第27回埼玉新聞栄冠賞。
隊列が定まったのは1周目の正面に入ってから。単独の先頭に抜け出たのはオウマタイム。カンムルが単独の2番手まで上がり,3番手はハーキュリーズ,タイムズアロー,ディアドムスの3頭。1馬身差でイッシンドウタイ,1馬身差でグレナディアーズ,1馬身差でキスミープリンスが続きここまでが大きな集団。少し離れてタマモネイヴィーとセイスコーピオン。大きく離れてヴァーゲンザイル。ハイペースでした。
向正面でカンムルがオウマタイムの外に並び掛けていくとさらにその外にディアドムス。この後ろがタイムズアローとイッシンドウタイとなり,外を捲ってきたのがタマモネイヴィーでそれを追うようにセイスコーピオン。3コーナーを回るとオウマタイムは一杯でカンムルとディアドムスが雁行に。タマモネイヴィーは3番手まで追い上げました。直線に入るところでディアドムスが一旦は前に出たように見えましたがカンムルがしぶとく粘って直線はこの2頭の叩き合い。競り勝った内のカンムルが優勝でディアドムスはハナ差の2着。単独の3番手だったタマモネイヴィーに馬群を捌いたタイムズアローが内から迫りましたが2馬身半差の3着はタマモネイヴィー。タイムズアローがクビ差で4着。タマモネイヴィーを追い掛けたセイスコーピオンは息切れして1馬身半差の5着。
優勝したカンムルは戸塚記念からの連勝で南関東重賞2勝目。6月に1度だけA2以下のレースで古馬との対戦があり,そのときは1秒6差の6着。ここは相手関係がさらに強くなり,3歳馬ながら58キロを背負っていましたから,苦しい戦いになるのではないかと思っていたのですが,それを覆しての勝利。これはここにきて馬が成長してきたと判断しなければならないでしょう。状態を維持できるのであれば,今後の活躍も約束されたようなものだと思います。Gangmulはハングルで川の水。
騎乗した船橋の左海誠二騎手は戸塚記念以来の南関東重賞制覇。名称は異なりますが第9回以来18年ぶりの埼玉新聞栄冠賞2勝目。管理している浦和の小久保智調教師は第18回,22回,24回に続く3年ぶりの埼玉新聞栄冠賞4勝目。南関東重賞に限るとこれが27勝目。
僕たちが植物といっているものは,個々の植物を認識し,それら個々の植物に共通の性質を発見した上で,その共通の性質を有する物体corpusについて名付けられた名称である場合がほとんどでしょう。スピノザの哲学ではこのような名称は一般的名辞といわれます。こういう名辞による認識cognitioは記号による認識であり,第一種の認識cognitio primi generisです。ただし,このことをもって植物一般は第一種の認識によってしか認識することができないと結論するのは早計です。
第四部定理三五は,人間は理性ratioに従う限りでは本性naturaの上で常に一致するといっています。これをいうためには,すべての人間の間で一致する本性が存在することを肯定しなければなりません。これを人間に一般の本性ということは不自然ではないでしょう。つまり人間に一般の本性は存在するといわねばなりません。すると同様に馬一般の本性も存在しなければならないでしょうし,猫に一般の本性も存在するといわなければならないでしょう。するとこれをさらに拡張することによって,それらに一般の本性を含む哺乳類の本性もやはり存在することになると思われます。哺乳類に一般の本性が存在するならそれは魚類や鳥類にも妥当しそうです。さらにそうした一般的本性のすべてを含む動物一般の本性というのもやはり存在するのではないでしょうか。
僕たちが馬とか猫とか哺乳類とか動物とかいう場合は,通常は一般的名辞であって,これは第一種の認識です。だからといってその本性が存在しないといわなければならないわけではないということは,人間の本性の例の場合から明白です。すると植物の場合にもこれと同じことが妥当しなければならないことになります。つまり,植物に一般の本性というのは存在するには存在すると考えておくべきだと僕は解します。したがって,それが現実的に存在するある人間によって,第三種の認識cognitio tertii generisによって認識されるという可能性については,それを排除する必要はないと僕は考えます。実際にゲーテJohann Wolfgang von Goetheが何を認識していたかとは別に,ゲーテにとってそれが可能であったということについては僕は排除しないということです。
ではそれはどのように認識され得るのでしょうか。
