千葉記念の決勝。並びは長島‐神山の栃木,山中‐海老根‐中村‐和田の関東で佐藤と志村と村上は単騎。
志村がスタートを取りにいきましたが内から中村が制し,山中の前受けに。5番手に志村,6番手に長島,8番手に村上,最後尾に佐藤という周回に。残り3周のバックから村上が上昇。少しして佐藤,志村の順で続き,長島も自転車を外に出して志村の後ろに。コーナーから直線に掛けて内に千葉の4人,外にその他の5人で併走。ホームに入ると村上が山中を叩き,志村まで前に出ると長島が山中の外で併走に。バックに入ると村上が徐々にペースを落としてまだ残っていた誘導との車間を開けました。ここら長島が上昇して村上の前に。村上が3番手,佐藤が4番手,志村が5番手,山中が6番手の一列棒状で打鐘からホームに入り長島の抑え先行に。山中が捲ってくる前にホームで村上が発進して先頭に。山中の捲りが村上も飲み込みましたが,海老根がついていかれなかったために村上の番手の佐藤が山中にスイッチ。直線は粘る山中と追う佐藤の争いに。きわどいながらも交わして優勝は佐藤。山中は8分の1車輪差で2着。直線で神山と志村の間を割って差し込んだ中村が1車身差の3着。
優勝した岩手の佐藤博紀選手は記念競輪初優勝。エボリューションでは勝っていますが昨年と今年はFⅠでの優勝もないくらいですから大金星といっていいでしょう。このレースは山中が後ろを引き出す競走をするのか,それとも自分が勝てる競走をするのかで,展開も結果も大きく変わってくるだろうとみていました。村上が早めに動いてさらに長島に被せられたからということもあったでしょうが,山中は前受けから引いての捲りに。この捲りに海老根がついていかれればまた違ったのでしょうが,単騎になってしまったために佐藤の俊敏な動きを許すことになりました。4人も乗ったのですから優勝者を出したかったであろうことからすれば,千葉勢にとっては並びも含めた作戦の失敗だったといえるのではないでしょうか。佐藤は大金星という評価ですから,真価を問われるのはこれからであると思います。
ゲーテJohann Wolfgang von Goetheが実際に何を認識していたのかとは別に,クーンの指摘がゲーテはシラーとの会話において第三種の認識cognitio tertii generisについて何事かを語っていると読解することができる場合の,第三種の認識がどのような認識でなければならないのかを考えておきます。
第三種の認識によって直接的にあるいは直観的に認識されるのは,事物の本性essentiaの妥当な認識です。このとき,事物が個別的なものを意味しなければならないのであるとしたら,人間は植物の本性を一般的に第三種の認識によって認識することは不可能であると結論しなければなりません。というのは,植物一般の本性というのは,この意味においては個別的なものではあり得ないからです。この場合に第三種の認識によって認識し得るのは,あの植物,この植物というように分節することができる,個々の植物の本性でなければならないからです。しかしゲーテが認識していたのは,この意味で個別的な植物ではありません。なぜならゲーテのこの認識は,ゲーテがスケッチしてみせたという「象徴的植物」の認識と区別して理解することはできないからです。なので,ここで第三種の認識について何かが語られているのだとしても,それは植物一般の認識についてであると解しておく必要があります。
次に,『ゲーテとスピノザ主義』では,この「象徴的植物」の認識は,ゲーテの経験から見出されたとされています。この経験が何を意味するのかは不明ですが,たとえば個々の植物の認識から帰結するような植物の一般的な本性を意味するのであるとしたら,ここでは少なくとも推論が行われているのですし,大概の場合はこのような認識は知性intellectusによって秩序付けられてさえいない毀損した認識です。よってゲーテの経験がこれを意味するのであれば,これはどんなに見積もっても第二種の認識cognitio secundi generisであって,おそらくは第一種の認識cognitio primi generisです。いずれにせよ第三種の認識である可能性はないといっていいでしょう。
ただし,この経験というのがこのように解されなければならないというものではありません。少なくとも個別の植物については直観scientia intuitivaで認識することが可能なのであり,この直観が経験そのものかもしれないからです。
