スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

湘南ダービー&なし得ること

2017-10-31 19:10:27 | 競輪
 平塚記念の決勝。並びは柴崎-坂口-笠松の中部,三谷-稲垣-稲川の近畿で新山と郡司と阿竹は単騎。
 笠松がスタートを取って柴崎の前受け。4番手に郡司,5番手に阿竹,6番手に三谷,最後尾に新山で周回。残り2周のホームの入口から三谷が上昇。郡司も出ていこうとするとこれを柴崎の番手の坂口が牽制。押し上げられた郡司は稲垣と接触。このために坂口と郡司と稲垣,さらに後ろの阿竹と新山も巻き込まれ5人が落車。稲川は一旦は遅れましたがバックでペースを落とした三谷の後ろに入り直し,三谷‐稲川‐柴崎‐笠松の一列棒状で打鐘。ただこれでは三谷はペースアップする必要はなく,ホームで柴崎の追い出しを受けて1コーナー手前から発進。稲川は3コーナー付近から車間を開けて対応し,直線から踏み込みました。柴崎はその外を回り,ゴール前で稲川の牽制を受けたものの差し切って優勝。半車輪差の2着に稲川。半車身差の3着が三谷。
 優勝した三重の柴崎淳選手は前回出走の豊橋のFⅠから連続優勝。記念競輪は2009年の四日市記念以来となる8年ぶりの3勝目。平塚記念は初優勝。このレースはたぶん三谷が先行するので,稲垣に有利になるだろうとみていました。実際にアクシデントがなければそういうレースになっていたのではないかと思います。坂口の牽制は僕には大きすぎたようにも思えますが,牽制によって落車してしまうかどうかはタイミングの要素も大きいので,仕方ないといえば仕方なかったかもしれません。結果云々とは関係なしに残念なレースになってしまったというほかありません

 Deusが神自身のなし得ることのすべてを知っているわけではないということはあり得ないことについては,大きくふたつのパターンに分けて考える必要があります。それは,神が何かをなすというときの原因causaが何かという観点からの分類です。
 神学的観点からいわれるように,神が神の自由な意志voluntasによってすべてのことをなすというのであるなら,神は自身のなし得ることのすべてを知っているわけではないというのは,神が何を意志しまた何を意志しないのかということを神自身は知らないという意味になります。ですがこれはおおよそ不条理でしょう。というのは,ここでの仮定には神が全能であるということが含まれなければならないからです。つまり神は意志したことに関してはそのすべてをなし得ると仮定しなければならないからです。意志が原因となってなし得ることが生じるという場合に,原因の方を知らないなら確かに結果effectusの方も知らないといわなければなりませんが,原因の方を知らないということのうちにはすでに神が全能であることを否定する要素が含まれてしまいます。なのでこの場合には神は自身が何を意志するのかということについてはすべて知っているとしなければなりません。実際にはこのようなことは論理的に示さずとも,それ自体で明らかでなければならないと僕は思います。何を意志するか分からないという場合の意志は,すでに意志といえるかどうか疑わしいと解さなければならないからです。なお,ここでいっている意志というのは,第二部定理四九系でいわれるような意志とは異なります。第一部定理三二系一から分かるように,スピノザは神に対しても自由な意志というのを否定するからです。ここでいわれている意志というのは,精神mensの自由な決意というのものを仮構した上で,それが神の本性essentiaに属するとした場合の意志です。
                                 
 一方,スピノザのように,神が本性naturaの必然性necessitasによって何事をもなすという場合には,神がなし得ることのすべてを知らないというのは,神が神自身の本性および本性の必然性のすべてを知らないという意味になります。いい換えればそれは,神自身のうちには神の十全な観念idea adaequataが存在しないという意味です。
コメント
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