隊列が定まったのは1周目の正面に入ってから。単独の先頭に抜け出たのはオウマタイム。カンムルが単独の2番手まで上がり,3番手はハーキュリーズ,タイムズアロー,ディアドムスの3頭。1馬身差でイッシンドウタイ,1馬身差でグレナディアーズ,1馬身差でキスミープリンスが続きここまでが大きな集団。少し離れてタマモネイヴィーとセイスコーピオン。大きく離れてヴァーゲンザイル。ハイペースでした。
向正面でカンムルがオウマタイムの外に並び掛けていくとさらにその外にディアドムス。この後ろがタイムズアローとイッシンドウタイとなり,外を捲ってきたのがタマモネイヴィーでそれを追うようにセイスコーピオン。3コーナーを回るとオウマタイムは一杯でカンムルとディアドムスが雁行に。タマモネイヴィーは3番手まで追い上げました。直線に入るところでディアドムスが一旦は前に出たように見えましたがカンムルがしぶとく粘って直線はこの2頭の叩き合い。競り勝った内のカンムルが優勝でディアドムスはハナ差の2着。単独の3番手だったタマモネイヴィーに馬群を捌いたタイムズアローが内から迫りましたが2馬身半差の3着はタマモネイヴィー。タイムズアローがクビ差で4着。タマモネイヴィーを追い掛けたセイスコーピオンは息切れして1馬身半差の5着。
優勝したカンムルは戸塚記念からの連勝で南関東重賞2勝目。6月に1度だけA2以下のレースで古馬との対戦があり,そのときは1秒6差の6着。ここは相手関係がさらに強くなり,3歳馬ながら58キロを背負っていましたから,苦しい戦いになるのではないかと思っていたのですが,それを覆しての勝利。これはここにきて馬が成長してきたと判断しなければならないでしょう。状態を維持できるのであれば,今後の活躍も約束されたようなものだと思います。Gangmulはハングルで川の水。
騎乗した船橋の左海誠二騎手は戸塚記念以来の南関東重賞制覇。名称は異なりますが第9回以来18年ぶりの埼玉新聞栄冠賞2勝目。管理している浦和の小久保智調教師は第18回,22回,24回に続く3年ぶりの埼玉新聞栄冠賞4勝目。南関東重賞に限るとこれが27勝目。
僕たちが植物といっているものは,個々の植物を認識し,それら個々の植物に共通の性質を発見した上で,その共通の性質を有する物体corpusについて名付けられた名称である場合がほとんどでしょう。スピノザの哲学ではこのような名称は一般的名辞といわれます。こういう名辞による認識cognitioは記号による認識であり,第一種の認識cognitio primi generisです。ただし,このことをもって植物一般は第一種の認識によってしか認識することができないと結論するのは早計です。
第四部定理三五は,人間は理性ratioに従う限りでは本性naturaの上で常に一致するといっています。これをいうためには,すべての人間の間で一致する本性が存在することを肯定しなければなりません。これを人間に一般の本性ということは不自然ではないでしょう。つまり人間に一般の本性は存在するといわねばなりません。すると同様に馬一般の本性も存在しなければならないでしょうし,猫に一般の本性も存在するといわなければならないでしょう。するとこれをさらに拡張することによって,それらに一般の本性を含む哺乳類の本性もやはり存在することになると思われます。哺乳類に一般の本性が存在するならそれは魚類や鳥類にも妥当しそうです。さらにそうした一般的本性のすべてを含む動物一般の本性というのもやはり存在するのではないでしょうか。
僕たちが馬とか猫とか哺乳類とか動物とかいう場合は,通常は一般的名辞であって,これは第一種の認識です。だからといってその本性が存在しないといわなければならないわけではないということは,人間の本性の例の場合から明白です。すると植物の場合にもこれと同じことが妥当しなければならないことになります。つまり,植物に一般の本性というのは存在するには存在すると考えておくべきだと僕は解します。したがって,それが現実的に存在するある人間によって,第三種の認識cognitio tertii generisによって認識されるという可能性については,それを排除する必要はないと僕は考えます。実際にゲーテJohann Wolfgang von Goetheが何を認識していたかとは別に,ゲーテにとってそれが可能であったということについては僕は排除しないということです。
ではそれはどのように認識され得るのでしょうか。