたため,これ以降は先手が有利になりました。
露骨に☗6二銀と打って☖7二飛に☗7一銀不成の両取り。そこで☖4五馬と飛車にヒモをつけましたが☗7二銀不成☖同馬に☗6一角が厳しい手。☖4五馬と元の位置に戻りましたが☗5二角成☖同金☗6一飛成と先手で龍を作ることができました。
局面自体は難しかったのかもしれませんが,仕掛けられてミスが許されなかったということは,銀冠に組み替えようとしたのが危険だったということではないでしょうか。
西田四段が勝って1勝1敗。第三局は22日の午後に指されました。
『ゲーテとスピノザ主義』の第4章の2節で,ゲーテJohann Wolfgang von Goetheの小説である『若きウェルテルの悩み』が引用されています。大槻はこの小説の主人公の名前をヴェールターと表記していて,ドイツ語の読みとしてはそれが正しいと思われますが,僕はこの小説は学生の頃から『若きウェルテルの悩み』として知っているので,ここではウェルテルの方を用います。ウェルテルが書いた手紙を,ウェルテルの死後に別の人が編集したという体裁の小説です。
引用は多岐にわたっているのですが,その中のひとつに1771年5月10日,これは通算で2通目の手紙ですから小説でいえば冒頭に近い部分ですが,そこからの引用があります。その部分を引用した後で大槻は,ウェルテルが惑溺している自然の描写の中に,スピノザ的な汎神論が看取されるといっています。なお,論考の中ではこの自然というのがやや特殊な意味に用いられているのですが,この点は今は考慮の外に置きます。僕が考えたいのは,その引用部の中にスピノザの思想の影響があるのかどうかということだからです。
まず最初に確認しておかなければならないのは,スピノザの哲学が汎神論といわれるときに,スピノザの哲学はどのような意味で汎神論であるといい得るのかということと,それとは別にどのような意味から汎神論といわれるようになったのかということです。少なくともスピノザが生きていた時代に,他の思想家からスピノザの哲学が汎神論といわれるとき,そこには否定的なニュアンスが大でした。これはスピノザが神Deusを自然と同一視していること,いい換えれば必然的necessariusである筈の自然に神を貶めたということへの批判が込められた,神学的な視点が含まれていたといえるでしょう。第四部序言にみられるように,確かにスピノザの哲学のうちに,そういう批判を招く要素が含まれていたことは確かだと僕は考えます。
汎神論論争と名付けられているように,ゲーテの時代にもこの種の否定的意味が汎神論の中にあったことは確かだと思います。ヤコービFriedrich Heinrich Jaobiは神学的な観点からスピノザを批判する立場に回ったということからみても,そこに否定的意味があったことは確かではないでしょうか。
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