志村がスタートを取りにいきましたが内から中村が制し,山中の前受けに。5番手に志村,6番手に長島,8番手に村上,最後尾に佐藤という周回に。残り3周のバックから村上が上昇。少しして佐藤,志村の順で続き,長島も自転車を外に出して志村の後ろに。コーナーから直線に掛けて内に千葉の4人,外にその他の5人で併走。ホームに入ると村上が山中を叩き,志村まで前に出ると長島が山中の外で併走に。バックに入ると村上が徐々にペースを落としてまだ残っていた誘導との車間を開けました。ここら長島が上昇して村上の前に。村上が3番手,佐藤が4番手,志村が5番手,山中が6番手の一列棒状で打鐘からホームに入り長島の抑え先行に。山中が捲ってくる前にホームで村上が発進して先頭に。山中の捲りが村上も飲み込みましたが,海老根がついていかれなかったために村上の番手の佐藤が山中にスイッチ。直線は粘る山中と追う佐藤の争いに。きわどいながらも交わして優勝は佐藤。山中は8分の1車輪差で2着。直線で神山と志村の間を割って差し込んだ中村が1車身差の3着。
優勝した岩手の佐藤博紀選手は記念競輪初優勝。エボリューションでは勝っていますが昨年と今年はFⅠでの優勝もないくらいですから大金星といっていいでしょう。このレースは山中が後ろを引き出す競走をするのか,それとも自分が勝てる競走をするのかで,展開も結果も大きく変わってくるだろうとみていました。村上が早めに動いてさらに長島に被せられたからということもあったでしょうが,山中は前受けから引いての捲りに。この捲りに海老根がついていかれればまた違ったのでしょうが,単騎になってしまったために佐藤の俊敏な動きを許すことになりました。4人も乗ったのですから優勝者を出したかったであろうことからすれば,千葉勢にとっては並びも含めた作戦の失敗だったといえるのではないでしょうか。佐藤は大金星という評価ですから,真価を問われるのはこれからであると思います。
ゲーテJohann Wolfgang von Goetheが実際に何を認識していたのかとは別に,クーンの指摘がゲーテはシラーとの会話において第三種の認識cognitio tertii generisについて何事かを語っていると読解することができる場合の,第三種の認識がどのような認識でなければならないのかを考えておきます。
第三種の認識によって直接的にあるいは直観的に認識されるのは,事物の本性essentiaの妥当な認識です。このとき,事物が個別的なものを意味しなければならないのであるとしたら,人間は植物の本性を一般的に第三種の認識によって認識することは不可能であると結論しなければなりません。というのは,植物一般の本性というのは,この意味においては個別的なものではあり得ないからです。この場合に第三種の認識によって認識し得るのは,あの植物,この植物というように分節することができる,個々の植物の本性でなければならないからです。しかしゲーテが認識していたのは,この意味で個別的な植物ではありません。なぜならゲーテのこの認識は,ゲーテがスケッチしてみせたという「象徴的植物」の認識と区別して理解することはできないからです。なので,ここで第三種の認識について何かが語られているのだとしても,それは植物一般の認識についてであると解しておく必要があります。
次に,『ゲーテとスピノザ主義』では,この「象徴的植物」の認識は,ゲーテの経験から見出されたとされています。この経験が何を意味するのかは不明ですが,たとえば個々の植物の認識から帰結するような植物の一般的な本性を意味するのであるとしたら,ここでは少なくとも推論が行われているのですし,大概の場合はこのような認識は知性intellectusによって秩序付けられてさえいない毀損した認識です。よってゲーテの経験がこれを意味するのであれば,これはどんなに見積もっても第二種の認識cognitio secundi generisであって,おそらくは第一種の認識cognitio primi generisです。いずれにせよ第三種の認識である可能性はないといっていいでしょう。
ただし,この経験というのがこのように解されなければならないというものではありません。少なくとも個別の植物については直観scientia intuitivaで認識することが可能なのであり,この直観が経験そのものかもしれないからです。